2014年8月28日木曜日

文化期について(後アトランティス)

■第四文化期までは、人類は地上化・物質化

人類の進化では、昔は人間が霊界に近かったものが、各文化期を経る毎に物質界に近づいていったと言えます。



そして、第四文化期(ギリシャ・ローマ文化期)において、最も強く物質的・地上的世界と結びつきます。その際に、人間が霊界から完全に離れてしまう危機がやってきます。それを救う宇宙的な出来事がゴルゴタでした。それを期に、人類が進むべき方向が、「物質により深く入り込む」方向ではなく「霊界に再び帰依していく」方向に変ります。しかしそれは、人類の過去の状態に戻ることではありません。地上の物質をも含めて、《霊化》の方向に上っていくのです。こうした《物質の霊化》の例としては、シュタイナーが教えるバイオダイナミック農法における調合剤やアントロポゾフィー医学における薬剤などが挙げられるでしょう。

■後アトランティスの各文化期


  • 第一文化期:古インド文化期(B.C.7000年頃~)
  • 第二文化期:原ペルシャ文化期(B.C.5000年頃~)
  • 第三文化期:エジプト・カルデア文化期(B.C.2800年頃~)
  • 第四文化期:ギリシャ・ローマ文化期(B.C.747年~)
  • 第五文化期:ゲルマン文化期(1413年~)
  • 第六文化期:ロシア文化期

■芸術作品に現われたいくつかの文化期の特徴


エジプト期の人類の意識

Gottfried Richter著 Ideen zur Kunstgeschichte(芸術史における理念)を参考に

■エジプトの芸術

まず、メンカウラー王の彫像を詳しく見てみよう。

深彫りのレリーフのようで、板状の背景から三者が並んで前方に歩み出ている。背景から最も前方に出ているのは、メンカウラー王の左足であるが、その左足も背景の板とつながっている。右側の人物は両手に、王は左手に短い棒状の物を握っていて、非常な緊張感が漂っている。また、王は右手で女神と手をつないでいる。

背景と最も繋がりを感じさせるのは、三人すべて頭部の上にある部分である。左の女神イシスでは角と太陽円盤、メンカウラーでは冠、右側の人物では頭部から伸びた飾りのようなものである。

この彫像には、板状の背景から前方に歩み出る際の非常な緊張感が見られる。

この背景を仮定的に霊的世界と考えてみよう。すると、メンカウラー王はイシスに付き添われ、この物質界に緊張を持って歩み出ていると見ることができる。

■ケフレ王の座像

ケフレ王の座像も興味深い。

座ってはいるものの、身体全体に緊張感がみなぎっている。右手には短い棒状の物を握り、左手は膝の上にぴったりと置かれている。背筋はしっかりと伸び、堂々とした体躯もリラックスはしていない。頭部は前方に向けられ、身体に比べて解放された印象を受ける。
ところが、このケフレ王の座像を横から見ると、まったく違った事情が見えてくる。

正面からは見えない形であるにせよ、タカが両翼でケフレ王の頭部を抑えているのである。タカはホルス神と考えられる。つまり、王という存在の背後には、霊的存在であるホルス神がいて、常に王にささやきかけている。
エジプト期の人類は、まだまだ霊界とのつながりが強く、懸命に地上界に出てこようとしている、と言えるだろう。

■エジプト文化期との関係

シュタイナーの観察によれば、エジプト文化期(第三後アトランティス文化期)は紀元前3000年くらいから、紀元前800年くらいまでである。ここで紹介した像は、その後期のものである。しかし、エジプト芸術には「過去の踏襲」という特徴があり、かなりの年月を経ても、芸術表現はあまり変化していない。その意味で、上の彫像はエジプト文化期の基本的雰囲気を示していると考えても、問題はないだろう。

ロマネスク文化に現れた意識

■未開民族としてのヨーロッパ

原則としては、ゴルゴタの時が人類の最下降点であるが、それは人類の中でも最も進んだ状態で、人類の他の大多数は、その後も物質への下降を続け、物質とのきちんとした出会いに向かう。ギリシャ、ローマ、パレスチナ人に比べ未開人であったヨーロッパ人もその例外ではなく、その歩みが芸術の中に表れている。

■ロマネスク

12世紀末に始まるゴシック期に先駆け、ヨーロッパではロマネスク文化が広がった。ここには、まだ地上化しきっていない人類がさらに地上に向かう方向が読み取れる。
フランスのシャルトル大聖堂はゴシック建築として有名であるが、その西のファサードは1194年の大火でも焼失を免れ、それを残した形で再建されている。

■シャルトルの彫像

西の入り口の両側には、聖人が柱状のモチーフの中に彫り込まれている。

ここでは、その一点にだけ注目する。

足下である。小さな山の上に立っているのか、つま先がかなり下を向いている。この形を体験と共に観ると、これがまだ地上にきちんと立っていないことがわかる。重さの中にきちんと定位していないのである。

■聖母子の比較

次のステンドグラスは、シャルトルで焼失を免れた聖母子の、世界で最も美しいステンドグラスの一つである。

これについても、ゴシック様式との比較で一点だけ触れておく。
それは、母と子の位置関係である。ロマネスクでは、子は母の領域を越えることなく、母の輪郭の内側に留まっている。

しかし、ゴシックでは(ここでは彫像なので比較としては最適ではない)子どもが母の輪郭線の外に出ている点である。
つまり、母的存在に完全に守られているのを快しとするか、母的存在からはみ出しているのを快しとするかの、人間意識の差であるとも言える。
つまり、完全に地上存在に成りきれず、霊的世界(母親)に包まれている状態にあるロマネスク人と、霊的世界から踏み出し、重さとせめぎ合うのがゴシック人と言うことができる。

■二つの「栄光のキリスト」

バルセロナの北、ピレネーのカタロニア地方には、カタロニア・ロマネスクと呼ばれる様式が残っている。
その一つが下の「栄光のキリスト」である。

全体に素朴な絵であるが、ここではその目に注目する。

いわゆる三白眼で、黒目は上を向いている。ここでは多くの作品は紹介できないが、カタロニア・ロマネスクではこの三白眼は珍しくはない。



それに対し、先進地イタリアのサンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の「栄光のキリスト」では趣がかなり違う。

まず、その目である。

黒目がしっかり座り、地上的存在になっていることを感じる。
さらに特筆すべきは、キリストが座っているクッションである。

クッションが跳ね上がっているのである。つまり、このキリストには《重さ》がある。言い換えると、完全な地上存在になっているのである。
繰り返しになるが、このような絵が描かれたのは、それを見る人びとの意識が、それを求めたからである。つまり、絵や芸術作品の変化は、その時代を生きる人間の意識の変化を示している。そして、サンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会では、重さのあるキリストを身近に感じたのである。

■言い訳

カタロニアとサンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の「栄光のキリスト」の時代を比べると、実は、サンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の方が古い。しかし、私はこれを「地域の発展度」の違いと勝手に解釈している。

ルネサンス・・・自らの内に中心を感じる

■ブレネレッキによる透視遠近法の発明

ヨーロッパにおいて、自我の目覚めはルネッサンスにおいてやって来ます。その中でも特筆すべき出来事は「透視遠近法」の発明です。透視遠近法によって、人類は外的物質空間を描き始めます。それ以前の絵画では、「対象に対する内的な近さ」によって描き分けられていました。つまり、重要な人物は遠方に居ようと、大きく描かれるのです。その意味では「内的意識空間」が絵画に反映されていました。ところが、透視遠近法により、物質空間が絵画に取り込まれたのです。



透視遠近法においては、

  • 自分から遠ざかる平行線が、画面上の消失点交わり、
  • その消失点は、画面に向かった私の視線の延長線上にある、

という現象が起こります。言い換えますと、透視遠近法では、空間内の無限遠点を意識するのと同時に、私の立ち位置も意識せざるを得ないのです。
このように、ルネッサンス期には、人間が物質的外界と出会うことで人間も自分自身の地上存在を意識し始めるようになります。その代表的な作品が、ファン・アイクの『アルノルフィーニ夫妻像』とデューラーの諸作品、特に『自画像』です。

▲ファン・アイクの『アルノルフィーニ夫妻像』

細部まで「見えるままに」描ききろうとする努力は明らかです。

凸面鏡の中には、描いている自分も描き込まれています。
諸説はありますが、絵のほぼ中央に自らの名前を署名しています。個としての自分をしっかりと意識していたことが伺われます。

