2014年5月31日土曜日

魔女の魔方陣 from 『ファウスト』

 
魔女の魔方陣(九九)
ゲーテの『ファウスト』第一部でファウストが若返りのためにメフィストフェレスと共に魔女を訪れるシーンがあります。そこで魔女は以下の不思議な呪文、「魔女の九九」を唱えます。 この魔女の九九の意味をシュツットガルトのシュタイナー学校教師であったエルンスト・ビンデル氏が『Geistige Grundlagen der Zahlen』で興味深く説明しています。
魔女の呪文はこうです
汝、こう心得よ
1は10にし
2は通り過ぎ
3は同じまま
すると汝は金持ちだ
4は失われ
5と6を
と魔女は言う
7と8となせば
これで完成。
9は1にして、
10は存在しない。
これぞまさに魔女の九九
これに沿って、表を変形していきます。
出発点として、1から9までの数字を3×3のマスに入れます。

1 2 3
4 5 6
7 8 9
「1は10にし、2は通り過ぎ、3は同じまま」に従い、数を変えます。

10 2 3
4 5 6
7 8 9
「すると汝は金持ちだ」というのは、10、2、3を加えると解釈すると、合計は15になります。
引き続き、「4は失われ」は4を0とし、「5と6を7と8となせば」を5&6を7&8に置き換えると考えると以下のようになります。

10 2 3
0 7 8
5 6 9
「これで完成」ということなので、つじつまを合わせて9を4に変更し、行や列の和が15になるように調整します。
10 2 3
0 7 8
5 6 4
「9は1にして、10は存在しない」というのは、9マスで一つのまとまりをなし、10マスからなる正方形は存在しない、と解釈できます。
こうして魔女の九九(魔女の魔方陣)が出来上がります。
この魔方陣において縦横を加えて見ますと、きちんと15になります。右上から左下にかけての対角線も15です。
10 2 3
0 7 8
5 6 4
ところが、最後の左上から右下の対角線では10+7+4=21となり、魔方陣の法則が崩れています。
魔女というのは、すべて嘘をつくわけではなさそうです。
正しいことの中に、少しウソを混ぜるのかもしれません。

■ 数学・算数関連の一覧











2014年5月30日金曜日

二乗数の中の二乗数=25

■13と正方形

13個のオハジキを正方形に並べる

という問題は、私のお気に入りの一つです。通常では、13という素数と正方形という規則正しい形が結びつきにくいからです。
けれども、試行錯誤するうちに答えが見つかることもありますし、ちょっと論理的に考えて答えを見出す人もいます。設問の図では、
すでに9個で3×3の正方形ができているから、それに残りの4つを加えて正方形になるとしたら、四方向に均等に拡張するはずだ
と考える人もいるでしょうし。あるいは、
13を4で割ると1余る。なので、これで正方形ができるとしたら、中心に1つあるはずだ
と考えた人もいらっしゃいました。

下の解は、設問の状態に4つを加えただけです。

■法則を見つける

また、部分的に色を変えると、構造が見やすくなります。


黄色のオハジキが4つ、青いオハジキが9つ、重なりあっています。つまり、22+32 =13 になっています。
この構造を小さい順に並べますと、
02+12
12+22
22+32
32+42
42+52
52+62
となっていきます。
解答の外側に12個加え、32+42にすると、このようになります。



さて、32+42=25=52 ですので、正方形で表現できます。この状態から、52の状態にしてみましょう。


最小限ですと、オハジキを4つ動かせば可能です。

このように、25という数字は、二通りの仕方で正方形に並べることができます。
私はこれで、中学校で学んだピタゴラスの定理の数式、32+42=52  が少し違って見えてきました。

■発展

さてこの、n2+(n+1)2 という構造の数字で、25以外にそれが二乗数になることはあるでしょうか?
高校生くらいの知識があれば、関係を式に表して、それを見つけることもできます。
202+212=841=292
これ以上になるとコンピューターの力を借ります。
1192+1202=1692
6962+6972=9852
となります。これ以上の数字でもいくつか見つかりそうです。
プログラムを書けば、Excelでも探すことができますし、数学の好きな子へのちょっとした課題かもしれません。

■参考


■ 数学・算数関連の一覧





























2014年5月27日火曜日

二乗数の美しさ

数の美しさ

■足し算を分割で学ぶ

シュタイナー学校では、シュタイナー自身の助言に従い、足し算を「分割」という方法で教えます。 つまり
5+7=12
ではなく、
12=5+7
という方向です。
このようにしますと、次のような利点があります。
  • 生きているものは、基本的に「全体から部分へ」である。
  • 認識論的にこちらの方が正しい。ちなみに、カント哲学では5+7の方向で考える。
  • 実際にやってみると、教室に生き生きした雰囲気が生まれる。
  • 一つの答に満足せず、多くの可能な答を求める姿勢が培われる。

■数の美しい《分割》

さて、数の分割というテーマでも「目に見えない美しさ」に対する姿勢を培うことができます。
マンハイム、シュタイナー教育教員養成ゼミナール元代表のエルンスト・シューベルト先生が紹介してれた方法です。
10を美しく分けてみよう」と問うのです。
5+5、3+4+3、などの可能性があるでしょう。 その中でも
10=1+2+3+4
は美しいものの一つでしょう。

■9の分割

9も美しく分けることができます。
9=3+3+3
も美しいでしょう。さらには、
9=1+2+3+2+1
これも美しい分割です。 一つの視点として、分割に秩序があると人間は美しさを感じるようです。
この分割は、階段状に上って、降りる形です。
1+2+3+2+1
この階段を一つ増やし、4までにしたら、下のようになります。
1+2+3+4+3+2+1=16
さらに階段を高くし 5 までの増減にしますと、
1+2+3+4+5+4+3+2+1=25
これはすぐにわかるように、9=3×3とか16=4×4、25=5×5とも表現できますので、2乗数と呼びます。
2乗数の世界
この2乗数は振る舞いがエレガントで、貴族の数と呼び人もいます。
9=3×3といった2乗数を点で表しますと、正方形に並べることができます。

