2014年7月27日日曜日

秘されたる人体生理、第三講

1911年3月22日

■ メディテーションについての補足

▲ 01
この最初の三日間では、生命や人間本性について考える上での問題点を、一般的な観点から位置付けます。ですから、今日までいくつかの重要な概念を取り上げましたが、詳しい話を後回しにしていますので、若干、宙に浮いたものに感じられているかもしれません。まず全体を仮説的にでも展望し、その後で仮説に根拠を与えていく方がよいので、まず人間をオカルト的にどう観るかを大づかみにし、その後で仮説に深い根拠があることを示そうと思います。
▲ 02
昨日の講義の最後で、そうした根拠をすでに一つご紹介しました。特定の魂的修練、つまり思考や感受を強く集中させることによって、通常とは異なった生命状態を作り出しうることをお話ししました。通常の生命状態における特徴の一つは、意識が目覚めている際には神経と血液が密接に結びついている点でした。これを定型的に表現するなら、「神経を介する事柄は、血液という黒板に書き込まれる」と言えます。魂的修練によって、神経を極度に緊張させ、その活動が血液にまで達しないようにし、この活動を神経自体にはね返させるようにします。血液は自我の道具ですから、知覚や思考の集中を行っている人間は、あたかも神経が血液から分離し、通常状態の自分の構成要素から切り離され、あたかもそこから遊離し、それと対置しているように感じ、この構成要素に対し、「これは私だ」とは言えず、「これはお前だ」と言いうるようになります。あたかも地上界で他人に接するかのように自分自身と向かい合います。霊視中の人間の生命状態に少しでも入り込みますと、こう言えるはずです。「この人は、より高次の構成要素が、魂的営みからはみ出しているように感じている」と。それは、通常の意識で外界と向かい合っているときの感情とはまったく違います。通常の生活では、外界の物体や生物、つまり動物や植物などを他者と感じ、自己存在はその外側にあって、それらと並び立っているように感じます。目の前に花があるときには、ご承知のように、「花はそこにあり、私はここに居る」と言えます。しかし、先ほど述べたやり方で主観的自我から身を離し、神経系を血液系から切り離すことで霊的世界に上りますと、状況が一変します。そうなりますと、「目の前に他者があり、私たちはここに居る」とは感じません。そうではなく、他者が私たちに入り込んで来て、それらと一体になったように感じるのです。ですから、このように言うことが許されるのでしょう。私たちは霊界と常に結びついてはいますが、通常の生活ではそれと直接に出会うことはなく、神経系を介し、感覚印象という回り道をして出会っています。しかし、霊視能力を身につけると観察力が向上し、霊界の様子を直接に見知るようになるのです。
▲ 03
この通常の意識では見えない霊界は、血液という黒板に、つまりは個としての自我に書き込まれてはいます。ですから、こう言って差し支えないでしょう。私たちを取り巻く外的感覚世界のルーツはすべて霊界にあり、この霊界は、通常は感覚印象に織り込まれ、ヴェールを通してしか見ることができない、と。通常の意識ではこの霊界は見えません。個的自我という地平にそれを覆うヴェールが広がっているのです。その自我から解放される瞬間、通常の感覚印象も消えてなくなります。こうして私たちは霊界に上り、そこで生きますが、これは感覚印象の背後にある霊界そのもので、これと一体になる際には、神経系を通常の血液系から引き離しています。

