2014年6月10日火曜日

自我の由来と「私」という呼称

■パスポートによる身分証明

2014年4月、ブラジル国籍の女性が、元同級生になりすまし、その人物の名義でパスポートを正式に取得する、という事件がありました。偽造ではなく、虚偽の申請によって正式にパスポートが発行されたのです。社会的な意味で「私は私である」という身分証明は、免許証、保険証、パスポートなどで行なわれますが、これが真の本人確認ではありえない、という事実がこの事件で明らかになっています。言い換えると、パスポートの根拠となっているのは、誕生から現在までの物質的存在の一貫性と、外見の連続性と言えるでしょう。

■「私」という呼称

さて、「私は私である」体験は、外見などとは無関係な、内的な体験です。そして「私」という言葉には、非常に深い意味があります。『神智学』『神秘学概論』などを読みますと、シュタイナーは自我を性格付ける際に、この「私」という語の特別な点を取り上げています。この語は日常でも頻繁に使われ、当たり前の言葉ですが、その持つ真の意味は、徹底的に考え抜く必要があります。
シュタイナーは「私」という語が、内側からのみ響く唯一の言葉であることに私たちの注意を向けています。テーブルの上に花瓶があるとき、誰が「花瓶」という語を発しても、それは一つの花瓶を指します。しかし、「私」という語は、誰が発したかによって、指し示す対象が違います。私が言う「私」と相手が言う「私」は別人です。つまり、私を指す呼称として、「私」という語を外から聞くことはない、のです。
この「私」には重要な性質がいくつもありますが、ここではその一つを取り上げましょう。
事柄の多くは相対的に成り立っています。たとえば、「右」という語は「左」を前提にしています。あるいは、「親」という語は「子」を前提にします。こうした様々な語の中で、相対的に成り立つ、言い換えると他者との関係で成り立つのではなく、絶対的に成り立つ、つまりその一語だけで存立しうる語はあるでしょうか。お察しの通り、とりあえず一語はあるはずだと思います。このように、「私」という語が指し示す存在、つまり人間の自我は、他者との関係がなくとも、絶対的存在として、人間が持つ基盤です。そしてこれは、生成消滅とも無関係で、永遠なる存在、霊的存在です。この由来の違いを図示すると、次のようになります。
人間の自我
さて、私たちは、通常、自分の肉体も「私」と感じていて、「(私は)お腹が減った」というような言い方をします。日本語では主語を省略することが多いですが。しかし、より正確に言うなら、奇妙な表現ですが、「私の肉体はお腹が減ったと感じている」となるでしょう。つまり、本来、物質的由来ではない「私」が空腹になるはずはないのです。しかし、「私はお腹が減った」と表現するのは、「私」が次第に物質と同化しているからだ、とは言えないでしょうか。

■「私」への道

私たちは「物質的肉体とは由来の違う私の真の姿」はなかなか自覚しません。それを少しずつ自覚していくのが人生なのかもしれない、と思われるくらい、自覚への歩みはゆっくりです。日常の中で、「私」という語を使える人なら、霊的自我の種火は授かっています。しかし、その真の姿、十全たる姿を見出すには、それを行なおうとする意志と、かなりの自己修練が必要です。そして、それを見つける道がアントロポゾフィーです。この十全たる自我の体験は、音におけるオクターヴ体験と関係します。また、オイリュトミーの「私は話を考える」の最後に「私は、霊、そして私への道の途上にある」という言葉があります。私たちはまだまだ途上です。上から(霊から)の光に、自らが完全に満たされたとき、私に到る道を歩み通すのでしょう。

■「私」が宿る瞬間の絵画表現

ところで、人間の魂が霊的なもの(自我)を受け取る体験を絵で表現するとしたら、どんな風になるか、想像できますか?
また、シュタイナーはそれをどのように表現しているでしょうか。

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