さて、9は下のようにも表現できますし、さらには16も同様です。

9 = 1+2+3+2+1
16=1+2+3+4+3+2+1

どうしたら、これを正方形の図形に結びつけることができるでしょうか?
(空行を入れておきます)
 
 
 
 
答えを知ればその理解は簡単
答えは簡単で、正方形を45°傾ければよいのです。

こうしますと、正方形としても対角線を軸とした対称性が強調されます。それが、数の分割による対称性ともつながります。


この関係は、私が1993~4年ごろ、ウリーン著『シュタイナー学校の数学読本』を翻訳しているときに発見し、機会ある毎に「数学の美しさ」や「目に見えない美しさ」の例として紹介してきました。それが現在では、いくつかのシュタイナー学校では定番の教材になっているようです。
 

奇数の和

1,3,5,7,9,11,13,15,17,19・・・という奇数を次々に足していくとどうなるでしょうか?
1=1
1+3=4
1+3+5=9
1+3+5+7=16
1+3+5+7+9=25
1+3+5+7+9+11=36
1+3+5+7+9+11+13=49
1+3+5+7+9+11+13+15=64
1+3+5+7+9+11+13+15+17=81

この和も二乗数になります。このことは図形で次のように表されます。





(前述のウリーン著『シュタイナー学校の数学読本』)

この関係は、高校で学ぶ数列に関係する、「数学的帰納法」の定番問題です。


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見える美と、シュタイナー教育が目指す見えない美

■二人のヴィーナスの素性

プラトンの『饗宴』には、パウサニウスの話として、二人のヴィーナスが紹介されています。

・ウラニアのヴィーナス

宇宙の神ウラノスは大地の女神ガイアと交わり、子どもをもうけますが、ウラノスはそれをことごとく殺してしまいました。それでもガイアは我が子を密かに洞窟に隠し、ウラノスの手から子どもを守りました。

そしてあるとき、ウラノスがガイアと交わろうとして降りてきたところを、その子どもの一人であるクロノスが大鎌を振るい、そのペニスを切り落とし、海に投げ入れたのです。するとそこから泡が立ち上り、女神ヴィーナスが生まれた、というのです。これがウラニアのヴィーナスです。
the-birth-of-venus-1485
・パンディモスのヴィーナス

ゼウスとディオネの間に生まれた女神で、結婚の神とされています。

■二人のヴィーナスのより深い解釈


この二人の素性について、ネオプラトニズムの哲学者プロティノスが興味深い考察をしています。つまり、ウラニアのヴィーナスの方は、叡智の直接の娘であり、物質界(感性界)と関係しない女神だと言うのです。

ラテン語では、《母=mater》(マーテル)ですが、これは《物質=Materie》と同じ起源です。「母がいない」というのは「物質と関係しない」という意味でもあるのです。

このことから、ギリシャ時代から2人のヴィーナスに象徴される二種類の《美》が知られていたと思われます。実際、《美》には二種類あります。つまり
  • 物質的であり、目で見ることのできる美(物質的・感覚的な美)
  • 物質とはかかわらず、目で見ることのできない美(精神的・霊的な美)
前者については、誰もが知っているでしょう。しかし、後者を体験するには、精神的なものに対する感覚を育てなくてはなりません。そして、数学とは、そうした美に対する感覚を育てるための重要な一分野なのです。(このblogの数学関係の内容は、すべてこの方向を意識しています。)
『数学セミナー』という雑誌には、専門家が出題し、読者に解答を求めるページがあります。そのページは「エレガントな解答を求めます」というコーナーです。同じ解答でも、無骨なものも、エレガントなものもあるのです。

あるいは、芸術作品でも、見える美しさがその作品の価値を決めるのではなく、見えない美しさこそが価値を決めると言ってもよいでしょう。当然ながら、両者を兼ね備えた作品もありますが、見える美に傾きがちな人間を見えない美に目覚めさせるべく、見てくれは決して美しくない芸術作品も二十世紀以降、数多く創作されてきました。たとえば、マルセール・デュシャンの『泉』です。これは、世界の美術評論家の投票でピカソの『ゲルニカ』を抑えて1位を獲得した、二十世紀最高の芸術作品と言われるものです。間違いなくスリリングで天才的な作品ですが、その姿は決して美しくはありません。

シュタイナー教育が希求する美は、間違いなく目に見えない美です。目に見える美も無視することはありませんが、それはあくまでも、目に見えない美への橋渡しの役割しかなく、それが自己目的化することはありません。

■資料、プラトンとプロティノスの抜粋(共に、中央公論社刊、世界の名著より)

プラトン『饗宴』(アプロディテ=ヴィーナス)
[プラトン] 饗宴より
プロティノス『エロスについて』
[プロティノス]プロティノス

2014年5月26日月曜日

ちょっと不思議な魔三角陣

■三角形の数字配列、魔三角陣

次の問題を考えてみてください。
下の図の6つの空欄に1から6までの数字を入れ、各辺上に並んだ3つの数の和が等しくなるように配置してください.

非常に簡単なものでよいですので、実際にカードを作り、動かしながら、試行錯誤をしながら考えますと、こうした問題も負担が軽くなります。



鏡像関係のものは1つにカウントした場合、答えは4通りです。ただ、小学生低学年なら鏡像は別の解として、多くの発見を喜んであげましょう。
(自分で考えてみると、さらに興味深いかもしれません。空行を入れておきます。)




















■答え

それぞれ,各辺の数の合計が違い,9,10,11,12 になります.ここまでは、ネットに公開されていた内容を借用させていただいています。


■法則を見つける(ここからの展開は森章吾の創案です。)
4種類の解答をよく観るといくつかの法則が見つかります.
合計が9になるものでは,1,2,3が頂点に来ていますし,12になるものは4,5,6が頂点です.
また,10になるものでは頂点が1,3,5の奇数ですし,11になるものでは2,4,6の偶数です.
したがって,合計9と合計12では,この6つの数字を円周上に並べたとしますと,の並びはまったく同じです.
同様に合計10と合計11も数字の並びは同じです.
ですから,合計9と合計12,あるいは合計10と合計11は相互に交換できます.
つまり,青の矢印のように動かすのです.すると,右側の逆三角形になります.