■ 知覚と内臓三器官の対称性

▲ 04
ここまでの考察では、外界の刺激が神経を介して血液に伝わる活動をたどりました。また昨日は、人間の純粋に肉体的な内臓器官だけを見ても、そこにコンパクトに押し込まれた外界を見ることができること、つまり、人体内には外界が押し込まれていて、それが肝臓、胆汁、脾臓であることをお話しいたしました。こんな風に言えるでしょう。血液は、生体上部つまり脳に流れ込み、そこで外界に触れます。…それが起きるのは、外界からの感覚印象が脳に働きかけているからです…。それと同じように、血液が腹部を流れるときには肝臓、胆汁、脾臓とも関係しますし、私たちはこれらの臓器についても見てきました。 これらの諸器官においては、血液は外界と接触することはありません。外界とつながった感覚器官とは異なり、四方をすべて囲まれ、体内に閉じ込められ、その営みは完全に体内だけで展開されます。これらの諸器官も血液に作用しますが、その作用の仕方はそれぞれ異なります。肝臓、胆汁、脾臓は目や耳とは違って外界の印象を受け取るわけではありませんから、外界からのきっかけで血液に何らかの作用を及ぼすことはありません。これらの臓器は、言わば内に押し込められた状態で作用し、これは「内面化された外界が人間の血液に作用する」と表現できます。模式的にこの斜線ABを血液の黒板としますと、上からのこの矢印は外界からやって来てそこに書き込まれ、下からの矢印は内側からそこに書き込まれます。あまり格式ばらずに表現するなら、「頭部やそこを流れる血液を観察すると、そこには感覚器官を介してやってきた外界が描き込まれるが、そこで脳が血液を変化させる働きは、内臓器官が血液を変化させるのと同じである」と言えます。この肝臓、胆汁、脾臓という三器官は、別な側から血液に働きかけますから、こう描こうと思いますが、そうすると血液がこれらを順に流れているようになります。内臓器官からの作用や放射を血液が受け取り、内臓の内的営みが自我の道具、つまりは自我に表現され、それは外界の事物が脳の営みに表現されていることに対応しています。

▲ 05
ここで、内臓からの作用が血液に及ぶには、それを介するある何かが存在することは、私たちにとっては明らかなはずです。神経と血液の相互作用があってはじめて、血液に作用が及び、そこに何かが書き込まれうる、という話を思い出されるでしょう。内臓器官の側から何らかの作用が血液に及ぶとするなら、人間の内的宇宙とも言えるものが血液に働きかけるとするなら、血液とこれらの器官の間には神経系に類するものが挟み込まれているはずです。内的宇宙が血液に作用するために、まず神経系に働きかけることができているはずです。


■ 脊髄神経系と自律神経系の対称性

▲ 06
人間の下方と上方を単純に比較してみますと、内臓器官と…その代表が肝臓、胆汁、脾臓です…血液循環との間に、上部での神経系に相当するものが挟み込まれていなくてはならないことがわかります。ここで外的観察を調べますと、この三器官には現実に自律神経系と呼ばれるものがつながっていることがわかります。これは体腔に張り巡らされ、脊髄神経系と相同な働きをします。つまり、脊髄神経系は外の大世界と血液循環をつなぎ、自律神経系は人間の内界と血液循環をつないでいます。この自律神経系はまず背骨に沿って伸び、そこから広がってさまざまな器官につながり、それ自身、腹腔内に網状に広がり、よく知られた太陽神経叢になっています。そして、この自律神経系は、他の神経系とは違っていなくてはなりません。…これは証明にはならないかもしれませんが…自律神経系が私たちの仮定を満たすとしたら、その形は脊髄神経系とどう違っているだろうか、と問うのも面白いでしょう。皆さんお分かりのように、脊髄神経系が周囲の空間に開いたものであるとするなら、自律神経系は内部に押し込まれた器官と近い関係であるはずです。この前提に合わせるなら、両者の関係は、中心から周辺へと向かう放射状の線a(自律神経系)と、周囲からさらに外に向かう線b(脊髄神経系)で表されます。つまり、自律神経系と脳脊髄神経系は、ある意味で対極であるはずです。そして実際、対極なのです。そこには、証明とも言える事実も多くあります。もしこの前提条件が正しいなら、それは何らかのかたちで外的観察によって裏付けられなくてはなりませんが、実際、それは裏付けられるのです。神経には神経節と神経線維の二つの部分があり、神経線維は神経節から放射状に伸び、それによって神経同士が接続します。さて自律神経系では、神経節が発達し神経線維は比較的貧弱で目立たないのに対し、脳脊髄神経系では、ちょうど裏返しの関係で、神経線維が主体で神経節は二次的です。このように、私たちが仮定した前提条件が、観察によって実際に裏付けられます。これまで、自律神経系が持つはずの役割を述べてきました。もし本当にその通りの役割を持つなら、脳脊髄神経系が外界の印象を血液という黒板に書き込むのと同じように、自律神経系が、生体内に栄養や熱が入り込むことによって生じる生体の内的営みを受け止め、さらにそれを血液に書き込まなくてはなりません。自身の身体内部から来る諸印象は…自律神経系という回り道をし…自我の道具である血液を介して、個としての自我に取り入れられるのです。しかしここで、物質的なものすべてがそうであるように、私たちの内臓も霊から形成されていますから、諸内臓に押し込まれた霊的なものが、自律神経系という回り道を通って私たちの〔目覚めた〕自我にやってきます。