▲デューラーの『自画像』

デューラーも名人芸的描写力で物質界を描きました。そしてまた、自画像という画題が、自己意識の強い現れであることも確かです。

■それ以前の兆候

13世紀のジョットでは、絵画の中に情景の意味が深く盛り込まれています。それが当時の意識と合致していたのです。


スティグマを受けるフランチェスコ

14世紀に活躍したシモーネ・マルティーニの『受胎告知』では、背景は完全に金屏風になっています。その意味では、ガブリエルによる受胎告知を物質界からは離れて描いたように見えます。



しかし、全体をよく観ますと、この画家が床の大理石を丁寧に描いていることがわかります。



画家としての情熱を注いでいる、と言ってもよいかもしれません。このように、「物質に対する目覚め」は着実にやって来ていて、それがルネッサンスで花開いたのです。

■ブレネレッキによるフィレンツェのドゥオモ



フィレンツェの大聖堂を完成させたのも、最初に紹介したブレネレッキです。その空間体験は、それ以前のゴシック様式とはまったく違います。

ゴシックの天井

ゴシックでは、《内部》は強く感じますが、《中心》はありません。ところが、ドームではその構造からも明らかですが、《中心》を強く感じるのです。そして、ルネサンスの人びとは、それをよしとしたのです。

デゥオモの内部

2014年8月27日水曜日

呼吸の教育、『一般人間学』第01講との関連

■死へのプロセスで支えられる意識

アントロポゾフィーの認識では、人間の目覚めた意識には次の2段階があります。

  1. アストラル体の働きによる《意識》
  2. 自我の働きによる《自我意識》

この意識が成り立つためには、《生から死へのプロセス》を必要とします(ここでは、説明は省略します。詳しくは『霊学からの医術の拡張』をご覧ください)。つまり、私たちの意識は、体内で何かを殺すことで成り立っています。これを私はしばしばロウソクの炎に喩えます。ロウという物質を殺しながら光を放つ炎を維持しているのです。

■子どもの成長における意識と呼吸

上述の二つの意識のどちらが先に芽生えるかは、やはりアントロポゾフィー的な観察からわかります。子どものアストラル体は、12歳から14歳ごろに一部開放され、自我は二十歳前後で自立します。つまり、1.のアストラル体の働きによる《意識》が先に芽生え、後の自我意識を準備します。
そして、この解放されたアストラル体は呼吸と密接に結びついています。(『私たちの中の目に見えない人間』)

■身長が伸びきると思考がさらに目覚める(経験的観察事項)

さて、子どもの成長では、第二伸長期に急激に身長が伸び、それが一段落すると、私が観察した例では数学的思考力が格段に成長した事例を観察したことがあります。

■身体内の炭酸の由来と行き先

生体内の炭酸の由来は、すべて食物に含まれる炭素元素です。たとえば、デンプンが糖に分解され、糖のかたちで腸内で吸収され、その糖が有機酸を経て炭酸にまで分解されます。

この炭酸は肺から排泄されるだけと考えられることが多いですが、一部はカルシウムと結びつき、骨の成分である炭酸カルシウムになります。

その意味で、血液中の炭酸は生体活動に関与しうる生きた素材です。これが肺で二酸化炭素という気体に変りますと、命を失うと述べられています。
つまり、血中炭酸⇒大気中二酸化炭素というプロセスは生から死へのプロセスでもあるのです。この生から死へのプロセスが思春期での意識の半目覚めの生理的基盤になります。それゆえ、血中炭酸を骨形成に用いている期間は、意識の半目覚めの基盤が弱いことになります。そしてこれが、『一般人間学』の第1講で「(7歳から14歳の)子どもの教育では呼吸が重要だ」、とシュタイナーが述べていることの根拠の一つであると考えられます。

■要約

  • アストラル体を基盤とする意識は思春期に目覚める。
  • その意識の基盤は、呼吸における炭酸から二酸化炭素への変化、言い換えると炭酸の死化プロセスである。
  • 伸長期には炭酸は骨形成にも用いられ、死化プロセスが十分でなく、意識の半目覚めに到らない。
  • 呼吸における死化プロセスが進んでいく7歳から14歳にかけて、呼吸の働きが魂的働きと結びつくように導く必要がある。

2014年8月24日日曜日

表象とは、また「表象が像的」とは?

■表象のシンプルな理解

シュタイナー関連の本などで《表象》という語が現れたら、とりあえずは、外界の様子にしたがって自分の内側につくる《イメージ》と考えて問題はありません。

もちろん、シュタイナーがこの問題について、認識論的に厳密に議論している箇所では、より厳密な意味づけが必要になります。たとえば、『一般人間学』第二講がそれに当たり、表象がどのように成立しているかをより厳密に観察しなくてはなりません。しかし、そうした箇所は多くはありません。

■ドイツ語では日常語

ドイツ語の動詞 vorstellen は直訳すれば《前に置く》という感じで、外界の物体を自分のイメージの中に《置く》という雰囲気です。

また、 Ich stelle mir vor, … という表現は「思うんだけど…」「こんな風に考えるんだけど、…」といったニュアンスで日常的に使われます。

ですので、Vorstellen も簡単に《考え》くらいに翻訳したいところです。

ただし、ドイツ哲学界の伝統なのかもしれませんが、意志と表象は対概念で、この対極の関連では、《思考》(denken)より《表象》が好まれて使われます。実際、ショーペンハウエルが『意志と表象としての世界』という著作を書いています。私の当て推量ですが、宿命の論敵ヘーゲルが好んで《思考》という語を使ったので、あえて《表象》にしたという可能性もなくはありません。

『一般人間学』第02講では、《表象》での《思考》でもさしたる差はありません。

■ドイツ語のdenkenとvorstellenのちょっと大切な違い

ドイツ語で《考える》は denkenです。これは《表象》よりも哲学的に深い意味で使われることが多く、やや重い語です。シュタイナーの文脈では、《思考》と《表象》とは次のようなニュアンスの違いがある場合もあります。

  • 思考という行為に重点を置いたニュアンスを持つことがある。
  • 物質界と関係しない事柄について考える場合はdenken(思考)を用いる。数学に例をとれば、3次元までは《表象》できるがが、5次元、6次元になると、「思考はできても表象はできない」ということになる。(たとえば、5次元空間でも2点間の距離を決めることができる。)

■像的=写し、という理解だけでは不十分

『一般人間学』第02講、第2段落には、
表象とは像的なのです
とあります。 しかし、後で出てくる《意志》との関係を理解するには、像的の意味を十分に深く理解する必要があります。

像という語を例で理解すれば、目の前の富士山と富士山の写真、という関係になるでしょうし、この理解は間違いではありません。写真や映画は像であり、私たちが内面で作るイメージも何らかの外界の事物を写した像です。

ただし、シュタイナーが言う《像的》には、それ以上の意味が含まれています。

■「実在v.s.非実在」の軸で像的を捉える

しかし、《像》という語をそのように理解しますと、シュタイナーのその後の話とかみ合わなくなってきます。 つまり、シュタイナーは次のように続けますし、さらにはデカルトの言葉を誤りと断じていきます。

表象に実在性を見ようとしたり、表象を確たる存在とみなすなら、これは大変な妄想です。
近代世界観の頂点に置かれた「我思うゆえに我あり」という思想は最も大きな誤りでした。

つまり、シュタイナーは《像》という概念の別な側面、《非実在性》を強調しているのです。

対象物は実在で、表象は非実在(像)

現代的な例で言えば、激しい銃撃戦が展開されようと、それが3Dの映画館なら、何の身の危険も感じないのです。 しかし、リアルな銃声が一発でも聞こえたら、人々は皆伏せるでしょう。

■《像的》は二つの意味の掛詞として理解できる

ですので、この第02講でシュタイナーが言っている《像》という語は、掛詞的に二つの意味を持たせて理解するのが望ましいはずです。 一つは「実在に対する非実在」という意味であり、もう一つは「現実を写し取った物」という意味です。

■《像=非実在》と理解すると《意志=萌芽》との対応関係が理解できる

《表象は像的》という内容をこのように理解しませんと、後に出てくる《意志は萌芽的》という意味との対応が不明確になります。

■表象とは誕生前の体験を写した像である

シュタイナーは表象が像であるなら、像の元になった存在があるはずだし、それとは誕生後には出会っていない、と論理を展開します。 これと同様な議論は、プラトンが『パイドーン』の有名な《想起説》として展開していますので、簡略化して紹介します。


  • 山の絵(写真)を見る

  • その山を以前に見たことがあれば、たとえば《富士山だ》と分かる(思い出す)。

  • 見たことがなければ、思い出せない。(たとえば、グルジアの最高峰Shkharaの写真)