相互変換できるのは 9⇔12 関係と 10⇔11 関係です.この二つの数を加えると9+12,10+11で,共に21になります.
ところで,1から6までの数の合計は1+2+3+4+5+6=21です.

■出典などについて

三角の魔方陣については、「三角&魔法陣」で検索すると、いくつかのサイトにヒットします。
本来は、「不思議な」=「魔」、「四角形」=「方陣」の意味なんですけれど、なぜか「魔法」の「陣」になっていることが多いです。

■ 数学・算数関連の一覧

2014年5月24日土曜日

デューラー魔方陣の秘密


■木星の魔方陣


アルプレヒト・デューラー(Albrecht, Dürer 1471.5.21.-1528.4.6.)の『メランコリア・I』という作品です。
その右上には4行4列マスに縦、横、斜め、どれを足しあわせても同じ数になる魔方陣が描かれています。

さらには、この魔法陣の中でデューラーは15と14を並べ合わせ、制作年の1514年を書き込んでいます。

この絵の内容は『メランコリー』で、それには《土星》が関係するそうですが、その力を柔らげるために、この魔方陣の持つ《木星》の力を加えているのだそうです。

■算数によって解明される不思議な性質


4×4のマスを子どもに与えて、この魔方陣の配列を求めさせるのは少し難しすぎると思われます。実際に計算するとしたら、3×3くらいにとどめておいた方が無難です。その後で、この魔方陣を完成形として紹介します。


1から16までを加えますと、136になり、それを4で割ると、一行、あるいは一列の合計数34が出ます。この魔方陣では、当然ながらどの行も列も、さらには対角線も合計は34です。
ここで幾何学的な視点でこの魔方陣を見ます。各マスの点を置くと、図のように、16個の点になります。この中から4つの点を選んで、正方形になるようなものを探します。



これらの4つの正方形の頂点に位置する4つの数字を足します。たとえば、左上の正方形では16+3+5+10で、これも合計が34になります。


残りの3つの正方形でも同様です。
このように、正方形の頂点に当たる数字を加えると34になる場合が12通りあります。
さらには、長方形、菱形、平行四辺形の頂点に当たる数字を足して34になるものもあります。以下に一例を挙げておきます。


このように数えていきますと、行・列・対角線で、和が34になるのは10通りです。さらには四角形の場合は、正方形も含めて、全部で36通りあります。どこまで探せるでしょうか?
これをどこまで探せるか、子どもたちにとってはスリリングな計算です。
探求用の用紙のダウンロード(以下の図参照)

(この内容の主要な部分は、Dr. Hermann von Baravalle著『Rechenunterricht und der Waldorfschul-Plan』を参考にしました)。
「木星の魔方陣」といった言い方は、ユダヤのカバラに関係しています。ヘブライ文字では文字の一部を数字としても使うのです。日本語にたとえれば、「い」は1に相当する、という感じです。すると、魔方陣の数字の配列はそのまま文字の配列として読むこともできます。そこに何らかの意味を読み取ることができるのだそうです。

■付録

ハインリッヒ・コルネリウス・アグリッパ・フォン・ネッテスハイムの『魔術書集成』から、木星の魔方陣の部分です。

アグリッパは、オイリュトミーの「私は話すことを考える・・・・」の基本しぐさの元として、知られています。

2014年5月23日金曜日

九九の糸かけ

 



写真のような板を使って、子どもたちに九九の糸かけを体験させることができます。そして、このように実際に手を動かした後で、それをまとめることができます。

■九九の糸かけの結果

その0から始めて、九九の各段を周ると次のような図になります。このことは、シュタイナー学校について書かれた子安美知子著『ミュンヘンの小学生』に紹介されています。



もちろん、九九の格段の形がそれぞれに美しいですから、それを知るだけでも、子供たちにとって喜びになります。
また、1-9、2-8、3-7、4-6がそれぞれ対称になっていることもすぐにわかります。形が同じで、周る向きがちょうど反対になっているのです。
これを図に表すと、次のようになります。


すべての段の形を経験した後で、私は黒板に小さな円を8つ描き、それぞれの段について、形を子供に記入させます。

■『ミュンヘンの小学生』には書かれていない重要な発展

以下の内容は、私、森章吾による創案です。
これはドイツのシュタイナー学校の授業で取り上げられているかは不明です。しかし、数の美しさの体験という意味では、非常に重要かつ効果的だと思っています。
そして、ここで大切な問いをします。
ここには5の段はないけれど、5の段の形は簡単だから、君たちはみんな知っているね。
そう、まっすぐな線だ。
その5段も含めて、みんなはこの中でどれが一番美しいと思う?
すると、答えはまちまちです。
シンプルな星型の4や6を美しいという子もいれば、複雑な形の3や7が美しいという子もいます。
そこで、やや挑発的に、尋ねます。
5の段が美しいと思う子はいるかな?
そして、しばらく間を置いて、
先生は5の段が一番美しいと思う。
と言います。
そして、おもむろに全体を囲む大きな円を描き、それを上下に二等分します。

そして、5の段の直線が鏡のように、対称の軸になっていることを説明します。
私は、2年生の終わり頃にこの話をしました。3つの学年で3回この話をしました。子供たちは言葉を失い、感動していることがありありとうかがえました。
九九では、それぞれの段に秩序があり、それが美しい形となって現れました。ところが、それだけではないのです。九九全体が一つの秩序を持ち、その中で最も単純な形を示す5の段が、非常に重要な働きをするのです。