▲ 07
ここでもまた、考察の出発点に置いた人間の二重性が明確に現れています。まず外の世界、そして次に内の世界の作用を見ます。どちらの場合も、それぞれの世界が私たちに働きかけますが、それぞれ別な神経系が仲介しています。血液系は外界と内界の中間にあり、ちょうど黒板のように、あるときは外側から、あるときは内側から書き込まれるのです。

■ 内的沈潜の修行

▲ 08
神経には外界の作用を血液に伝えるという働きがありました。ところが、昨日の話では、神経を感覚界に引き出すことによって、神経を、言わばそうした通常の働きから解放できることを紹介しましたし、今日も確認のために繰り返しお話ししました。ここで、内側に向けてもこれと似たことが可能か、という問いが生じます。詳しい話はまた後でいたしますが、実際にそうした修行は可能で、昨日、今日とお話しした効果を内側でも得られるのです。しかしそれでも、いくらかの違いはあります。思考集中、感情集中といったオカルト的修練によって、脳・脊髄神経系を血液から切り離すことができます。それとは別に、内的営み、内界に入り込んでいくような類似の集中によって…これはいわゆる《神秘的営み》と呼ばれる類の集中ですが…自我を保ったまま内側深くに、つまりその道具である血液を無視することなく、入り込むことができるのです。私たちに知られた神秘的沈潜、霊的沈潜では…詳しくは後でお話しいたしますが…人間は自分自身の持つ神的本性部分、自分自身の霊性に潜り込んでいきます。と申しますのも、人間はそうした霊性を内に持っていますし、またこの神秘的沈潜では自我から抜け出すこともないからです。反対に、霊的沈潜では自我の深みに入り込み、自我知覚が強化され、活性化、高揚化されます。…現代の神秘家が言うことを除きますが…かつての神秘家の言葉を少しでも自らに作用させますと、このことが確信されます。こうした昔の神秘家たちは、宗教的な立場に立つか否かにかかわらず、自分自身の自我に入り込もうとし、外的印象から自らを解放するために外界からのものをすべて無視し、完全に自分自身の中に沈み込んでいく努力をしました。このように自分の内に戻り、自分自身の自我に沈潜するするわけですが、このときはまず、自我の力やエネルギーのすべてを生体内に押し込め、縮めるかのように見えます。そしてこれは人間生体全体に波及し、この内への沈潜、言葉の本来の意味で《神秘の道》と呼べるものとは…前に述べたもう一つの道とは反対に…自我の道具である血液を神経から遠ざけるのではなく、自律神経系により深く入り込ませることだ、と言えるかもしれません。昨日のやり方では血液と神経のつながりを解消したのに対し、神秘的沈潜ではその反対に、血液と自律神経系のつながりを強化します。これは生理学的に見た対極像です。神秘的沈潜では血液が自律神経系により深く入り込み、もう一つの魂的修練では、血液が神経から切り離されます。神秘的沈潜によって、血液を自律神経系に押し込むようなことが起きるのです。
▲ 09
さて、話が少し横道にそれますが、自我から離れるのではなく、むしろ逆に自我の内側により深く入り込む修行、つまり神秘的沈潜を行おうとする際に、望ましくない、あるいは悪い性質をすべてそこに持ち込んでしまった、と仮定しましょう。自分の内側に入り込んでいくにしても、そうした望ましくない性質を自分の内側に押しつけていることにはじめは気付きません。言葉を換えれば、血の中に存在するある激情的なものが、すべて自律神経系に押し込まれるのです。これも別な話ですが、ある神秘家が神秘的沈潜に入る前に、自分のよくない性質を一つひとつ消し、利己性を克服し、無私で利他的な感情を生み出し、あらゆる存在に対し慈悲を湧き上がらせるように試み、そうした無私なる慈悲の心を実際に育て、自己中心的な性質を消していこうとしたと仮定しましょう。つまり、自分の内側に深く入り込む前に、十分に怠りなく準備したと仮定しましょう。血液という道具を介して、自我を内側の世界に持ち込みますと、通常はまったく自覚していないこの自律神経系を自我意識の中に引き込み、あることがわかり始めます。つまり、「脳脊髄神経系が外界を伝えるのと同じように、お前は内界を伝える力を持っている」とわかるのです。こうして、脳脊髄神経系によって外界を認識するのと同じように、自分の自律神経系を知覚し始め、内的世界と向き合います。外界から刺激を受けても、意識に上るのは視神経を介して入り込んでくる外界そのもので、神経ではありません。それと同じように、神秘的沈潜の場合も、内的神経が意識に上ることはありません。自分の内にある道具に気付き始め、自分の内側を見る道具に気付くのです。そこではまったく違ったものが現れます。内界の霊視力を持った者の前に内界が現れます。眼差しを外界に向けますと私たちは外界と結びつきますが、その際に意識に上るのが神経ではないのと同じように、ここでも自律神経系が意識に上るのではなく、内界が私たちに向かって来るのです。ここで意識に上ってくる内界とは、本来、自分の肉体の一部であるのはおわかりのはずです。