それと同様な議論を別な次元で展開します。


  • 円を見る
  • それが円だとわかる
  • よくよく吟味する。「私は生まれてから、本当の円を見たことがあるか?」
  • 実は、見たことがない。(ちょっと斜めから見れば楕円だし、「月なら円に見える」と主張しても、「それなら球は見たことがあるか」と反論される。そもそも、私たちは立体を網膜上で見ることができるのか?)
  • それでは、なんで「円だ」とわかるのか?
  • どこかで見ているはず。しかし、生まれてからは見ていない。
  • したがって、「私たちは生まれる前に真の円を見ていて、誕生後はそれに近い物を見ては円を思い出している」(想起説)。

このように、論理的に考えれば、「私たちが何かを表象できる、ということは、私たちが誕生前に存在していた」ということの証明になります。

誕生前:私たちは肉体は持たず、《円》《三角形》さらには《自由》《善》《愛》といった諸概念、諸理念と一体になることができたし、すべての概念と一体になってから誕生している。《一体となる》のですから、私たちはそこでの動きに完全に取り込まれる。舞踏を見ているのではなく、舞踏に巻き込まれている。その意味で、誕生前の体験は《実在》である。

誕生後:誕生前に体験した概念を内包した対象と出会うと、その誕生前の体験を想起する。しかし、その時には舞踏を見ているだけであり、その動きから直接的な影響を受けることはない。(像的)

ちなみに、霊的諸事実と一体になることをイントゥイチオーン(直観)と言います。

意志は萌芽的

■意志は萌芽的

『一般人間学』第02講の「意志は萌芽的」という内容を考えてみましょう。 まず「萌芽」とはどのようなものでしょうか? 地面にあって、まだ小さく、そこから次々に葉が展開し、花が咲き、実がなる一つの植物ができあがっていきます。 そのように考えますと、「実体ではあるものの、まだその完全な姿は現れていないもの」と捉えることができます。 実際、シュタイナーは「死後にその全貌を現わすもの」と述べています。

■物質界では、多様な可能性の中から、一つしか実現できない

私たちが人生を生きていきますと、重大な事柄ほど、「一つを選択しなくてはならない」という状況を体験します。 例としてメジャーリーグで活躍するイチロー選手を考えてみましょう。彼は、野球選手という職業を選択し、その仕事に正面から取り組んでいます。そして、そのことに多くの人々が感動してもいます。

さて、このイチロー選手の人格が、もし野球のない時代に受肉したとしたら、どのような生き方をするでしょうか。 仮に、信長、秀吉、家康の時代に生きたとしたら、どのような人生を歩んだと想像するでしょうか。 手にしていたのがバットでないことは確かです。 しかし、何を手にしているにしろ、ある種の求道的姿勢は持っていたのではないでしょうか?

私たちが人生でなすべきこととは、本来、特定の職業と結びついてはいないはずです。 地上的状況にあって、何かを選択し、実際に行動し、そこで最善を尽くします。 それでも、「人生でなすべきこと」の中で、この職業を選んだがためにできなかったこともあるはずです。

真の意味で医者を志した者なら、地上に苦しむすべての病人に救いの手を差し伸べたいと思うはずです。 そして、最善を尽くします。それでも、「すべての人」を救うのは地上存在としては困難です。多くのことがやり残されています。

このように、「本来行われるべきこと」と「実際に行われたこと」の間には大きな差があります。 しかし、そのちっぽけな「実際に行われたこと」はその段階には止まらず、死後に成長発展し、やがてその本来の姿を現わす、とシュタイナーは言っています。

この《萌芽》に相当する哲学用語(概念)が存在しませんので、シュタイナーは植物界からこれを借用したとも考えられます。

■非実在、実在、超実在

シュタイナーの言う《意志》は、単に「やりたい」と思うことではなく、行為を伴ったものを指します。ですので、意志=行為は実在です。たとえ、それが穴掘りだけであっても実在であることは間違いありません。しかし、行為は「本来やるべきこと」と比べれば、その超実在の部分でしかありえませんから、両者を比べれば「ちっぽけな存在」かもしれません。そして、これが死後、本来の大きな存在、超実在へと展開していきます。 ですので、意志が萌芽的ということを非実在、実在、超実在の視点で見ますと、

地上生での実在=萌芽 →→→ 死後、超実在=できあがってくる植物体全体

さて、この視点で「表象とは像的である」を比較してみましょう。

誕生前の実在 →→→ 誕生後は像(非実在)に弱められる



このように見ると、表象と意志の対称性が明確になります。

死から再受肉の人間の様子

■人間の永遠なる部分

たとえば、幾何学のピタゴラスの定理を理解したとします。この定理は人間が作ったものでもありませんし、朽ち果てることもなく、永遠不滅です。こうした永遠不滅な事柄を理解できるのは、私たちの内に永遠不滅なる部分が存在するからです。(証明にはなっていませんが、考えてみてください)。
これは《神的部分》と呼ぶこともできますし、《自我》とも言っています。シュタイナーが詳しく言うときには、《霊我》、《生命霊》、《霊人》に分けています。

■地上生における永遠なる《自我》

人間が地上で生きている間に、永遠なるもの、つまり真や善にかかわる事柄を身につけますと、人間のこの部分が成長していきます。無常なるもの、つまり物質界に囚われていますと、ちっとも成長しません。
また、人間の行為も、その帰結が地上界に残り続けますし、相応の痕跡も人間内に残ります。

■死後の《自我》、前半

死後の人間にも、もちろん永遠なる部分である《自我》は残ります。しかし、地上生を送る間に、地上への執着も身につけてしまっています。それらを浄化してから、霊界に帰依します。
また、前地上生での自らの行為の帰結についても、そのエッセンスを持ち続けます。

■死後の《自我》、後半

死後の霊界では、高次諸存在の助けも受けつつ、前地上生での自らの行為について「ああ、こうすればいいんだ」とわかります。すると、それを実行に移すべく、地上に受肉する準備をします。つまり、新たな誕生に向けて準備するのです。

■誕生前

誕生前には身体はありませんから、どのようなものとも一体になれます。こうして、あらゆる真実と一体になり、その叡智を身につけます。たとえば、人間がピタゴラスの定理そのものになってしまうのです。もちろん、《愛》も完全に自分のものにします。しかし残念ながら、こうした叡智は誕生の途上で、一旦忘れてしまいます。忘れますが、誕生後に適切な出会いがありますと、それを思い出す、言い換えると想起するのです。
人間の永遠なる部分は、前地上生で成長し、死後にそれをエッセンス(能力)として身につけ、次の地上生に向かいます。そして、高次諸存在の助けを借りつつ、魂を組織するのです。また、同時に地上生での身体(アストラル体、エーテル体、肉体)を準備してくれる夫婦を天界から探します。そして、自分の次の地上生で果たすべき役割に相応しい身体を見つけると、そこに受肉します。ただ、この選択では、譲れない部分はしっかりと探しますが、それ以外の部分では妥協するそうです。

■受精卵と誕生

霊&魂の複合体は受精卵に入り込み、発生を経て、次の地上生に向かいます。この時も、高次諸存在が事柄を采配しています。ちなみに、3歳までの子どもは、そうした諸存在に守られているそうです。そしてまた、高次諸存在は子どもの両親までも守ってくれます。妊婦、あるいは幼児が居る家庭では、その家庭を物質的に守っているのは大人であっても、霊的に守ってくれているのは、最も幼い子どもです。
ですから、挑発的には、「高次諸存在より賢くできるなら、胎教もいいんじゃない」と言えます。

■大人での魂のあり方

参考に載せておきます。



シュタイナー思想での《意志》

■シンプルな理解

シュタイナーが言う「意志」とは、基本的には単に「やりたい」と思うことだけでなく、実際に行為に移すことを意味します。


■代謝や消化も「意志的」

筋肉を動かせば、そこでは生化学的な代謝が行われ、実際に物質的な過程が起きます。また、消化吸収でも栄養物が実際に変化し、身体に取り込まれます。こうした過程も、シュタイナーの文脈では「意志的」と言われます。

■意志の階層性(『一般人間学』第四講)

シュタイナーは人間を構成する「肉体」「エーテル体」「アストラル体」「自我」さらにはそれより高次の「霊我」「生命霊」「霊人」と意志のあり方を対応させています。


  • 霊人…決断(Entschulss)
  • 生命霊…意図(Vorsatz)
  • 霊我…願望(Wunsch)
  • 自我…動機(Motiv)
  • アストラル体…欲求(Begierde)
  • エーテル体…衝動(Trieb)
  • 肉体…本能(Instinkt)

詳細は、『一般人間学』第四講に登場します。

2014年8月23日土曜日

自我が地上に降りられる条件

■私たちは水中で生活できるか?

