2013年6月6日木曜日

南禅院・方丈庭園に見られる「人生」の比喩

その場でしか体験できないこと

シャルトルなどヨーロッパの大聖堂に行き、その中に足を踏み入れますと私たちはまずその圧倒的な空間体験に満たされます。高い天井を支える太い石の柱が連なっていますが、決して重さは感じません。石という重たい素材を用いているにもかかわらず、そこでは上に導かれるような体験をします。
 ところが、国内に目を向けてみますと、西洋建築における壮大な空間体験を提供してくれる建物が見当たらないことに気づきます。たとえば、東大寺の大仏殿は大きな建物ですが、それはご本尊が大きいからで、大きな空間を作ることは目的とされていなかったはずです。そもそも日本建築そのものが外界と内界を隔てようとはしていません。日本人は歴史的に内部空間に対する関心は薄かったのかもしれません。しかし、庭園に対する意識は非常に高かったのです。ヨーロッパ建築に対し内部空間体験があるとするなら、日本においては庭園体験がそれに匹敵する密度を持っているように私は思います。

アプローチ

南禅院に向かうにあたり、まず三門で有名な南禅寺を通ります。参道の入り口から山門を見ますと、50mほどの石畳の道の先に階段があり、その先に巨大な三門がります。一見しただけでは気づきにくいのですが、その石畳の道はわずかな登りになっています。そして、その先に階段がありますが、こうした階段の段数に注目したことはあるでしょうか?ここは八段で、上に行くにしたがって踏む場所がわずかに狭くなっています。

 そこから少しいくとさらに三段の階段があり、三門の軒下に入ります。その中央には高さ50cmほどの敷居があります。それをまたぐと下りの階段が三段あり、そこから法堂に向かう道が90mほど続きます。この道は途中で勾配が変わるので、途中で上に向かって折れているように見えます。しかし、実際には道の始まりからわずかに上に向かい、途中からさらに勾配が急になっています。また、三門上で不思議なことを体験します。三門までの道と三門から法堂への道が一直線上にはなく、三門のところでわずかに右に折れているのです。

三門へ向かう道、あるいは三門から法堂に向かう道がやや登り勾配になっていると書きましたが、世界には他にもわずかな登り勾配を持つ場所があります。その一つはシャルトルの大聖堂です。西側から建物内部に入りますと、30mほど先にラビリント(迷路)があります。その建物の床30mがわずかな登り勾配になっているのです。



 もう一つ私が知っているのがドルナッハのゲーテアヌムです。ゲーテアヌムの西口(正面)に向かって50mほどのアプローチがあります。その道がわずかに傾斜していて、わずかな登りになっています。


 入り口や祭壇に向かってわずかな上り坂をつけてある場所があり、それが禅宗のお寺、シャルトル大聖堂、ゲーテアヌムなのです。これらはみな、内的な修行と関係しています。つまり、修行の道とは何らかの意味で「上昇」を必要とすることを、この傾斜は語ってはいないでしょうか。
 さて、階段は八段でした。仏教で「八」と言ったら、ある大切な教義を思い出します。正見、正視、正語、正業、正命、正精進、正念、正定からなる修行の道、八正道です。
そして三門に至っても、さらに身を高みに引き上げ、意識を持って高い敷居をまたがねばなりません。そして、しきいをまたぐと同時に、進む方向がわずかに右に変わります。決意を持って身を持ち上げ寺の道に入り、また寺に入ることで道の方向が少し変わるのです。
 参道の入り口から法堂に至るまでに、私たちは身体で上述のような体験をするわけです。そしてそれは、修行に入る際の内的体験とも重なり合うのです。

南禅院、方丈庭園

法堂の前で道を右にとりますと、煉瓦造りの美しいアーチの連続が見えてきます。琵琶湖疎水の分流です。それをくぐり階段を上ると南禅院の入り口にたどり着きます。本来の出入り口は閉じられ、それより左側に拝観券売り場がありそこで拝観料を支払って建物横から方丈庭園に入ります。