▲ 10
特に関連するというわけではありませんが、ちょっと申し上げておきたいことがあります。やや物質主義的な考えの人ですと、自分の生体を内側から見ることができる、ということをやや恐ろしく感じ、こう言うかもしれません。もし私が自律神経系を介して霊視能力を持ち、肝臓、胆汁、脾臓を見られるようになったら、そのときはそれも正しいと思う、と。…これは必ずしも深い関係があるわけではありませんが、それでもお話ししておく方がよいでしょう。しかし、事実はそうではないのです。このような反論では、通常の場合、肝臓、胆汁、脾臓などを他の物体と同様に外側から見ている、という点を考慮していません。皆さんが解剖学や通常の生理学で肝臓、胆汁、脾臓などについて知るにしても、人間を切り開き、これらの器官を、他の物体を見る場合と同じに、当然ながら外的感覚や脳脊髄神経系によって見ています。内側を霊視するために自律神経系を使う場合には、人間はまったく違った状態にあります。そこで見られるものとは、外的に見るものとはまったく異なりますし、昨日私がお話しした、霊能者たちが時代を通じてこれらの器官に付けてきた名前にふさわしいものなのです。

■ 臓器と惑星、外的リズムの自己化

▲ 11
脳脊髄神経系を通して外的に見られるこれらの器官はマーヤであり、これらの器官の内的本質的な意味を見るのではなく、外見という幻想しか見えないことが次第にわかってきます。内を見る目で自らの内界を霊視的に静かに聞き取ることができますと、実際、まったく違って見えてきます。そうしますと、あらゆる時代の霊能者たちが、これらの器官と惑星を関連付けてきた理由が次第に明らかになります。昨日すでに触れましたように、脾臓の働きは土星、肝臓は木星、胆汁は火星の働きと関連付けられています。自分自身の内界に見えるものは、外的に見たものと根本的に違うからです。内臓器官の中で、外界がまとまり、塊になり、境界を作っていることが実際にわかるのです。こうした認識方法で通常の見方を越えますと、脾臓が非常に深い意味を持った器官であることがわかりますが、この例で、ある一つの事柄が特にはっきりするでしょう。脾臓を内的に観察しますと、肉などと言った外的素材からできているようには見えません。…完全ではありませんが、こう言っても差し支えないと思います…脾臓は、多種多様で複雑な営みが行われているこの狭い内界において、事実上、輝く星のように見えます。昨日の話で、外的に見た脾臓は、白い小体を内包する血液に満たされた組織である、と述べました。外的な生理学的観察を出発点にしますと、脾臓によってそこを通る血液が濾過されている、と言えます。しかし、内的観察によりますと、脾臓にはさまざまな内的諸力が働き、それによって安定したリズム運動をしていることがわかります。このような器官を見るだけでも、宇宙には非常に多くがリズムが関係していることが確信できます。宇宙の外的リズムを脈拍のリズムの内に再発見しますと、世界全体のあらゆる営みにとってリズムが重要であることを予感するかもしれません。外的にも、脾臓を含めたいろいろな器官でそのリズムをかなり正確にたどることができます。霊視的眼差しを内側に向けて諸器官を観察しますと、脾臓の状態が変化しますと、それは光り方の変動になって現れます。そして、この変動には脾臓の生命活動が持つ特定のリズムが現れています。このリズムは、他で見られるリズムとは明らかに違います。この点が、脾臓がまさに研究対象として興味深い理由です。脾臓のリズムは他と非常に違って、ずっと不規則なのです。それはなぜでしょう。その理由は、脾臓が何らかの仕方で消化器官と密接に関係しているからです。人間の生命が正しくきちんと成り立つには、血液のリズムが非常に規則正しく保たれていなくてはなりませんが、その点を考慮しますと、事情はただちに明らかになります。