この答えは、「はい」であると同時に「いいえ」でもあります。つまり、生身の人間としては数分しか水中に居られません。しかし、アクアラングなど、それなりにしつらえられた装置を使えば、もう少し長く水中に留まることができます。

■人間の霊的部分は地上的物質界には長居できない

人間の霊的部分、具体的には自我とアストラル体ですが、これは「人間が水中に長居できない」というのと同じ意味で、物質界には長居できません。それでも、それなりにしつらえられた装置を使えば、しばらくの間は地上界に留まることができます。その装置というのがエーテル体と肉体です。
ところが、自我&アストラル体がエーテル体&肉体の中に居ると、エーテル体&肉体はしだいにボロボロになっていきます。そして、ある限界を超えますと、自我&アストラル体は地上的物質世界に留まることができなくなります。いわば、アクアラングの酸素切れです。
しかし、エーテル体&肉体は自我&アストラル体の居ない夜間の睡眠中に自らを修復し、再び、自我&アストラル体を受け入れられるようになります。

つまり、本来は地上的物質的世界には属さないものであっても、リズムの中で地上界とかかわることができているのです。

イマギナチオーン、インスピラチオーン、イントゥイチオーンについての小考察


これらの二つは英語読みをすると、イマジネーション、インスピレーションで、日常用語でも使われます。しかし、シュタイナーがこれらの言葉を使う際には、基本的に超感覚的体験を指していますので、日常用語との混同を避ける意味で馴染みのないドイツ語発音をカタカナ表記しています。しかし、あまり訳がわからないのも辛いので、これらが初歩的にはどのように体験されるかを簡単に説明しておきたいと思います。
「霊」についての基本的理解も重要なので、「霊界お手軽ランドから霊界へ」も参照してください。

■イマギナチオーン

像と関係しますので霊視とも訳されますが、ここでの像は必ずしも視覚像ではなく、音像もありえます。
仮に「コップを創る」という課題があったとしましょう。
こうした課題に対して、通常は既存のコップを真似し、何らかの素材でそれを作るでしょう。しかし、もっと本質的・根本的なところから出発することもできます。つまり「コップとはどのようなものか」と問い、関連する事柄を挙げていくのです。すると、第一に「液体を人が飲む」という要件が出てきます。液体が漏れてはいけませんが、その他にも「置ける」とか「注ぎ入れる」「持てる」「適切な大きさ」等々の条件も加わります。たとえば、「適切な大きさ」というのは、「何を飲むか」に関係しています。ビールでは大きめですし、強い酒では小さめです。そして通常は「人が飲む水の量」が基準になっているようです。また、飲むためには縁に唇がきちんと付かなくてはなりません。プラスチック容器でうどんの汁を飲もうとすれば、その重要性がわかります。仮に底の部分の方が広い円錐台のコップですと、確かに安定して「置きやすい」でしょうが、重ねてコンパクトにできる紙コップのようには重ねられない、という問題が生じますし、もう一つ致命的問題が生じます。考えてみてください。
このような条件の元で、自分なりのコップを作り出そうとしますと、最初はまったく形のない状態から出発することになります。そして、この形のない状態から次第に形が生じてくるプロセスで、私たちはイマギナチオーンの質を体験します。念のために付け加えますが、これが完全にイマギナチオーンではありません。しかし、その質は持っています。
ペンの考察・・・デザインとは」も参照してください。

■霊的体験の準備はチューニング

シュタイナーの述べる修行とは、基本的に魂の質を霊界の質にチューニングすることにあります。
現代社会では、私たちの周りを特定の周波数を持ったたくさんの電波が飛び交っています。そのたくさんの電波の中から特定の電波を選び取る仕組みをご紹介します。非常に示唆的だからです。
コイル、コンデンサ、抵抗を組み合わせた簡単な電気回路があります。これは電気的な振動を作り出します。そして、その振動数はコイルの強さ(インダクタンス)とコンデンサの静電容量、抵抗値の組み合わせで決まります。言い換えますと、コンデンサの容量を変えると回路の固有振動数が変化するのです。
ラジオにはこうした回路が組み込まれていて、ダイアルを回すことでコンデンサ容量を変化させ、回路の固有振動を変化させることができます。そして、その固有振動を仮に828Hzに調節しますと、NHKラジオ大阪第二放送の電波がそれに共振し、ラジオに取り込まれ、放送を受信することができます。
このように、霊界の活動に沿った(霊界にチューンされた)魂の活動には、霊界の内容が降りてくるのです。

■イントゥイチオーン

さて、コップの理念から物体としてのコップを作り出すことは上述のプロセスで可能です。仮に、ヒマワリの理念からヒマワリの種が、そして芽生えが、さらにはヒマワリの花が出来上がっていく様子をイマギナチオーン的に作りあげる練習を続けたとしましょう。そして、もしその私たちの内的プロセスと「霊界において霊的ヒマワリが物質ヒマワリに形成されるプロセス」が同じになったときには、両者が一体になり、わたしたちは「分かった」という体験をするのです。そして、その内的プロセスが真実のものとして感じ取るのです。この体験、言い換えると「すべての分かった体験」はイントゥイチオーンなのです。しかし、通常の私たちは自らの魂の動きを霊界の壮大な動きに合わせることができません。しかし、時折、部分的に合わせることができると、そこで部分的な「分かった体験」を得るのです。この意味で、高橋巖氏がイントゥイチオーンに《霊的合一》の訳語を当てているのは慧眼のなせる業でしょう。また、シュタイナーの高次認識を体験するには、魂をどれだけ強く、柔軟にしなくてはいけないかは想像に難くありません。

ちなみに、誕生前の人間はまだ肉体を持っていませんから、自身を完全に霊的諸事象に合わせることができ、それらすべてを体験して、地上に生まれてきます。ただ、地上への誕生に向かうことで、その体験を一端すべて忘れてしまいます。たとえば、《円》になりきり、真の《円》を体験して誕生します。そして、地上界で円に近い形を見て、真の円を思い出す(想起する)のです。(この事情はプラトンの《想起説》で述べられています。)

■「分かった」の瞬間はイントゥイチオーン

幾何学の定理、たとえばピタゴラスの定理を学んでいて、全体の記述を何度読んでも、納得できない状況もあります。ところが私たちは、ある瞬間に「分かった」と感じます。その分かったという瞬間には、私たちは霊的対象、ここではピタゴラスの定理と内的に一体になっているのです。その意味では、あらゆる思考にインスピラチオーン要素があると言ってよいでしょうし、シュタイナーも『神智学』の第一章でそのように言っています。

■インスピラチオーン

インスピラチオーンについての説明には「イマギナチオーンで生じた像を意識的に消す」とあります。そして、それによって《意味》が降りてくるのです。
これを示す比喩的現象があります。読書です。私たちは本を読むときには字を読んでいます。しかし、内容に入り込んだときには、文字は意識から消え、代わりにその意味が入り込んで来ます。たとえば、誤植を探すべく字に注目して読んでいると、内容はまったくといっていいくらい入ってきませんし、逆に内容に入り込んでしまっていると、「てにおは」の間違いや誤植は見つけられません。
それと同様に、個々のイマギナチオーン像を消すことで《意味》がインスピラチオーンとして降りてくるのです。神道で言う水鏡に近い状態でしょう。水面が穏やかだと、そこに世界が映し出されるのです。

2014年8月15日金曜日

低学年はなぜ《ぬらし絵》?

■すべては本質への問い直しから


シュタイナー学校の水彩は、なぜぬらし絵から始めるのでしょうか?
それは、シュタイナーがすべてをその《本質》から問い直すからです。つまり、教育を始めるにあたっては、《育ちゆく子どもの本質》、音楽を展開する上では《音体験の本質》、そして絵画では《色彩》の本質から問い直しているからです。
シュタイナーはそれらの概略を『色彩の本質』という講演集で語っていて、《輝きの色》と《像の色》という全く新しい捉え方を示唆しています。私はまだ、この両概念によってシュタイナーが何を指し示したかったのかをきちんと理解できていません。こうしたシュタイナーの方向で、色彩についての探究を続けられている画家の方々のご意見を伺いたいところです。

■色彩の本質初級編


さて、そうした色彩の本質上級編には届かないものの、色彩の本質初級編は誰でも納得できると思います。
つまり、
色彩と物体とは別である
という見方です。
私たちの日常的な色彩体験は、《物体》と結びついています。花の色、服の色、自動車の色などなどです。それゆえ、公立学校での図画は、《物の絵》から始まります。樹を描いて緑に塗り、屋根を描いて赤く塗るのです。しかし、これによって体験する《色》は物に縛られた色でしかありません。上に書いたように、色とは物体ではありませんし、そうした物体でない色彩に対し、私たちは一種の憧れを感じています。
その証拠は、物ではない色を探せば明らかです。