 建物の縁側を左に、そして右には苔の小さな原とその奥に池(下池)が見えます(池は建物西側)。縁側沿いの小道を進んでいくと南側に視界が開け、そこに美しいもう一つの池(上池)が見えます。


多くの人は上池の美しさに目を奪われ、下池については存在すら忘れてしまいがちです。しかし、方丈庭園を訪れたらなら、ぜひ下池にも向かい合ってみてください。そして、上池と向かったときと下池に向かったときの内的体験の相違を感じ取ってみてください。好き嫌いで言ったら、ほとんどの人が上池をとるでしょう。しかし、これらは二つで一つなのです。言い換えるなら上池体験と下池体験が対になっているのです。長調・短調体験、黄・青体験と同じ意味で対なのです。


上池を正面から見ると、右奥に滝があり、それが少し池の上方で流れてから上池に流れ込みます。池を時計回りに巡って滝を近くから正面に見ますと、その水の流れに左側から合流するように水路があります。特別な日には水が流れていて、池に入る前に2つの水路からの水が合流しています。この2つの流れの合流というのは、南禅寺で偶然に実現しているのではなさそうです。同じ臨済宗の庭園である天龍寺の大きな池でも、背後にまわると2つの水が合流しています。
 そうして上池に水が流れ込みますと、そこには鯉が泳いでいます。下池には魚はほとんど入り込みません。一方には命の営みがあり、もう一方にはそれがわずかしかありません。また、池泉回遊式庭園の名の通り、上池はその全体を回遊散策し、池をあらゆる方向から見ることができます。それに対し、下池の背後は急な斜面で、そこに後ろ側から近づくことはできません。それぞれの池には島が配置され、それは「心」の字になると言います。
これらの特徴をまとめますと以下のようになります。
ここでは言葉を用いて説明しなくてはなりませんが、現地へ行ってみればすべてが当たり前とも思えるような体験となるでしょう。
  • 二つの流れが合流し、小さな滝となって上池に水が入る。
  • 滝は東奥にある。
  • 上池は明るい印象で、鯉が泳いでいる。
  • 池の中には島が「心」の字に配されている。
  • 上池の島には数本の木があるが楓が最も大きく、池の外の楓を枝先が触れ合う感じで、島に上部から何かが流れ込む印象がある。


  • 上池はあらゆる方向から見ることができる。
  • 橋をくぐると下池になる。



  • 下池は西側にあり、背後が急斜面であるために、暗く静かな印象を受ける。
  • 下池の島では松の木が最も大きく、常緑の葉が木の上部だけに付いている。そのため、島から何かが上昇しているように見える。



 これらの事柄は、この方丈庭園があることの比喩であると考えると見事なつながりを見せます。つまり、この庭園は人生そのものなのです。二つの流れが合流して誕生し、心を宿し、意識の明るさの中でそのすべてを味わうのです。木を見ても周囲から何かが流れ込む動きをつくりだすように造園されています。そして、境界を越えた世界に入りますと、そこは静かで、しかもその全体を現状で見渡すことはできません。そして、その島からは何かが上に解き放たれるかのようです。それは、死後の人間の霊であるかもしれません。
 南禅院、方丈庭園での体験は私にとっては驚くべき芸術体験ですし、これは世界に誇れるものであると私は思います。そして、そんなにも素晴らしい場所が近所にあることも大きな喜びです。ここを訪れると私は真の「美」を体験します。みなさまも、機会がございましたらぜひご覧になってください。
 庭園は季節と共にその姿を変えます。季節ごとの庭園を訪れ、それを味わう贅沢もよろしいかと思います。
















クリュニュー美術館蔵『貴婦人と一角獣』展

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パリのクリュニュー美術館所蔵、『貴婦人と一角獣』の六枚のタペストリーが東京と大阪で展示されます。16世紀のものとされ、クリュニューのご本尊とも言えるこの作品が日本で観られる機会は、おそらく私が生きているうちには二度とないでしょう。たぶん、美術館の改築などがあって、その間、作品が世界を巡回するのだと思います。