■さらなる発展

しかしながら、この形は九九の一の位だけに注目した結果です。十の位も含めて考えますと、違った結果になります。たとえば、6の段ですと、次のようになります。


ここには取り上げませんが、4の段では星型の広がり方がゆるやかです。つまり、4の段と6の段は完全に対称ではないのです。また、各段にはそれぞれの個性があるのです。
100までの数をらせん状にプロットした用紙をつくりました。これを出力して点を九九の格段にしたがって線で結んでいくと、それぞれの段の個性が現れた図形になります。上の図のらせんは一定の差で広がるため、10-20間と20-30間の幅が同じです。しかし、次のものは10-20間、20-30間と数が大きくになるにしたがって一定の割合で間隔が広がっていきます。
コピー機にかけると、画面が若干歪み、出来上がった図の精度が悪くなります。プリンタで出力する方が望ましいです。( 商用での大量使用はご遠慮ください。)
九九のらせん用紙のダウンロード
九九のらせん用紙とは、こんな感じです。

■ 数学・算数の美しさを感じさせる教材の紹介

以下のページに「数学・算数の美しさ」の関連項目リストがあります。

■九九の糸かけボードの制作

子どもたちは、このボードを喜んで作ります。制作しやすいように準備をします。
1. 所定の位置にガイド用の穴(1.5~2.0mm径)を開けた板を用意する。
2. まず、一番上の位置に数字の 0 を記入させる。…ネジを入れた後では数字を書きにくく、単に「数字を書いて」と指示すると、上の位置に 1 を書く子どもが続出する。
3. 1~9までの数字を記入させる。
4. ネジをガイドの穴に入れ、ドライバーで固定していく。
5. 0 の所に糸を結びつける
これだけの作業ですが、子どもにとっては必ずしも容易ではありません。

なぜ板を使うか

丸太のスライスを使いますと木目が見え、よりナチュラルですので、美しくは見えます。しかし、私(私たち)はシナ合板(9mm厚)を使っています。
最も大きな理由は、《本質》を中心に据えたいからです。非常に極端な例を挙げます。もし仮にこのボードが純金でできていて、ピンには宝石がちりばめてあるとしましょう。それを使って糸かけを行った子どもが、成長してから思い出す際に「黄金と宝石は素晴らしかった」という点を思い出すとしたら、これは教材としては失敗だからです。学ぶ際の物質的状況ではなく、精神的・思考的内容の美しさを思い出せるのが理想です。

数学が目指すのは、《見える美しさ》ではなく、《目に見えない美しさ》です。その意味では数字の描かれた平面の方が望ましいと考えています。たとえば、キャラクター入りのノートなどは「かわいい」というよりは「思考の邪魔」です。なぜなら、思考が入り込む世界では、そうした余計なものはノイズでしかないからです。
このボードには数字を必ず書きこみますが、板が平らですと、その作業も容易です。

注意点:ネジの形状

釘は使わず、木ねじを使っています。子どもにとっては、釘を真っ直ぐに打つのはかなり難しいからです。木ねじですと、ガイドの穴に沿って問題なくねじ込めます。
使うネジの形状には注意しています。かけた糸がはずれにくいようにです。 私たちが使っているのは、一番左のタイプです。


中央の2つは、頭の部分の形状で、糸をかけたときにはずれやすくなってしまいます。形状としては、両端のものが適切です。ただし、左端の釘ですと頭が小さいので、やはりはずれやすくなります。



右端のネジを使い、下図のような状態ですと、糸かけの際にはずれにくくなります。

(2001年に個人HPに公開していた内容を改変して再掲)








































学童期におけるエーテル体の誕生

■エーテル力を性格付けると

シュタイナー教育では、7歳くらいで歯が生え替わる(交歯)と共に《エーテル体が誕生する》、と言います。そして、それと並行して、エーテル体に働きかける教育が必要になって来ると考えます。
物質主義的自然科学が趨勢を誇る現代にあっては、《エーテル体》という言葉自体が非科学的に捉えられるかと思いますが、現象に忠実に、しかも囚われなく考えれば、「エーテル体が存在しないわけはない」という結論を出す人もいると思います。
さて、このエーテル体の一つの側面を、
特定の秩序にしたがって、事柄を関連づけていく力
と性格付けることができます。ただし、《秩序》は一通りではなく、状況に応じて適切なものが、より高次な力によって選ばれます。

■肉体はエーテル体の働きかけで健全でありうる


生後数年間の子どもでは、こうしたエーテル的な力が主に肉体に働きかけますし、また、健全な肉体を形成するために、きちんと働きかけなくてはなりません。
赤ちゃんの体型や顔立ちが変っていく様子にも、そこに働くエーテル的な力を見て取ることができます。しかし、そうした肉体的な変化は、内蔵でも生じています。たとえば、肺などもフォルムが非常に変化します。(上:誕生時の肺と下:2歳児の肺)


 このように、フォルムが変化しながら成長していく際には、そのフォルム変化を秩序付ける力、つまりエーテル力が必要になります。
このことは、歯でも生じます。幼児では、乳歯の背後で永久歯が形成されていますし、その形成の秩序付けに当たってはエーテル体が作用しています。エナメル質は、完全に完成してから体表に出現するので、現れたときにはすでにエーテル力の作用は終わっています。



■歯は再生しない


骨と歯をくらべると、骨は再生するのに対し、歯は再生しないのが大きな特徴です。これをエーテルレベルで考えますと、骨の形成に当たっては、その形成秩序を司るエーテル力が働いていたわけですが、骨が完成しても、そのエーテル力はある程度は骨に残っています。そして、骨折などの緊急時には、骨を秩序の元で修復する働きをするのです。
それに対し、永久歯形成に関与していたエーテル体は、歯から完全に離れてしまい、それゆえ歯は、再生能力を初めから持ちません。ここに《肉体から離れたエーテル力》が生じます。