■物ではない色


代表的なのは、虹です。他にもオーロラ、空や海の色、珊瑚礁のエメラルド・グリーン、朝焼け夕焼けの色などが、物ではない色の代表です。私たちは素朴に、この種の色を《物体に縛られた色》より美しく感じます。重さを持つ物質ではなく、光に近いからでしょう。そして、色彩が動きに満ちています。

■物ではない色を徐々に物質へと妥協すると


夕ぐれの空の刻々と変っていく色彩は、物体ではありません。これをやや物質化すると、次のような例がありえます。透明な水に絵の具(インク)を流し入れた時の様子です。色彩はまだ物には縛られず、ゆらめき動いています。多くの方がご承知のように、子どもたちはこうした《色遊び》が大好きです。これも、彼らが色彩の本質を本能的に感じ取っているからではないでしょうか。
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本質そのものは実現できませんから、どこかで妥協は必要ですが、本質を知れば無節操な妥協はしないでしょう。その一例が、絵の具の選択です。水彩絵の具には、透明水彩と不透明水彩がありますが、シュタイナー教育では、基本的に透明水彩絵の具を使う理由も、了解していただけるはずです。

■さらに妥協すると


こうした自由に動ける色を平面上で実現する可能性として、《ぬらし絵》があるのです。もちろん、紙が乾いてしまえば色彩は動きを失ってしまいますが、子どもは色彩の動きと共に心の動きを体験しています。

■色彩を物体と結びつけるのではなく、魂の動きと結びつける


「緑」は「葉の色」でしょうか「安らぎの色」でしょうか。どちらも間違いではありません。しかし、より本質に近いのは、色彩を魂の体験として感じ取ることです。小学生の魂はまだ柔軟で、真の感性を育てていく時期にあります。そうした子どもたちに絵を教えるなら、「物との結びつき」はできるだけ排し、「魂の動き」とのつながりを伝えていくことが、最も重要な課題になります。それゆえ、シュタイナー教育の水彩の授業では、4年生になるまでいわゆる《具象画》は描かせません。
ちなみに、クレヨンでは何の問題もなく具象画を描かせます。その理由は、クレヨンとぬらし絵の質の違いを考えていただければ、一目瞭然でしょう。シュタイナー教育を標榜しながら、低学年に具象の水彩画ばかり描かせている教師がいたら、それは偽物か、勉強不足です。
あるいは、黄色を描きながら、「一面の菜の花」といった安っぽい喩えをするなら、教える側としては感性の不足、というのが私の見解です。

アントロポゾフィー絵画が目指す《色彩からの造形》

■本質に回帰する

シュタイナーの芸術論の核心は本質に立ち返るという点にあります。 その意味で、絵画の一番の課題は色彩に立ち返ることです。それゆえ、シュタイナーは「色彩から描く」ということを随所で強調しています。そうした中から、「学習的スケッチ集」と呼ばれる簡単な絵が生まれました。
低学年はなぜぬらし絵?』の記事もご覧になってください。

■「学習的スケッチ集」

ルドルフ・シュタイナーは絵画において色彩から形が作られていくと語っていました。そこであるとき、ゲーテアヌムで描いていた女流画家のHenny Geckがシュタイナーに「そのプロセスをわかりやすく示すモチーフを描いて欲もらえませんか」と頼みました。

こうして、1921年にいわゆる学習的スケッチ集が誕生しました。シュタイナーは約30点の一連のスケッチを描きましたが、始めは単純な自然界のモチーフです。もちろん、モチーフが色彩から生じて来る様子がはっきりとわかります。これと同時期にシュタイナーは画家のための色彩論の講義を4回行っています。そこでも、色彩ダイナミクスの違いから色彩の質を感じ取ることを出発点にしています。




上の絵の上が「日の出」、下が「日の入り」です。もちろん、PC上の画像では色彩のニュアンスは壊れていますから、この色調からフォルムが生み出される様子を感じ取ることは難しいですが、参考までに紹介しておきます。

このように見ますと、「学習的スケッチ集」を追体験することは、シュタイナー学校教師にとって非常に有益でしょう。こうした練習を通して、色彩に対する感覚がより目覚めるからです。この練習は楽器の練習と比べるならチューニングの練習とも言えるでしょう。

チューニングもできない先生から楽器を習おうという人はいるでしょうか? しかしながら、色におけるチューニングができる人はまだ多くはありません。その意味では、皆が途上にいます。ですから、シュタイナー教育で絵画を教えようとする者は、少なくとも「よりよくチューニングできるように」努力する必要があるのではないでしょうか。

こうした画法を系統的に身につけられるのは、ドルナッハのワーグナー絵画学校と言われています。

ヘルムート・フォン・キューゲルゲン氏の絵画授業の進め方

■訳者注

キューゲルゲン氏はシュタイナー教育幼稚園連盟の代表として活躍され、非常に多くの貢献をしています。
また、ゲーテアヌム医学セクション代表のミヒャエラ・グレッケラーさんのお父さんでもあります。

■描くことと観ること

水彩を重ねていくにつれ、描くことと観ることを交互にしていく必要があります。絵が上手くいくか否かが、描き始めの段階ではっきり現れる場合もあります。ですから、子どもの手から筆を離させ、筆洗いに入れさせ、絵をきちんと観るように指導します。そのようにしてもなお、最初のうちは指で描き続けようとする子もいます。しかし、続けていくと自分自分を克服し、やりたいことを続けるのではなく、自分の行為に距離を置くことを学んでいきます。

一方では、教師に自分の絵を観てもらいたがる子どももいます。そのような子に対しては、その絵のいいところ、その絵が持つ憧れ痛み、などを言葉で表現します。こうしたやり方を通し、子ども自身が問題点を発見し、それを理解したときに、はじめて技術的なアドヴァイスが有効になります。また、気持ちも新たなに描き続けられます。創造的な休憩によって子どもの心が生き生きとしますと、新たなファンタジーも生まれてきます。

こうした際には、秩序と静けさが必要です。色の語る言葉は微かなので、それを聞き取る静けさが必要なのです。その意味でも、「筆を一旦置く」ことは重要な節目になります。

私は一つの練習を2回から3回繰り返させます。 それによって、能力が向上し、芸術行為における道徳的意味が増すからです。


最初のぬらし絵「緑&黄より青&黄の方が美しい」

■美的感性を教える

子どもたちに、「青の隣の黄色の方が、緑の隣より美しい」と教えるように、シュタイナーは助言しています。(『教育芸術1教授法』高橋巖訳P65、66、最下段参照)
この表現に戸惑う人、あるいは反発する人は少なくありません。それはおそらく、美的感性を押しつけられるように感じるからでしょう。

■小学生には手本となる大人が必要

「何が善いことで、何が善くないことか」、「何が正しく、何が正しくないのか」、「何が美しく、何が美しくないのか」を、子どもは大人を介して学びます。こうした判断の基準を、生まれながらにしてある程度持っている子どもは確かに居ますが、それでも自分が信頼する大人の感じ方を受け取っていきます。それゆえ、子どもの前に立つ大人は、その人の言葉でも、その人の行動でもなく、その人の在り方が問われるのです。
そうした絶対的信頼感を条件に、客観的な美的感覚を子どもに伝えます。色彩の例の後で、シュタイナーが協和音と不協和音の比較を例に出しているのも象徴的です。言葉にはしていませんが、「音に美しい協和音とあまり美しくない不協和音があるのと同じように、色の組み合わせにも、美しい組み合わせとそうでない組み合わせがある」と言いたいのだと思います。
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【作例】お手本では黄色を円にしますが、子どもが円を描けるかは問題にしません。色彩の体験と形の体験はまったく質が違いますし、ここではあくまでも色彩の体験が第一だからです。

■ゲーテ『色彩論』レベルでの青と黄色

ゲーテの色彩論では、その基幹にあたる対の現象があります。
光の前に濁りがあると黄色が生じ、闇の前に(光を帯びた)濁りがあると青が生じる
という現象で、これをゲーテは根源現象と読んでいます。これはプリズムを通して白黒の境界面を見ることでも生じます。
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上の図をプリズムを通して撮影すると、下のようになり、黄色と青が対称に現れます。
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つまり、青と黄色は色彩論の中で要となる組み合わせであり、論理構造上、美しい組み合わせと言えるのです。さらに言えば、ここには目に見えない美しさも実現されているのです。
もちろん各自の魂的な部分で判断するなら、「緑と黄色の組み合わせの方が好き」という言い方はできますし、これは他者に教えるべきことでもありません。ですから、「好き」という主観的な事柄と、「美しさ」という客観的な基準を分ければよいのです。