通説

六枚の内、五枚は嗅覚、聴覚、視覚、触覚、味覚の「五感」を表したものと言われています。そして、一枚には青いテントが描かれ、そこに「我が唯一の望み」という文字が掲げられています。これをテレビで「第六感」と言っていた学者が居ましたが、何を根拠にそのように言うかは明らかにしませんでした。




いずれにしても、「これは視覚を表している」で終わってしまっては、観賞は深まりません。少なくとも、「これは視覚の○○な側面を示している」といった内容が必要でしょう。

便宜上のグループ分け

こうした連作を観る場合、「一角獣が右に居る」といった、そこに見られるさまざまな現象をまず観察し、それらをしだいにまとめていくことで、作品の背後にある思想が浮き上がってくるとしたら、それが理想です。そのためには、訳も分からないまま、全体を観たり、細部を観たりしながら、そこに現れるものを集めていかなくてはなりません。これはかなりの忍耐力と記憶力を要します。ここでは紙面も限られていますので、そうした観察事項を整理するための枠組みを《仮のもの》として提示し、とりあえずはその枠に沿って現象を整理しながら、観察を進めていきます。

6=3+1+2

全部で6枚ですが、その内の4枚では両側に旗が掲げられています。旗のポールは槍のようです。しかし、その内の3枚では、旗のポールである槍を垂直に支えているライオン(左)と一角獣(右)がそれらを外側から支えています。そして、1枚だけ(聴覚と言われるもの)、ポールは内側から支えられています。
別の2枚では、ポールはライオンが支える左側だけで、一角獣は貴婦人の近くに歩み寄っています。(視覚と触覚)

「嗅覚」と「我が唯一の望み」の比較



この一連のタペストリーにはいくつかのモチーフが共通して描かれています。すべてに登場するものもあれば、数枚に登場するものもあります。《貴婦人》《一角獣》《ライオン》《侍女》《猿》《愛玩犬》などです。また、《鏡》や《テント》など1枚にしか現れないものもあります。
「嗅覚」と「我が唯一の望み」を比べますと、構図が対称になっていることに気づくでしょう。左にライオン、右に一角獣、中央に貴婦人という配列は変わりませんが、「嗅覚」では侍女が左で台に乗った猿が右にいます。それに対し「我が唯一の望み」では侍女は右で左には台に乗った愛玩犬が描かれています。
「嗅覚」の細部を観てみましょう。貴婦人はやや左を向き、頸をやや左に傾け、右手(左側の手)の親指、人差し指、中指で花の茎の部分を持ち、手のひらを前に向け、花を右側に向けています。そして、左手には冠を持ち、花を冠に付けようとしているようにも見えます。実際に花を付け加えるとしたら、決してこのような姿勢にはなりません。それでも、貴婦人のこの姿勢は真似してみるに値します。この右手のしぐさでは、外に向かって自分が開いていることを、左手のしぐさでは反対に閉じていることを体験するはずです。音楽オイリュトミーで言えば外に向かう長三度と内に向かう短三度の体験です。女性の視線は手元の花に向けられ、意識もそこに注がれているかのようです。


指先に集中する貴婦人。その両手の質の違い。奔放な猿。
婦人の外スカートは向かって左側が大きく折り返され、左に向かって開いています。侍女の外スカートは後ろが折り返され、後ろ(画面左)に向かって開いています。その中からは赤い内スカートが左斜め下に伸び、柱(槍)の線を越えてライオンに近づいています。
婦人の右側には木製の台があり、その上にはかごに入った花と花を手にして匂いを嗅ぐ猿が描かれています。この猿のしぐさからこの作品は「嗅覚」と呼ばれます。
旗を支えるライオンの表情は穏やかで満足げです。一角獣の方は、視線を貴婦人に向けるものの、目は合わず、ライオンに比べると悲しげにも見えます。
こうしたモチーフがやや濃い色で表現された土俵のような地面の上に描かれています。この地面の中には特別な枠などは見られません。
左右に描かれた4本の樹も何らかの意味を持つと思いますが、現状では私自身が適切な関連を見いだし切れていないので、今回の考察からは外しておきます。