血液は非常に規則正しいリズムを保たなくてはなりません。しかし、他にはあまり規則正しくないリズムがあります。これは本来なら、自己教育で規則正しくしていくことが望ましいのですが、なかなかそうはいきません。特に子どもではなおさらです。それは栄養摂取、つまり飲食のリズムです。とは言っても、ある程度しっかりした人ならかなりリズムを保って生活するでしょう。朝食、昼食、夕食を決まった時間に摂り、結果としてリズムを保ちます。しかし、こうしたリズムは現実にはどうなっているでしょうか。…悲しむべきことですが…さまざまな側面で規則正しさが失われています。多くの両親の対応が悪く、子どもがわがままに何かを食べたいと言いますと、リズムなどまったく考慮せずすぐにそれを与えてしまうのです。また、摂食のリズムという点では、大人の状況も非常によいというわけではありません。現代の生活ではいつでも規則正しく飲食できるわけではありませんから、これを教育的ないしは道徳的な意味では受け取らないでください。飲食が不規則なことは周知の事実ですし、ここではそれを憂いているのではなく、単に話題として取り上げているだけです。不規則なものが生体に入りますと、そのリズムは次第に変えられる必要があり、最終的には生体の規則正しいリズムにまでもたらされます。ですから、最低でも不規則な食事のリズムを解消すべく、生体内でそれを変えなくてはなりません。ある人が仕事の都合から、朝八時に朝食、一時か二時頃に昼食と決められていて、この規則正しいリズムが習慣になっていると仮定しましょう。さて、彼が友達のところへ行き、そこでご丁寧に、食事と食事の間におやつをもてなされたと仮定しましょう。これによって彼の規則正しい食習慣はかなり妨害され、生体のリズムは何らかの作用を受けます。このとき生体内には、不規則なリズムを弱め、規則的なリズムを適切に強める何かがなくてはなりません。でたらめな不規則性は解消されなくてはなりませんから、栄養物が血液系に移行する間に何らかの器官が挟まれていなくてはなりません。不規則な摂食リズムを、身体が必要とする血液系の規則的なリズムに調整しなくてはなりません。そして、それを行う器官が脾臓なのです。今、一連のリズム的過程について特徴をお話ししました。そして、脾臓が一種の変換装置であり、消化管内の不規則性を血液循環の規則性に切り替えていることがおわかりになったと思います。…学生時代などのように…不規則な栄養摂取の作用が血液中まで引き継がれるとしたら、それは実際、致命的です。さまざまな意味でバランスがとられ、血液にとって有益なものだけが血液に導き入れられます。血流に組み込まれた脾臓はこうした役割を果たし、今述べたような状態を作り上げるべく、そのリズム化作用を人間生体全体に放射しているのです。
▲ 12
今は霊眼で見たことを述べましたが、それは脾臓のある種のリズムとして外的な観察にも現れています。外的生理学の研究だけで脾臓が持つこの役割を見つけ出すのは非常に困難ですが、外的観察からでも、たっぷり食事を摂った後の一定時間、脾臓が肥大し、さらなる肥大の条件がなければ、適当な時間の後に再び収縮することが見て取れます。この器官が何かしら拡張・収縮することによって、不規則な摂食リズムが血液のリズムに変換されるのです。しばしば生体とは諸器官の集まりであると言われますが、実際はそうではなく、すべての器官が隠れた働きを生体全体に送っています。そのことがわかりますと、「脾臓のリズム活動は外的な食物摂取に左右されはするが、脾臓のこのリズム運動は生体全体に放射していき、生体全体のバランスを保つ働きをしている」と考えられるようにもなるでしょう。ただこれは脾臓が持つ働きの一つに過ぎません。すべての働きを一度に説明できませんので、まずこれを取り上げたのです。