■シュタイナー『色彩論』レベルでの青と黄色

シュタイナーは色彩を《輝きの色》と《像の色》に分けています。その中の《輝きの色》は
  • 黄……霊(精神)の輝き
  • 青……魂の輝き
  • 赤……命の輝き
と語っています。私自身は、色彩に対するここまで深い体験はありません。しかし、この言葉が正しいとしますと、シュタイナー学校の最初の水彩で行なわれているテーマ、つまり「周囲に青を描き、その後で中央に黄色を入れる」という絵は、一つの物語になります。
つまり、魂という受け皿に霊(自我)が宿る瞬間の絵になるのです。(「自我の由来と私という呼称」も参照してください。)
1年生の前でお手本を描くときに私は、輪廻転生の中で、一つの自我が、前世の果実を担って、カルマを認識しつつ、地上へと向かう決意をする瞬間をイメージしています。

■参考

『教育芸術1教授法』高橋巖訳P65、66
[シュタイナー]教育芸術1方法論と教授法p065

2014年8月13日水曜日

世界でたった一本しかない花のお話

1992年森 章吾作
似た題名のヒット曲がありましたが、名前の盗作ではありません。

あるところに、一匹のねずみがおりました。 ねずみは毎朝、野原を歩いて、そこのお花の一つ一つにあいさつをしてまわっていました。 恥ずかしがり屋のスミレには、おどかさないように優しい声であいさつをしましたし、勢いよく空に伸びているチューリップには背伸びをして、大きな声で精一杯、あいさつをしました。 ねずみはナズナやホトケノザ、ハハコグサのような小さな目立たない花も大好きで、決してあいさつを忘れることはありませんでした。

季節がめぐって、神様が天に昇って、大地も宇宙も、全部取り囲んでくれる日がやってきました。 この日が特別な祝祭であることは、どの獣も、どの虫も、どの花もよく知っていました。 ですから、鳥は朝からとりわけ美しい歌を歌いますし、花はそれぞれに一番美しい姿を見せるのでした。

その大切な祝祭の朝早くのことでした。 お日さまの最初の光が、この国を守る大きな2本のけやきの樹の間から、丘の頂に届いたときでした。 小さなねずみがそれまでに見たこともない花が咲いたのです。 それは世界でたった一つしかない花でした。 その花びらは水晶のように透明で、生まれたばかりのひよこの羽毛のように軽く、それに祝祭の大切な日の光が当ると、それはそれは美しく輝くのでした。 そして、葉の一枚一枚には朝露のしずくが真珠のように輝いていました。 ねずみは世界でたった一本しかない花が、一目で好きになりました。 そして、もちろん毎朝一番に、この世界でたった一本しかない花に格別なあいさつを送りました。 そして、こんなにも美しい花を見られたことを、日々、神様に感謝しました。

けれども、お日さまが一番力強く輝く日が過ぎてからは、世界でたった一本しかない花には、花が咲きませんでした。 それでも、しばらくすると、その実からはねずみをゆったりとした夢に誘うような香りが漂ってきました。 柔らかな毛のはえたやさしい葉は、お日さまの光を受けて本当にうれしそうに広がっていました。 ねずみはそんな葉っぱの間から空を見上げるのがとても好きでした。

季節は少しずつ、でも確実に変わっていきます。 あんなに元気そうだった葉も、がさがさと、しだいに力無くしわがれていくのでした。 世界でたった一本しかない花が枯れていくのです。 これが枯れてしまったら、もう二度と見ることができないかもしれません。 風が吹くたびに、葉が一枚一枚飛ばされて、最後には干からびた茎がまるで棒きれのように立っているだけでした。 他の花は、もう種をたくさん飛ばしています。 でも、世界でたった一本しかない花は、まだ種を一つも飛ばしていません。 やはり、これが世界で最後の一本だったのでしょうか。 ねずみはそれが心配で心配でしかたがありませんでした。

ところが、少し冷たい風が吹き始めた日のことでした。 風の音に消されてだれも気がつかないほどの、ほんの微かな音がしました。 それは、世界でたった一本しかない花を心から心配しているねずみにしか聞えませんでした。 世界でたった一本しかない花の実がはじけたのです。 そして、種ができたのです。 世界でたった一本しかない花の、世界でたった一個しかない種です。 ねずみは本当に安心しました。 でも、その種が地面の落ちようとしたその時です。 風が吹いて、種を飛ばしたのです。 丘のふもとには小さな川が流れていましたから、種がそこに落ちたら大変なことになります。 神様が天に昇る大切な祝祭の日に咲く、世界でたった一本しかない花の種が海に流されてしまうからです。 ねずみはびっくりして、世界でたった一個しかない種を追いかけました。 ねずみは見失わないように必死でした。 そして、息が切れ、心臓が口から飛び出しそうになるくらい一生懸命に走りました。 転んで傷だらけになっても走りつづけました。 本当に大切なものを守らなくてはいけないからです。

そんな思いが天に通じたのか、ふっと風がやんで、種が地面に柔らかく落ちてきました。 それでねずみは、種が小川に落ちてしまう、ほんのちょっと前に種に追いつくことができました。 それは、小さな種で、ねずみの小さな指先でも、落とさないようにするのが大変でした。 ねずみはその種を大切に大切に持ちかえって、丘の頂の、朝日が一番に届くところに小さな穴を掘り、種をそっと置き、土をかぶせてあげました。 それから毎朝、その種を植えた所にあいさつの言葉を送ってあげました。

そとはずっと寒くなり、ねずみが秋に咲く最後の花にあいさつをしてから、もうずいぶんと時が経ちました。 ねずみは野原じゅうをまわることもなくなりました。 ねずみは歳をとって、脚もだんだん弱くなり、坂を登るとすぐに息が切れてしまうのです。 ですから、丘の頂の世界でたった一本しかない花の種が埋まっているかたわらで、一日中、お日さまの光を浴びていることが多くなりました。

そして、冬のある日、ねずみに天からお迎えがやってきました。 そのとき、最後に大きく息をして、神様に感謝の言葉を言いました。 「私は、世界でたった一本しかない花を見ることができて、本当に幸せでした。 祝祭の日に咲いた花を私は決して忘れません」。 そう言うと、ねずみは種のかたわらで、深い深い眠りに入っていきました。

優しい風が砂を運んできて、ねずみにかけてあげました。 小さな小さなねずみでしたから、赤ん坊の手のひらくらいのちっぽけな地面があれば十分でした。 そして、次の日の朝には、そこにはもう霜が降りていました。

月日がめぐり、春の花の季節がやってきました。 けれども、丘にはねずみのあいさつの声はありませんでした。 でも、お日さまは世界でたった一本しかない花に向かってこう言いました。 「さあ、お前の時がやってきた」。

すると、世界でたった一本しかない花は芽を出し、お日さまの光を受けて、すくすくと伸びていきました。 もちろん、丘の頂の朝日が一番に届くあの場所です。 花はとっても立派に育って、また神様が天に昇っていく祝祭の日が近づいてきました。 鳥たちは、その日に歌う美しい歌の相談をしています。 まわりの花は、その日をどんな色で飾るのかをお話しています。 それを聞いて、世界でたった一本しかない花はだんだん悲しくなってきました。 自分には祝祭の準備ができていなかったのです。 つぼみすらもできていないのです。 神様を祝福することができない自分が悲しくなってしまいました。

すると、その時です。 下の方からとても暖かい力を感じたのです。 暖かい力が赤ん坊の手のひらくらいの地面から上がって来るのです。 世界でたった一本しかない花は、その暖かさが何であるか、すぐにわかりました。 それは、はるか彼方の、天にたった一つしかない星からの力でした。 宇宙でたった一つしかない星の力が、夜の間に、赤ん坊の手のひらくらいの地面に集まって、そこから暖かい力となって上ってくるのです。 この力を感じて、世界でたった一本しかない花は、自分の中につぼみができてくるのがわかりました。 祝祭の日のための大切な大切なつぼみです。 なんと素晴らしいことでしょう。 これで、神様の祝祭の日を飾ることができるのです。 つぼみは日に日にふくらんで、明日の祝祭の日を喜びいっぱいで待っています。 大切な日を前にして、世界でたった一本しかない花は、あの暖かい力が立ち上がってきた赤ん坊の手のひらほどの地面を見ました。 そこからは、あいかわらず暖かい力が流れてきます。 世界でたった一本しかない花は「ありがとう」と一言、その赤ん坊の手のひらほどの地面にお礼を言いました。