「我が唯一の望み」

続いて「我が唯一の望み」を見ましょう。


中央には貴婦人が居ますが、他の作品では身につけていた首飾りを外しています。そして、それを右側の侍女が持つ宝石箱の中に入れようとしています。仕舞っているのか取り出しているのかは、静止した絵だけでは判断しにくいのですが、その辺りは芸術家が適切に表現しています。つまり、貴婦人は首飾りと思われる宝石を直接手では触れず、白い布に乗せています。さらには貴婦人の左手は親指が下を向き手のひらが外に向く方向です。このしぐさも実際に真似しますと明らかに体験できますが、仮に左手も小指が下に来る方向で布を持ったとしますと、腕と手との空間を「内側」と体験し、首飾りがより所有物と感じられるはずです。
「貴婦人が宝石を取り出し、結婚に備えている」という説もあるらしいですが、それはあり得ません。貴婦人の髪を見ればそれが明らかです。耳元にかかっている髪は他の作品に比べて明らかにボサボサです。外見や宝石といったものから関心がなくなっている様子を表していると考えてよいでしょう。
貴婦人の目は大きく見開かれてはいませんが、視線は侍女を介して一角獣の方に向いています。一角獣は目を大きく見開き、貴婦人を見据え、穏やかで満足そうな表情です。それに対し、ライオンは舌を出し怒ったような表情を見せています。
貴婦人の外スカートは左側がやや多めにたくし上げられていますが、「嗅覚」ほど「たくし上げられている」という感じはありません。侍女のスカートの裾先は、微妙に一角獣側の柱を越えて描かれています。
貴婦人の(向かって)左側には愛玩犬が描かれていますが、これは台の上の優雅なクッションの上におとなしく座っています。猿は貴婦人の足下に小さく描かれていますが、とてもおとなしそうです。ライオンの後方に描かれた犬は首輪をしています。
これらも「嗅覚」と同様、土俵のような地面に描かれていますが、中央の青いテントがどの土俵内に別な空間を作り出しています。そして、その青いテントは一角獣側とライオン側をつないでいます。
このように両者を比較しますと、かなり意識的に《対称》に描かれていることがわかると思います。

一角獣とは

ここに描かれた白い一角獣は、当然ながら実在の動物ではありません。馬に近いようにも見えますが、蹄は二つに割れ、偶蹄目的で馬とはまったく違います。そして、長い角が額から一本だけ生えています。
ここで、色としても最も軽い色で描かれた架空の動物が表しているのは《非物質性》ではないか、と仮定したいと思います。それに対しライオンは、物質的世界を表していることになります。実際、空間のシンボルとしてはライオン、時間のシンボルとしてはウシが描かれ、通常、ライオンは向かって左です。(シャルトル大聖堂西面の上部、ゲーテアヌム西窓の赤のステンドグラス)もう一歩踏み込んで言ってしまえば、ライオンは物質界のシンボル、一角獣は精神界のシンボルとも言えるでしょう。



そして、侍女は《使い》です。「嗅覚」では物質界側からの使いであり、「我が唯一の望み」では精神界からの使いと言えるでしょう。
それでは、猿や愛玩犬は何を表すのでしょうか。ご承知のように動物を英語で言えばアニマルです。この語源となったラテン語の「アニマ」は人間の魂や心を意味する語でもあります。実際、私たちの心の中には獣性とも言うべき、食欲や性欲といった種々の欲望が満ちています。しかし、教養ある人間はそうした欲望を野放しにはしません。食事にしても、皿の上の肉にいきなり噛みついたら獣と同等で、テーブルマナーとしては最悪です。しかし、それをナイフで切り分け、フォークで口元まで持って行くことで《人間化》することができるのです。このように考えると、猿は野放しの欲望、愛玩犬は人間化された欲望と捉えることができるでしょう。実際、猿はたとえばミケランジェロの『瀕死の奴隷』の足下にも現れます。この奴隷とは、主人にこき使われる奴隷ではなく、「物質界の虜になった人間」を意味します。そして、その背後には猿、つまり野放しの欲望があるのです。