■《肉体から離れたエーテル力》の行き先


《肉体から離れたエーテル力》は失われたりはしません。働く場を変えるのです。つまり、魂的領域(心の領域)で、相変わらず《特定の秩序にしたがって、事柄を関連づけていく力》として作用するのです。それゆえシュタイナーは、『霊学の観点からの子どもの教育』でエーテル体によって次のような性質が子どもに表れてくる、と述べています。
  • 心的傾向(Neigungen)
  • 習慣(Gewohnheiten)
  • 良心(Gewissen)
  • 特性(Charakter)
  • 記憶(Gedächtnis)
  • 気質(Temperamente)

■トランプゲームの「神経衰弱」(記憶)


トランプゲームの「神経衰弱」は、本気で戦っても大人は小学生にかないません。小学生が遊んでいると、幼稚園児もやりたがって、それに参加させてもらいます。ただし、幼稚園児はカードをめくることに喜びを感じる程度なので、隣り合ったカードをめくるだけであったりします。しかし、小学生たちはカードの位置を記憶し、自分の番が回ってくるのを待ちながら、虎視眈々と狙っています。
エーテル体の誕生と共に、子どもの中に記憶力が育ってきたことの証です。シュタイナーは「子どもが言葉を逆向きに言い始めたら、記憶力を使う教材を与えなさい」と言っています。なぜ逆向き言葉なのかは、ご自身でお確かめください。

■丸暗記教材

丸暗記は詰め込み教育の元凶のように言われ、敵視されたこともあります。しかし、意味を理解するのではなく、単に暗記することも教育上重要な時期もあるのです。およその手順は、以下の通りです。
  • 暗記する事柄に深いつながりがあることを予感させる(たとえば、九九の暗記の前に、簡単に原理を示す。子どもがそれを完全に理解しなくても、「これには意味があるんだ」という感情が芽生えれば十分である。)
  • 叡智に満ちた事柄、意味のある事柄を覚えさせる(モンスターの名前などではなく)
  • 将来、その覚えたことの意味がつながるようになる

■幼児期の注意


「小学生から記憶力に働きかける教育を行なう」というやり方は、このように人間洞察から生じています。したがって、エーテル体が身体形成の秩序を司りつつ働いている幼児期に、記憶に働きかける教育が好ましいか、好ましくないかも、必然的に答えが出ます。

2014年5月19日月曜日

アストラル体の働き

■働き1:人間に意識を与える

覚醒と睡眠の違いを見てみましょう。
次の3つは、睡眠中はなく、覚醒中は存在します。
  • 《意識》
  • 《知覚》
  • 《運動=個として独立》
つまり、覚醒中にはあって、睡眠中にはない《何か》が考えられる。とりあえずは、それを《アストラル体》と呼ぶことにしましょう。
すると、アストラル体の働きは、
  • 意識を与え、知覚を可能にする
  • 生物を個体として一つにまとめ、運動を可能にする
ということになります。
動物にも程度の差はあれ、意識や知覚を持つので、動物にもアストラル体があることがわかります。そして動物には、植物がまったく持たない情動や欲望が存在します。したがって、アストラル体には次のような働きもあります。
  • 情動や欲望など、動物的活動を可能にする

■働き2:エーテル体のコントロール

生体はエーテル体の力によって生きているにしろ、無数にあるエーテル的秩序をどのように配合し、配分し、どのタイミングで作動させるかは、エーテル体単独では決定できません。それを適切に管理するのも《アストラル体》の一つの仕事だと考えてよいでしょう。
  • エーテル体に適切な指示を与えて、肉体を健全に維持する
という仕事も担っています。

■虫こぶ

アストラル体についての説明を求められて、シュタイナーはあるとき《虫こぶ》を引き合いに出したそうです。
虫こぶとは、植物の葉などに昆虫が卵を産み付け、その刺激によってそこにコブができる現象で、下の画像のような様子を示します。
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中には幼虫が生きています。(別な植物&昆虫です)
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別な虫こぶ↓
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画像はWikipediaより
この現象をエーテル体とアストラル体の関係で見てみましょう。
植物の健康な葉は平面状で、一定の形態を保っています。しかし、寄主の昆虫の卵によって、立体的なコブに変形し、そこに独立した内部空間が作られます。
植物と動物を一般的な視点で比較しても同様な現象が見られます。動物は立体的な形態で、個として一つのまとまりが明確であるのに対し、植物は線的、面的な形態で、個としての境界線が明確ではありません。たとえば、クマザサなどは地下茎でつながっていて一山が1個体であることもあります。
また、人間でも動物でも、アストラル体はそれ自身では存続できず、エーテル体の活動を前提にしています。いわば、エーテル的=生命的なものを消費し、それを制限することで適切なフォルムを与えています。動物も植物界からの栄養供給がなければ、存在しえないのと同じように、虫こぶは植物に寄生しないと成り立ちません。
葉にしてみれば、遠くのご主人(=宇宙の彼方に存在するアストラル体)の制御を受けて真面目に活動し、その植物のフォルムを作り上げていたのに、そこに異質なアストラル体(虫)がやってきて、違った構造物を作らされているのです。
また、虫こぶが美しい色彩を持つ事実も興味深いでしょう。アストラル体は感情ともかかわりますから、虫の寄生によって植物に感情に訴えかける要素(色彩)が加わるのです。

■《キャベツの塔立ち》=天体の変化で成長のスイッチが変わる

キャベツは葉が重なり合いながら肥大して、食用になる部分ができあがります。しかし、春分が近づくにつれ、中心部分で花芽を形成すべく、成長の仕方が変わります。《塔が立つ》のです。つまり、成長相のスイッチが切り替わり、生体内での生理活性(エーテル作用)も大きく変化するのです。大根やキャベツで塔が立ち始めると、その塔が小さなものであっても、野菜としては出荷できません。味が変わるからです。味が変わるというのは、内部での生理活性が変化している証拠です。
虫こぶでは、虫という別種のアストラル要素が加わったことで生理活性が変化しました。塔立ちでは、天体の配置、つまり外部のアストラル的なものの変化で生理活性(エーテル作用)が変化しています。