▲ 13
外的生理学が今述べたような事柄を、とりあえずは《提示された理念》として受け止め、それを裏付けようとするなら、非常に興味深いでしょう。つまり…すべての人間が同じように霊視能力を持てるわけではありませんから…はじめは「オカルティストもまったくのでたらめを言っているわけでもなさそうだから、信じるとか信じないとかではなく、提示された理念として受け止め、そのどれが外的生理学で証明できるかを確認してみよう」という態度で接するのです。…そうなれば、霊視的観察を証明する生理学的研究成果も現れる可能性があります。

■ 自己化とは隔離、土星的なもの

▲ 14
そうした証明の一つとして、ここでは脾臓の拡張収縮をお話しいたしました。脾臓は食後に拡張しますから、そこには摂食に影響されることが現れています。このように脾臓とは、一方で人間の気まぐれに左右される器官ですし、また一方でその気まぐれから来る不規則性を取り除き、弱める器官でもあります。つまり脾臓は、人間の肉体を、言わばそれにふさわしく形成できるように、不規則なリズムを血液の規則的なリズムに変換するのです。人間はその本性に沿って形成されなくてはなりませんし、血液はその本性のまさに中心的道具ですから、血液がまさに血液本来のリズムで作用できなくてはならないはずです。人間は血液循環を内に持っていますから、外界の不規則な事柄や不規則な摂食の作用に対し、自らを閉ざし隔離しているはずです。
▲ 15
これは隔離であり、人間本性を外界から独立させることです。そうした個体化、存在の独立化は土星の作用によるもので、これをオカルティズムでは《土星的》と呼びます。ある包括的な有機体全体から一つの存在が抜け出て、隔離し、個体化し、その内側で独自の規則性を展開できるようにすることが土星的なるものの本質であり、根源的理念なのです。現代天文学では太陽系には土星軌道の外側に天王星と海王星も数えますが、オカルティズムではそれは考えに入れません。オカルト的立場では、他の宇宙から太陽系が抜け出て、分離し、隔離し、個体化し、そこに固有の法則性を与える力は、土星的諸力の中にあるのです。
▲ 16
これらの諸力はすべて、太陽系の最も外側の惑星に存在しています。宇宙をイメージしますと、太陽系は、土星軌道の内側にあり、この軌道内で自ら独自の法則に従い、また周囲の宇宙やその形成力から自らを引き離し、周囲から独立しています。こうした根拠から古来オカルティストたちは、太陽系がそれ自身で閉じ、外宇宙を支配するリズムとは異なる独自のリズムを持つことを可能にする諸力を、土星的な力としているのです。