この視点で「嗅覚」を見ますと、貴婦人の意識は完全に物質界を向き、精神界を悲しませています。そして、精神界との間には猿=野放しの欲望が邪魔をしているのです。それに対し「我が唯一の望み」では、貴婦人は精神界に向き初め、猿はおとなしくなり、物質界との間には愛玩犬=人間化された欲望が介在しています。ライオン君はやや不満そうですが。

いわゆる「味覚」




物質界と精神界の間に立つ人間、という構図で「味覚」と呼ばれる作品を見てみましょう。
左右にはライオンと一角獣が居ますが、両者とも立ち上がっています。両者ともマントを羽織っています。よく見ますと、一角獣のマントは奥で大きく上に跳ね上がり、手前も上を向いています。一方、ライオンの側では奥の跳ね上がりは少なく、手前側は下に向いています。また、ライオンは怒った表情を見せ、一角獣は角をまっすぐに立て、鑑賞者の方をしっかりと見据えています。このことから、ライオンと一角獣、言い換えると物質界と精神界の優劣関係は明らかだと思います。
侍女は左側に居て、果実の入った柄付きの皿を持ち、ひざまずいています。衣の裾はライオン側の柱より左側まで伸びています。猿は貴婦人の足下にいて口に何かを運んでいるようですが、おとなしくはしているようです。愛玩犬は貴婦人と一角獣の間にいて、貴婦人の衣の裾に乗っています。とはいうものの、非常に低い位置で貴婦人の視界には入っていません。
中央に立つ貴婦人は左手に手袋をし、鳥を止まらせています。そして、右手では侍女が持つ皿から円い実をつまみ上げているが、そちらは見ていません。貴婦人の手に止まった鳥は、その右足に円い実を持ち、口に運んでいるように見えます。



これらは土俵のような地面の上に描かれているが、その土俵の中には花のついた生け垣があり、空間をやや限定しています。この生け垣は一角獣側からライオン側までを包括しています。ただし、ライオン側の柱(槍)よりも左側では色がやや暗く表現されています。
この作品では、貴婦人の意識は完全に精神界に向いています。しかし、一角獣とは視線が合っていないので、つながってはいないのかもしれません。左手に止まった鳥は精神界から舞い降りた使者と考えることができるでしょう。そうだとすれば、貴婦人は物質界側のもの(皿の中の実)を精神界に役立てる仲介者になっていると言えるでしょう。

いわゆる「触覚」



次に「触角」と呼ばれる作品、貴婦人が一角獣の角に触れている作品を見てみましょう。
この作品では、まず鉛直方向の線が際立っています。左右の樹はもちろんですが、旗(槍)、一角獣の角、貴婦人の姿勢、貴婦人の冠、ライオンの姿勢といったものの中に、鉛直の方向性を感じます。しかも下に垂れるのではなく、重さを克服した力がそこには表現されています。また、一角獣もライオンも、ニュアンスこそ違うものの満足げな表情を浮かべています。
貴婦人の視線の先をたどっていきますと、この作品において決定的な事柄が見えてきます。そこには猿が居ます。ところがその猿は鎖につながれ、さらにその鎖の先には重りが付けられています。それに気づきますと、貴婦人の上部に描かれたさらに4匹の動物にも、首輪や胴輪が付けられているのが見えてきます。


精神界からの力によって重さを克服し、動物=アニマ、つまり心の中の獣性を支配下に置く様子が描かれていることは明らかでしょう。ここで私が言う重さとは、単に物質的な重さだけではなく、心の中の重さ、つまり物に惹かれる傾向、現状に安住する傾向なども含めて解釈することもできるでしょう。