■動物はアストラル体を持つ

・鉱物
物質体

・植物
物質体+エーテル体

・動物
物質体+エーテル体+アストラル体

・人間
物質体+エーテル体+アストラル体+自我

ただし、たとえば植物にも自我はあるが、それは天界にあり、地上には降りてきていません。

エーテル体についての簡潔な説明

エーテル体、無いはずはない

最も簡単には、こう考えることができます。
私たちの身体は特定のフォルムを保っています。それは、何らかの物体も同じで、たとえば、グラスも壊れなければそのフォルムを保ちます。ところが、この両者には決定的な違いがあります。

静止したフォルムと流れによるフォルム

つまり、グラスではそれを構成している物質(原子)は変化せず一定であるのに対し、人体を構成する物質は代謝によって刻々と変化していきます。つまり、物質は流れているにしろ、その流れに何らかの秩序があるおかげで、私たちは自分の形姿を保つことができるのです。
glass-finger

流れの秩序は、物質の側からはコントロールできない

この物質の流れを統御する秩序は、原理から言って物質ではありえません。水をいくら研究しても、川の流れ方は解明できないのと同じです。
この物質よりも高次な秩序体系、人間の形姿を保つに相応しい秩序体系を、人間のエーテル体と呼びます。
このように考えますと、人差し指と中指ではエーテルの流れがわずかに違うことになります。その違いを現代生物学的な考え方、つまり、DNAの遺伝情報から合成されるタンパク質の違いで説明できるのでしょうか?

これはエーテル体の働きの一つ

言うまでもないことかもしれませんが、ここに挙げた例はエーテル体の働きの一つです。身体に働くだけでなく、魂(心)の領域でも重要な働きをしています。そこでも「ある種の秩序を保つ」役割を担っています。

2014年5月8日木曜日

シュタイナー教育、低学年の音楽でカギとなる「五度の雰囲気」

 

「五度の雰囲気」についてのシュタイナーの言葉

シュタイナー学校の1~3年生の音楽で一番のカギになるがこの「五度の雰囲気」です。このことをシュタイナーは『人間の音体験』(1923.3.7)の中で言っています。
9歳までの子どもは長調や短調の雰囲気を正しく捉えることはできません。この頃の子どもは、五度の雰囲気の中にいるのです
しかし、これだけでは何を言っているのか、ほとんどまったくわかりません。
ですので、シュツットガルトの教員養成ゼミナールで教えていた、故ピーター=ミヒャエル・リーム先生の教えをまとめ、関係者の理解の助けになればと思います。
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「五度」の現象、「五度体験」

音楽で五度と言ったら、インターヴァル(音程)を指します。たとえばラとその上のミ、あるいは下のレの関係です。
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五度の振動数
五度のインターヴァルは、ラを432Hzとしますと、ミは648Hzに、下のレは288Hzになります。
振動数の比で言えば、低:高=2:3になります。
五度の体験=呼吸(着地せずに漂う)
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たとえば上の楽譜のように、「レーラー、レーラー、レーラー」という五度の音形をゆったりとしたテンポで繰り返します。するとしだいに呼吸がその音に同調してきます。自然に低い音で息を吐き、高い音で息を吸うようになるのです。
これが五度体験の核です。そして、高音(吸気)で少し眠り、低音(呼気)で少し目覚める体験をします。これを普通の長調音階と較べると、その差がさらに際立ちます。つまり、長調音階では、基音(ド)でしっかりと着地する体験をするのに対し、五度では漂う感覚しかありません。
五度、2:3、呼吸、肺の不思議な関係
五度と呼吸は密接に結びついていますが、人間の肺の形態とも興味深い対応を示します。左肺は二葉、右肺は三葉に分かれているのです。
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肺の模式図
シュタイナーが言う「五度体験」とは
私たちの「五度体験」は「呼吸」と関連しました。ところが、シュタイナーの観察によれば、「五度体験」では、自我の呼吸、つまり自我の出入りの体験がそこにあるのだそうです。『人間の音体験』の第1講でシュタイナーが五度体験について述べていることを挙げると次のようになります。
  • ルネッサンス以前では、人間の体験は五度体験が中心であった。
  • 五度体験の中で人間は自分が他者の中に移るのを感じた。
  • 天使が私の中で歌う、という感覚を持った。
  • 主観が入り込む余地はなかった。
  • 器楽伴奏を必要とし、無伴奏では歌えなかった。器楽音楽や無伴奏歌唱が可能になるのは三度体験の後である。
ルネッサンス以前の人間の意識
これを示す芸術作品を紹介しましょう。