▲ 17
生体内にもそれと似たものがあり、それが脾臓なのです。ただし、生体では外界すべてを完全に排除することはなく、栄養物に含まれる外界的なものだけを排除します。外からやってきて太陽系の土星軌道内に入ったものは土星的作用を受けますが、外から生体内に入ってきたものも、同様に脾臓の作用を受けています。つまり、外界的リズムを変化させ、人間の法則やリズムに変えています。脾臓が、血液循環を外界のあらゆる作用から隔離し、自己統御システムを作り、独自のリズムを可能にしているのです。
▲ 18
これで、オカルティズムが諸器官に惑星の名前を選ぶ根拠に一歩近づきました。オカルト学派の中では元来、これらの惑星の名前を目に見える惑星体に対して使ってはいません。たとえば《土星》という名前は、すでに述べましたが、ある大きな全体性の中から自らを引き離し、独自のリズムを持った一つの系に閉じさせていくものすべてに対して使われてきました。一つの系がそれ自身で閉じ、独自のリズムを作ると、宇宙進化全体から見ますとある種の問題が生じますし、オカルティストたちはそれを少しばかり気にかけていました。小宇宙にしろ大宇宙にしろ、あらゆる作用が相互に関連し合い、積み上げられていることはすぐにおわかりでしょう。太陽系であれ血液系であれ、何らかの系が周囲の全体世界から分かれ、独自の法則に従いますと、そのような系は外部の包括的な法則を破り、傷つけ、外界の諸法則から自立し、とりあえずは外界の法則やリズムと矛盾するような独自の法則や独自のリズムを内に作り上げていきます。本来なら今日の講演内容から明らかでなくてはなりませんが、これがどれくらい人間の肉体にあてはまるかもわかります。つまり、このような土星的脾臓が作り上げる固有のリズムを持ちうることは、とりあえずは人間にとって祝福すべきであることなのはおわかりでしょう。そうであっても、惑星にしろ人間にしろ、ある存在が自己自身の内に閉じこもりますと、周囲とかみ合わなくなる可能性があることもおわかりになるでしょう。周囲にあるものと内側のものとの間に矛盾が生じるのです。一旦矛盾ができあがってしまいますと、内側のリズムが外のリズムに完全に適応するまでは解消されません。人間の肉体でのこうした事情はまた後で見ていこうと思います。今の話の通りだとしたら、人間はこの不規則性に適応しなくてはならないかのように見えますから。しかし、人間の肉体は、実際はそうではないことがわかるはずです。内的なリズムが作られた後には、再び外界全体と同じになる方向に向かうはずです。つまり次の段階に上るのです。次のように言い換えられるでしょう。あるものの内側にある存在が生じ、そこで自立的に活動するとき、その活動の方向は、自らを再び外界に適応させ、その外界があたかも自分自身であるような状態を目指すものでなくてはならないのです。さらに別な言葉で言うなら、何かが土星的作用で自立しますと、それはまさにその土星的作用によって自分自身をも破壊する定めにあるのです。神話ではこのことを、サトゥルヌス…あるいはクロノス…が自らの子どもたちを引き裂く、というイメージで表現しています。