いわゆる「視覚」


「視覚」という作品では、一角獣が前脚を貴婦人の膝の上に乗せ、大きく目を見開いて貴婦人を見つめています。一方貴婦人は右手に鏡を持ち、その鏡には一角獣が映っています。左手で一角獣の頸を巻き、両者の親密な関係が示されています。しかし、貴婦人の目は半開きに過ぎず、見えているのか見えていないのか判然としない様子を示しています。一方ライオンは、旗を支えてはいるものの、左を向き、貴婦人や一角獣には何の興味も示していません。
この作品を読み解くには、精神世界についてのいくつかの知見が必要になってきます。私はそうした知見をルドルフ・シュタイナーの精神科学から学んでいますが、基本的な内容は人類の歴史の中で脈々と受け継がれてきたものだと思っています。つまり、20世紀の書物から学んだことであっても、それが真実であるなら、真実として16世紀にも知られていたと仮定しておきます。
シュタイナーによれば、精神界の高次の秩序は、意識はされないものの、人間全体、特に四肢代謝系に密に流れ込んでいます。たとえば、口から摂取したデンプンがアミラーゼなどで糖にまで分解され、腸で吸収され、肝臓でグリコーゲンとして蓄積されます。それは必要に応じて血液を介して、それを必要とする細胞に達し、その細胞で解糖系の代謝を経てピルビン酸に至り、それがさらにミトコンドリアの膜構造と密接に関連したクエン酸回路で分解されエネルギー源となります。これらのプロセスは、健康体ではすべて適切な時と適切な量で秩序正しく進行していきます。これらの莫大な法則性、莫大な叡智を私たちは意識できません。シュタイナーはこうした法則性も精神界の産物であると言います。なぜなら、法則性は物に具現化することはあっても、法則そのものを見たり聞いたりすることはできない、言い換えれば物質界のものではないからです。
ここで述べましたように、精神界の諸法則は物質界に反映はされます。そのことをこの作品では、鏡に映った一角獣の姿として表現しています。一角獣そのものは見えなくても、一角獣の写しは物の法則として認識できるのです。

いわゆる「聴覚」



画面の中央には台の上に乗った小型オルガンがあり、貴婦人はそれを左側から演奏し、侍女が右側からふいごで空気を送っています。オルガンの奥側、つまり低音側にはライオンの彫り物、高音側には一角獣の置物が乗っています。
この作品にしか見られない大きな特徴は、柱(槍)を支えるライオンと一角獣が内側から支えている点です。さらに注意深く見るなら、一角獣の胴体は異様に太く、その太いままに侍女の後方で長く伸び、構図的には侍女とつながっています。それに対し、ライオンは身体を柱に寄せ、その背中は貴婦人にまで達してはいません。
ところで、ルドルフ・シュタイナーは音楽について、当たり前ではあっても、核心的な点を指摘しています。つまり、絵画や彫刻といった芸術では、抽象表現が現れるまでは、基本的に自然界、物質界の存在が題材だった、というのです。簡単に言えば、花や鳥、風景、人物などが題材で、とりあえずは物質的外界の模倣として表現されます。ところが音楽はまったく違います。20世紀に入って、メシアンが鳥の鳴き声を音楽の素材にしたにしろ、バッハやモーツァルトは物質界には何のお手本も求めずに作曲をしているのです。彼らにとって「曲は降りてくる」ものだったと言ってよいでしょう。つまり、絵画や彫刻ではとりあえずは物質的自然界を手本にするのに対し、音楽では初めから非物質的なもの、いわば精神界の秩序が手本となって表現されているのです。その意味で音楽は精神界と近い芸術です。そして、瞬時に空間に消えて行き、物体として持つことはできません。
また、芸術の役割は精神界の真実を作品として物質化することにあります。それをミケランジェロは「手が描くのではない、インテリジェンスが描くのだ」と表現し、パウル・クレーは「絵画とは、目に見えるものの再現ではない、見えるようにすることだ」と表現したのです。
この「芸術=物質界と精神界をつなぐもの」という真実を、この作品ではライオンと一角獣が同じ側に居ることで表現しているように私には思えます。さらには、音楽の持つ特殊性、つまり精神界を故郷とし、物質性は極限まで少ないことが、一角獣とライオンの姿勢に表現されているのです。
この作品では、左右の樹木が旗やライオンや一角獣で隠されています。これも音楽芸術の特性と関係する可能性があります。つまり、外界の自然とはあまり多くのかかわりは持たないのです。
ちなみに私たちは、低音と高音ではどちらにより物質性、あるいは精神性を感じ取るでしょうか?天使の歌声は高音と相場が決まっています。また、腹に響くのは低音です。そのことがオルガンの飾りにも表現されています。