そう、咲く前につぼみが頭を下げて、地面にお礼を言っている姿を見つけたら、その花は、この世界でたった一本しかない花のお話を知っている花なんですよ。


「幼児ぬらし絵の会」を始めるために

■ はじめに

幼いお子さんをお持ちのお母さんやお父さんがシュタイナー教育に関心を持ち始めますと、まず、どこかにそうした教育をしている幼稚園がないかを探すでしょう。しかし、身近にそうした施設があるのは、現在の日本では非常に希です。 
そんなときに、ささやかではありますが、シュタイナー幼児教育のやり方を少しだけでも真似て、近所で自分達の子供のために「ぬらし絵の会」を開いてみたらどうでしょうか。場合によって、大人がちょっとだけお手本を示すといいかもしれませんが、基本的には、子供に何も教える必要はありません。色彩体験そのものが子供のとって、喜びとなるからです。そして、ぬらし絵による水彩画は、知的なものに触れる機会が多く硬直しがちな子供の心にやさしくはたらきかけます。シュタイナー教育に関心を持つお母さん2、3人が近くにいれば、すぐにでも始められます。「シュタイナー教育」ということで変にかしこまらずに、take it easy で気楽にやれるといいと思います。 
場所は、公民館や集会所などの公共の場所を借りることもできますし、小人数であれば、参加者の方の自宅で行うこともできます。ただし、水の便がよいところを選びましょう。公民館では「調理実習室」を使わせてもらったこともあります。自宅で行う場合、どうしてもその家主に負担がかかりますから、その点については、お互いによく話し合っておく必要があります。「犠牲的精神」というのは美しくもあり、また、時には必要ですが、あまり長く続きますとつらくなってくるのも事実です。無理や負担が一部に集中しないように、上手に分担しましょう。負担がかかっている人も、ついつい「平気だから」と言ってしまいがちです。しかし、その負担が長く続いても本当に平気かを、自分の中できちんと確認しておきましょう。100mを走るペースで10kmは走れません。 
基本的に、子供にとっては、いつも同じ場所で、いつも同じ手順で、いつも同じ仲間と描けるのが望ましいでしょう。 

■ 必要なもの

画用紙、絵具、筆、画板、絵具皿、筆洗いの瓶、雑きん、スポンジ、ビニールシート、水の便の悪いところでは、10lくらいのバケツ。 

画用紙

画用紙なら何でもよいのですが、ここでは幾つかの可能性をご紹介します。大きさは幼児の場合は、八つ切りでよいと思います。子どもが特に幼い場合には、紙の隅々まで手が届きません。
私は描いたときの色彩体験などの観点から、小学生以上にはA3サイズを薦めます。ただ、シュタイナー学校でも、おそらく経済的事情から、八つ切りの小さな画用紙を使っているところも多いようです。日本でA3の画用紙を使おうとすると、無駄が多く出て不経済です。

★学童用画用紙 
これは紙としては最も安価に手に入ります。主に八つ切りで売っていますのでそれを使います。紙は十分に白いのですが、ぬらしてスポンジでこすりすぎますと、「垢すり」のようになります。このかすが紙面に残っていると、絵にむらができます。また、紙が乾くときに、絵に白い斑点が浮き出し、絵が壊れてしまうこともあります。 

★ワトソン紙 
水彩用の紙としては日本でもっとも一般的で、画材屋さんならどこでも手に入ります。シュタイナー教育を意識したぬらし絵の講座を開いている多くの方が、この紙を使っています。しっかりとした紙です。絵具ののりに若干の問題があり、紙が乾いてくると、一筆毎に色がはげてしまい、絵が作品としては壊れてしまいます。
A3にするには、全紙の大きさのものを購入し、そこから5枚の紙を取ります。近所の画材屋さんで紙を切ってもらえるかを尋ねてみるといいかもしれません。切り残しの半端な紙も、申し出るとくれますので、しっかりもらっておきましょう。カードなどに使えます。A3、1枚当たり70円強です。

絵具

必ず透明水彩を使います。現在、日本では、ホルベイン社、Winsor-Newton社、シュトックマー社などの透明水彩が手に入ります。シュトックマーの絵具を大瓶(250ml)で6色そろえると4万円以上にもなって、「高い」です。しかし、透明水彩としては発色が強く、ぬらし絵にはもっとも適しています。

6色セットの小瓶で始め、黄色(レモンイエロー)などが無くなったら、足していってもよいかもしれません。若干色味が違いますが、黄色は日本製のマッチカラーなども使えます。また、カーマインは、マッチ・ベイシック・カラーの方が優れています。紙への乗りが格段によいのです。それゆえ、「色剥げ現象」も起こりにくくなります。

マッチ・ベイシック・カラーも120ml瓶で売っていて、価格は2862円(2014年現在)だそうです。

面で塗っていくには、平筆が適しています。丸筆ですと、どうしても「細い線で描く」という誘惑がでてきます。筆は毛先が十分に柔らかく、それで適度なコシのあるものを選びましょう。ちょっと硬いとまったく使いにくくなってしまいます。化学繊維の毛を使っているものは、まずほとんど使えません。描くたびに色がはげてしまうこともあります。私は7号程度(幅約 2cm)のデザイン筆を愛用しています。(水彩筆では20号程度)。750円くらいのものから2000円くらいのものまであります。 
弘法大師の末裔でない方は。よい筆を選びましょう。 刷毛は毛が多すぎて絵が非常にびしょびしょになりやすいので、あまり適していません. 刷毛とは、基本的に広い面を塗るための道具ですから。 

保管の仕方が悪かったりすると、筆の毛先が広がってしまったり、曲がってしまったりします。そんなときには、やまと糊などで形を整えながら固めておきます。そうすれば、次に使うときには、毛はまっすぐになっています。 
 

画板

水彩専用の画板でしたら、5mm程度のベニヤ板が一番簡単でしょう。八つ切りの画用紙のためには、300×400mm程度にカットしたものを使います。
ホームセンターなどで、カッティングのサーヴィスのある店に切断をお願いすると簡単です。端をやすりやドレッサー(NTカッター社の商品で「手軽なやすり」です。)で面取りしておくと、子供がそれで刺をさすこともなくなります。ニスなどを両面に塗っておくと、ずっと描きやすくなります。片面だけにニスを塗ると板が反ってきてしまうので、気をつけましょう。 
描いた絵は、ある程度乾くまで画板からはずさない方が仕上がりがきれいです。ですから、一人で何枚かの絵を描く場合には、画板も数枚用意しておくとよいでしょう。子供は2枚や3枚、すぐに描いてしまいます。ですから、子供が3人いたら画板10枚では足りないくらいです。 

絵を乾かすスペースがある場合には、濡れた絵を乾いた新聞紙の上に移し、ドライヤーを使いますと、乾きが速くなります。帰宅を急ぐ場合などは、この方が合理的でしょう。

画板台

必ず必要、という物ではありません。 しかし、子どもは何枚もの絵を描き、置き場に困るときには便利です。 また、公民館などの会場を使っている場合には、時間がきたら絵を持って外にでなくてはなりません。 その時、画板台があればまとめて収納でき、また、まとめて運べます。 そうしたものの一例を紹介しておきます。 これは、10枚収納でき、折りたたむと画板と同じ大きさになります。 ただ、木工所に頼まないと、工作は難しいかもしれません。(この私のアイディアは、その後、地味に広がっています。)

絵具皿

直径95mmの陶器製あるいはプラスチック製の絵具皿があれば、それが一番使いやすいでしょう。一人当たり、3枚必要です。しかし、少量の絵具を入れる容器であれば、別に専用のものを用意することもありません。ガラスの小瓶など、適当なものを探しましょう。ただし、安定したものを選びましょう。こぼしたからといって子どもを叱ってはかわいそうです。結局市販のプラスチック製の絵具皿が使いやすかったりします。  

スポンジ

お金のある人は、天然の海綿を使われるといいでしょう。ドイツの教員養成ゼミナールではマットレスの切れ端のようなものを使っていました。私はセルローススポンジが気に入っています。余分についた水を上手に拭き取れるからです。  筆についた絵具をぬぐうのにスポンジを使う流派もあるようですが、スポンジに色が着いてしまうと、画用紙を濡らすときに使いにくくなります。スポンジは画用紙を濡らすときの専用にし、筆の絵具をぬぐうのは雑きんにまかせましょう。 

筆洗いの瓶

子供には、大きな透明なガラス瓶を用意してあげましょう。筆を洗うときの絵具の様子も、子供にとっては大きな楽しみです。 運搬が伴う場合には、2リットルのペットボトルを高さ15cmくらいに切った物も使いやすいです。