■ オカルト生理学と神話

▲ 19
このように、神話では自分の子どもを引き裂くクロノスというシンボル、ないしはイメージで表現されていますから、神話とオカルト的理念には深いつながりがあることがおわかりになると思います。多くの例によってこうした事柄を自分自身に働きかけさせますと、この種の話のつながりに対するある繊細な感情が作り出されます。そしていずれは、外的な説明が好む「そら、また想像力豊かな夢想家たちが、昔の神話や伝承は深い叡智をイメージとして表現している、などと言っている」などという言い方はしなくなるでしょう。完全に外的なやり方、これは文献でしばしば見かけますが、こうした考え方にどっぷり浸かっていますと、神話と叡智が対応する例を二つ、三つ、いやたとえ十聞いても、神話や伝承には外的学問よりも多くの深い叡智がある、という考え方は拒絶するでしょう。しかし、深いつながりに入り込んでいくなら、外的学問の観察方法よりも神話や伝承の方が世界の真実により深く根ざしている、ということの正当性を認めるはずです。そうしたイメージは素晴らしき神話や伝承のかたちで全世界に広まっていますから、それらを繰り返し自分に作用させてみるのです。すると愛情と共にイメージに入り込むと同時に、諸民族の思考や感情の中に、諸民族の像的イメージの中に、かたちこそ違え、深い叡智が見いだされるはずです。そうしますと、一部のオカルティストたちがなぜ、「神話や伝承を手がかりにし、人間本性を扱うオカルト生理学の領域に入ったときに、はじめて神話や伝承をも理解する」と言えるのかも理解できるようになります。…神話や伝承には、外的学問以上に、人間本性についての現実的叡智、現実的生理学があるのです。たとえばカインとアベル、さらにはその子孫たちの名前に隠されている生理学的根拠を明らかにできましたら…ちなみに、これらの古い名前は、名前に内的意味を込めていた時代に由来しますが…賢人たちの叡智に、計り知れない尊敬と畏敬の念を抱くはずです。賢人たちは、人々が霊的世界をまだ見ることができなかった時代に、イメージを介して人々の魂と霊界がつながるように、歴史の発展にふさわしいかたちでさまざまなことを考え出してきたのです。「今日私たちは、ここまですばらしい発展を遂げた!」という言葉は、現代においては大きな意味を持ち過ぎました。この言葉の裏には、「人間の根源的叡智を表現した古いイメージから抜け出すことができた」という自惚れが隠れていました。しかし、ここでそうした自惚れを根本から払拭できるのです。
▲ 20
歴史的エポックの連鎖である人類発展の足取りを、密なる愛情を持ってたどりませんと、人間は完全に道を外れてしまいます。霊能者は内的な目で内部器官の本性を観察し、それを生理学的に基礎付けています。それはイメージで表現され、またそこから人間の由来が神話や伝承に記されていることも知るのです。人間の諸器官に宇宙が押し込まれるという驚くべきプロセスが、神話や伝承に表現されていることが霊能者にはわかります。私たちの中で脾臓、肝臓、胆汁として働いているものがあります。そうした器官に至るまでに、途方もなく長い時間をかけて集約化され、結晶化されてきた様子が彼にはわかるのです。これについては、明日、さらにお話ししようと思います。オカルト的学問を通してのみ予感できる深い知見、本当の意味での深い叡智があってはじめて、これらすべてをイメージとして表現できるのです。ご覧のように、ちょうどミクロコスモスがマクロコスモスから生まれるように、生体内で働いているものは宇宙から生まれていますし、さらにこれらのもの凄い叡智が、すべて神話や伝承に表現されています。ですから、神話や伝承に現れる名前の意味を生理学的に認識につなげることができたときにはじめて、そのオカルティストたちは正しいと言えるのです。
▲ 21
この連続講演の第一講では畏敬の念を取り上げましたが、今日の話はそうした畏敬の念に役立つでしょう。こうした考え方を育てていきますと、人間の諸器官が持つ霊的内実を深く研究することによって、事実がわかってくるのです。示せることは非常にわずかであっても、人間生体が驚嘆に値する作りであることは伝えていこうと思います。わずかながらでも人間の内的本性に光を当てることがこの連続講演の試みです。

0 件のコメント:

コメントを投稿