これは、ルネッサンスの前のゴシック、そこからさらに少しさかのぼったロマネスクの「栄光のキリスト」です。この目を見ると、地上に降りきっていない、漂う雰囲気を感じ取れるでしょう。ロマネスク・栄光のキリスト
ロマネスクでは他にも「漂う」感覚が見られます。シャルトル大聖堂西正面の彫刻群です。ちなみに、シャルトルの大聖堂は1194年の焼失後に再建されたゴシック建築です。しかし、これらの彫刻群は焼失を免れ、ロマネスクの風情を残しています。
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ここで特に注目していただきたいのは、その足下です。足がしっかり着地しておらず、全体に浮遊感を漂わせていることがお分かりいただけると思います。
「私」という感覚が自分の中にしっかり入り込んではおらず、出たり入ったりを繰り返していた状態だったと思われます。これが「五度体験」です。幼児が何かに見とれているとき、その状態はまさに「心ここにあらず」で、自分が外に出て行き、対象と一体になっていることがうかがわれます。「自分が他者の中に移る」のです。そしてまた、先生や親のお話に聞き入るとき、子どもの心はそのお話に満たされています。「天使が私の中で歌う」体験に比することができるでしょう。
幼児の場合、私としての体験はもちろんありません。そのことを端的に現す現象があります。幼稚児にとって、お母さんが自分の友だちを全員知っているのは当然のことなのです。自分の体験と母親の体験を分離することはできません。このように主観と客観が一体ですと、そこに自分の主観が入る余地はありません。
 無伴奏で歌を歌うと、多くの人はある困難に気づきます。音高(ピッチ)を正確に保てないのです。勝手にどんどん転調していきます。調性をキープするためには、「自分をしっかり」保たなくてはなりません。それは幼児には不可能ですし、ルネッサンス以前の人びとにも困難であったことでしょう。
これは子どもの成長にも観察されます。小学校1、2年生では、みんなと一緒なら、歌も歌えるし、詩も朗読できますが、「一人で歌って(朗読して)ごらんなさい」と要求しても、それはできません。シュタイナー教育では、このような成長の法則を無視したことは行いません。しかし、9歳を越えたなら、「独唱」が教育的な価値を持ち始めます。
「五度体験=自他の出入り」に関連する音楽的要素
五度から作られるスケール
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ラを中心に、上下に五度レとミをとり、さらにそこから五度のソとシをとります。
次に、低いソを上に、高いシを下に一オクターヴずらします。すると、レミソラシレミのスケールができます。五度の雰囲気の音楽では、このスケールが好まれて使われます。
拍子
五度の振動数比は2:3でした。その2と3を拍子に関連づけ、2拍子系と3拍子系を検討してみましょう。これらには異なる雰囲気があります。
3拍子系…ワルツなど踊りの動きも円運動で、循環しつつ高揚していく雰囲気がある。人は地上的に自分に戻る。
2拍子系…典型的には行進曲で、地上との強い結びつき。ポルカの踊りは直線的。天上的なものと結びつく。
それゆえ、古来3拍子系はtempusperfectus(完全なるテンポ)と呼ばれ、天上的世界を表す音楽に用いられましたし、拍子記号も円形が用いられました。音楽ではありませんが、フォルムにおいても円は天上的、直線は地上的なもののシンボルです。
唱法
古来、唱法には2つの種類があります。つまり、ジルベ的唱法(音節唱法)とメリスマ的唱法です。
ジルベ的唱法とは、一つの音符に一つの語音が対応する歌い方です。歌のほとんどの部分はこの唱法で歌われます。メリスマ唱法の代表的な例は、有名なクリスマス・キャロル「荒野の果てに」の後半部分、つまり
グローォォォォオーォォォォオーォォォォオーリア
の部分です。メリスマ唱法では母音を伸ばし、幾つもの音符に渡って歌うのです。この唱法の差をきちんと体験しますと、ジルベ的唱法では自分の中にきちんと居る感じを持ちますし、メリスマ唱法では意識が外に出て行くのを感じ取ります。
五度の雰囲気
このように五度の雰囲気の神髄は「天上的雰囲気と地上的雰囲気の行き来」にあります。そして、それを実現するための手段は
  • スケール
  • 2拍子&3拍子
  • ジルベ唱法とメリスマ唱法
  • 歌詞
が考えられます。
天上的 3拍子 メリスマ唱法 天上的内容
地上的 2拍子 ジルベ唱法 地上的内容

音色としては、重さを感じさせないキンダーハープの音色がまず第一に考えられます。

五度の雰囲気の作例

「食前の祈り」JuliusKnierim作曲
まず、クニーリムによる五度の雰囲気の曲をご紹介します。「食前の祈りの歌」です。
Erde, die uns dies gebracht,
Sonne, die es reif gemacht.
Liebe Sonne, liebe Erde,
euer nie vergessen werde.
大地がこれらをくださいました
太陽がこれらを実らせました
愛する太陽、愛する大地、
私たちは決して忘れはいたしません
(クリスチャン、モルゲンシュテルン)
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このメロディでは中心のa’を基点にして、d’-a’、a’-e"というように、上下に五度圏をとり、それらを同等に扱っています。言い換えると、a’を境目にして、上下に二つの世界(五度圏)が接していて、音楽の中でその二つの世界を行き来するのです。しかも、この曲は上下でほぼ完全に対称な形になっています。そして、この音楽には、独特の浮遊感があります。二つの世界を行き来していて、地上に降りてこないのです。
さて、この曲では、拍子にも工夫がなされています。「愛する太陽、愛する大地」と呼びかけるところで、2拍子系から3拍子系に転換し、その際のインターヴァルは五度です。ですから、拍子の点でもインターヴァルの点でもこの箇所では二つの世界を行き来するのです。
この曲の特徴をまとめると、
  • 五度から作られるペンタトニックの構成音を用いている。
  • a’-e’’,a’-d’の二つの五度圏を行き来している。(しかも、対称に)
  • 歌の中で、純粋な五度が際立つようになっている。
  • 2拍子系(地上的)と3拍子系(天上的)を組み合わせている。
  • 歌詞にも、「大地」(地上的)と太陽」(宇宙的)という二つの内容が取り入れられている。
朝の歌(ピーター=ミヒャエル・リーム作曲)sample http://1drv.ms/1mFuMbe
Ich sah, ich sah,
wie die Sonne kam,
die Erde ganz in die Arme nahm;
In Menschenaugen,
in Blütenschalen
sah ich die Sonne
wiederstrahlen。
私は見る、私は見る、
お日様がやって来て
大地すべてを抱くのを
人間の目に、
花の器に、
私は見る、お日様の光が
照り返しているのを。
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この詩では「人間の目に、花の器に」のところで地上的な〈物〉に出会います。それ以前の太陽や大地は具体的に目に入りきるものではありません。このように歌詞が地上的になる部分で作曲者のリームは3拍子系から2拍子系に転換しています。

鳥の揺りかご(ピーター=ミヒャエル・リーム作曲)
シンプルだけど絵が見えるようで、個人的にはとても好きな曲です。
Leise gehet,
leise wehet
durch die Zweige
hin der Wind
auf und nieder,
hin und wieder
schaukelt er das Vogelkind.
静かに過ぎる
静かにそよぐ
小枝を抜けて
風が行く
高く、低く
行っては帰り
風はヒナをやさしく揺する
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最初の2小節で情景を描き出します。風が枝の間を渡っていくようすが8音で表現されてはいないでしょうか。リーム先生は「詩と音楽が一体であること」をとても大切にされました。それは、シューベルト、シューマン、ブラームスといったドイツ歌曲の伝統を受け継ぐものでもありました。この2小節は3拍子系でゆったりと浮かんでいる感じを表現しています。
次の2小節では拍子が6拍子、つまり3+3の2拍子系に変わり、動きが現れ、実際に風が渡っていきます。
終止の部分は「ミソー」です。これを仮に「ラソー」あるいは「レソー」に変えますと響きがより地上的になります。なぜなら、ソで終わるがゆえにト長調的であるにとどまらず、直前音がドミナント和音(レ♯ファラ)の構成音になり、ト長調の機能和声的終止になるからです。逆に「ソシー」あるいは「ソラー」で終わりますと、より注に浮いた感じになります。これは、調性感が薄くなるからです。
このように見ますと、同じレミソラシ・ペンタトニックを用いて、いろいろな雰囲気の音楽が作れることがわかります。法則として以下のようにまとめることができます。
就学前の子どもに対して ラ、またはシによる終止
1、2年生 機能和声的でなくソで終止
3年生の前 機能和声的にソで終止

小川がせせらぐ(ピーター=ミヒャエル・リーム作曲)
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Es plaudert der Bach
vom Felsenge mach,
vom steinernen Tisch,
von Vogel und Fisch,
von Sonne und Stern,
von Blüte und Kern.
Wer still ist und lauscht,
der hört, was da rauscht.
小川が鳴る
岩の間から
石のテーブルから
鳥や魚について
お日様や星について
花や実について
心静かにそれに耳を傾ければ
密かな言葉が聞こえてきます

この曲の聴きどころはとりあえず2箇所あります。3小節目に「岩」が出てくるところで「音楽と詩が一体」の法則が見られます。水が段差をもって落ちる様が下降7度で表現され、その下降が繰り返されます。次に9小節目から冒頭の繰り返しが始まります。そして、同じように進行するのかと思いきや、13小節目で雰囲気が全く変わります。「Still」つまり「静か」という言葉が出てくるところで上昇9度の跳躍が現れ、さらにはリズムも2拍子系に変わり、意識が目覚めます。内的には目覚め、外的には思わず息を呑むような静けさが支配する雰囲気が表現されています。
歌の中で高い音が現れると大きな声、ともすると叫び声になることがしばしばあります。しかし、高い音であるからこそピアニシモで歌われることで大きな感動を呼ぶ場合が少なくありません。一流歌手はそのことをよく知っています。このリーム先生の曲に低学年で出会った子どもは、それを無意識に身につけてしまうのかもしれません。
わらべ歌の特性
ペンタトニックを用いて日本人がメロディをつくると
キンダーハープなどを手にとり、レミソラシ・ペンタトニックを用いて自由にいろいろとメロディを作っていきます面白い現象が現れます。多くの日本人の作るメロディがどこかわらべ歌風なのです。それくらい、わらべ歌の雰囲気が日本人の心に染み付いているとも言えるでしょう。
さて、こうして現れるわらべ歌風のメロディをよくみますと、そこには大きな特徴が二つあります。その一つは4拍子の曲が多い点です。日本語のリズムの基本が4拍子ですから、自然にそこに行き着くのでしょう。(三三七拍子と言っているものも、休符を考えたら4拍子系ですし、パソコン、デジカメなどの省略語もそのほとんどが4拍子です)。
わらべ歌風のメロディの終止形の意味
わらべ歌風メロディのもう一つの特徴は、(レミソラシ・ペンタトニックを用いた場合)「・・・レミー」という形で終わっている点です。そして、この現象は注目に値します。
ミで終わっているということは、それが基音であることを暗示しています。これはホ短調です。また、その前の音がレですが、これはBm(シレ♯ファ)のコードの構成音です。こうしたことを考えますと、「・・・レミー」という終止系はホ短調のドミナント⇒トニカ(Bm⇒Em)という機能和声的カデンツになっていることがわかります。
つまり、多くのわらべ歌の音楽的背景は二六抜き短調+機能和声である、と言えるでしょう。またこうした音楽の人間に対する作用を考えますと、それは「自己の中に入り込む働き(基音のある調性音楽であること)、しかも肉体的な部分にまで入り込む働き(短調であること)と言えるでしょう。
これは別にわらべ歌が他の音楽に対して優れているとか劣っているとかを意味するものではありません。私にとっては、会話や文章の中で主語を省略し「私」という語を入れない日本文化の中にあって、自我を自分に結びつける働きをどこかで必要としたことの現れのように思えます。
わらべ歌と五度の雰囲気は全く別の質
その意味では日本人にはわらべ歌的なものが必要であると考えることができます。しかし、それは五度の雰囲気の音楽とは全く異なった質を持っています。ですから、五度の雰囲気の音楽とわらべ歌を同一に用いることはできません。それをしてしまったら、腹痛に風邪薬を処方するようなものです。教師にとって必要なのは、その両者の特質を理解し、それを状況に応じて使い分けることなはずです。
新たな文化をつくる
このように見てきますと、五度の雰囲気の曲は自分たちで新たに作っていかなくてはならないことがわかります。これは誰にでもできることではありませんが、新たな文化をつくるという意味でも非常にやりがいがあるのではないでしょうか。