ビニールシート

絵具がこぼれた時の「保険」です。 
 

■ 紙のぬらし方

紙を浸す容器がある場合

八つ切りの紙が平らに入る大きさの容器があると一番簡単です。これは何でもかまいません。家庭でしたら、シンクに水を溜めてもよいですし、風呂桶も使えます。プラスチック製の衣装ケースを使うこともできます。そこに水を張って、紙を1枚1枚、お互いが重なり合わないように入れていきます。紙を水平に対してやや傾けて、水の中に滑り込ませるようにするとよいでしょう。蛇口から水を足すときには、水が画用紙を直撃しないように気を付けましょう。紙が傷むと、絵の仕上がりにムラができます。 

厚手の紙で2、3分、薄いものでしたら数十秒浸したら、画板の上に取り、真ん中から端に向かってスポンジで丁寧に押さえながら、しわができないように貼り付けていきます。ニスなどを塗っていない画板では、画用紙の水分を画板が吸ってしまいますから、画板も少し濡らしてから画用紙をその上に置くようにするとよいでしょう。 

紙を浸す容器がない場合(薄めの紙では有効)

スポンジにしたたるくらいに水をたっぷり含ませて、画板、画用紙の両面を手早く順に濡らしていきます。紙が十分に濡れますと、しだいに伸びてきますので、この時に両手で端を持って持ち上げ、洗濯物を乾かすようにします。こうしますと、紙が伸びてもしわができません。しばらくして紙がこれ以上伸びないと思われたら、紙を画板に張り付けます。 
それでもしわが見えたら、こまめに紙を貼り直し、しわを伸ばしておきます。しわができて、あまり長い時間そのままにしておきますと、しわが伸びにくくなってしまうので気をつけてください。 

しわの取り方

画板と画用紙の間に気泡が入ったり、しわができたりすることがあります。このときに、力ずくでこの気泡を押さえつけようとしてはいけません。最悪の場合、画用紙に折り目がついてしまい、絵を描いても、折り目に絵具が入り込み、変な線が入ってしまいます。面倒でも画用紙を端からすこしはがして、丁寧に押さえつけながら、貼り付け直すようにします。 

絵具の調整の仕方

シュトックマーの基本6色は、青(ウルトラマリーン、インディゴ)、黄(レモンイエロー、ゴールデンイエロー)、赤(カーミン、チノーバー)です。 
これらを混ぜ、ある程度薄めて、描くための基本3色を作っておきます。 
主体になるのはウルトラマリーン、レモンイエロー、カーミンですが、これだけですと色が「硬い」ので、それぞれインディゴ、ゴールデンイエロー、チノーバーを若干混ぜ、印象を和らげておきます。ただし、この配合は、絵のテーマや季節などで多少変わり、当面は、その時の気分で気に入った色になればよいでしょう。 

毎回少しずつ作っていますと、ブレンド毎に色が変わってしまう場合もでてきますから、調合の際には、ある程度の量をまとめて作っておきます。こうしておきますと、毎回、ちびちび調合する手間も省けます。ただし、薄めた絵具は腐りやすいので、プラスチックやガラスの密閉容器に入れて、冷蔵庫に保管します。また、しばらくしますと絵具が底に沈殿しますので、使うときには底の方から十分にかき混ぜて使ってください。密閉容器もいろいろ試して、蓋がネジ式になっている化学試薬を入れるような容器が一番使いやすいことがわかりました。通常の密閉容器ですと、本体と蓋の間にしだいに絵具が固まっていき、やがてその隙間から絵具が漏れ始めます。

■ 時間の流れ

公民館などの場所を使う場合

ぬらし絵の会は、実際に描くのは1時間弱ですが、全体では大体2時間がめどです。 
まず、絵具を調整し、それを小皿(小容器)に分けてそれぞれの子供に1セットずつわたします。ぬらした紙を画板に用意して、準備完了です。
用意をしながら、あるいは皆がスタンバイしたところでお絵描きの歌を歌います。この歌は、東京の南沢シュタイナー子ども園を主催している吉良創さんの作詞作曲です。

七色の虹の橋
光の色の虹の橋
私のところに降りてこい
光の色を連れてこい 
この歌を歌うと、子供は自然に虹の絵を描きたがります。 
回数を重ねるうちに、子供が「今日は描かない」と言い出す日も出てきます。そんな日は、大人が描いて楽しんでしまいましょう。すると子供も自然に描きたくなってしまいます。 
子供にとっては、大人が描いている姿を見るのも大切です。筆の洗い方や雑きんの使い方などを、真似を通して身につけてしまいます。 
子供も、上手な大人の絵を見て「自分もこんな風に描きたい」と思います。そして、もちろん大人のようには描けませんから、それを深く悲しむこともあります。ぬらし絵の会に「上手・下手」の意識が強くあると、子供が不必要な優越感や劣等感を持ってしまうこともあります。ですから、日ごろから、上手・下手を意識させるような言葉は避けましょう。そして、どの絵にも必ずいいところを見つけて、一言、コメントしてあげましょう。「暗いところで、この黄色は本当に輝いているね」、とか「赤と青が一緒になって、こんなにきれいな紫になっているね」といった感じです。 
しかし、自分が思ったように、あるいは大人のように描けなくて、子供が泣き出してしまったら、気の済むまで泣かせてあげましょう。高い目標に向かって流す貴重な涙ですから。ただ、描く意欲が失われないようにしてあげましょう。 
 

絵があまり水浸しにならないように

筆に常に絵具をどっぷりつけて描いていますと、紙が絵具で水浸しになります。こうなりますと、絵具が流れ、絵にはならなくなります。子供の場合には、こうなってしまっても別に注意を与える必要はありません。しかし、子供のお手本となるべき大人は、この初心者の段階は卒業している必要があります。 
さて、描く際には、次のような可能性があります。それぞれどのような表現になるかを確認しておけば、状況に応じて使い分けられます。子供は大人がやっていることを真似しますから、ことさらにテクニックを教える必要はありません。 
  • 筆に、したたるくらいたっぷりと絵具をつけて描く。
  • 筆を、一回絵具皿の縁に押し付け、水気を少し切ってから描く。
  • 絵具に浸した筆を指先で絞ってから描く。
  • 筆にたっぷりと水をつけて描く。
  • 雑きんで筆の水気を十分に吸い取ってから描く。(画面の絵具が少しはがれます)。
大雑把に言ってしまえば、描き始めは水を多めにし、絵をしだいに具象化していくときには、水分をよく切った筆を使うと描きやすいでしょう。はじめから水分の少ない筆で描きますと、くっきりとした色の痕が残りやすくなります。こうした痕ができてしまいますと、それを嫌うがために絵が自由に描けなくなってしまうことが多いようです。 描いたら、画板に置いたままで風通しのよいところにおいて乾かします。ある程度乾くまでには、条件にもよりますが1時間くらいかかりますので、公民館の部屋を借りている場合でも、もうしばらく家には帰れません。ちょっとしたヒントですが、絵がある程度乾いて、絵具が落ちなくなったら、画板ごと絵を重ねてしまうと、乾いたときにしわができにくくなります。
ここで簡単なおやつを用意しておくと、子供も大人もうれしくなります。私のところでは、おやつは毎週同じです。週の同じ曜日に、同じように水彩をして、同じおやつを食べ、そしてちょっと遊んで帰るのです。 
絵具の小皿や雑きんを片づけて、おやつの準備をします。きちんと、お祈りをして、皆で「いただきます」を言ってから、食べ始めます。

大地がこれらをくださいました。
太陽がこれらを実らせました。
愛する太陽、愛する大地、
私たちは決して忘れはいたしません。 

このお祈りは、クリスチャン・モルゲンシュテルンの詩を翻訳したものです。 適切なものがあれば、別なお祈りでもかまいません。ただし、子供にとって親しみやすいこと、毎回、同じものを使うこと、の2点には気をつけてください。もちろん、お祈りなどしない、という選択肢もありますが、これは各自の判断にお任せします。 
食べながら、あるいは食べた後では、大人同士でも話が弾みます。この時間は、語り合うよい機会でもあります。人が何人か集まれば、やれることも増えてきますし、いろいろなアイディアも出てくるので、貴重な意見交換の時間です。
おやつを食べると子供は元気になり、いろいろと遊び始めます。そのために、若干のおもちゃも用意しておくと望ましいでしょう。また、天気がよければ、大人が引率して、散歩に行ってもいいでしょう。残った大人は、その間に絵皿やおやつの食器などを洗って、後片付けをします。絵もある程度乾けば、画板からはずせるので、画板も雑きんでぬぐって、はみ出した絵具をきれいにふきとっておきましょう。散歩から帰ったら、絵も持って帰れるくらいに(望むらくは)乾いています。絵具のついた雑きんは、誰かがまとめて持って帰りましょう。数が多くなれば、洗濯機も活用できます。 
仲間うちの会であっても、若干の入会金や会費を決めておくと、会の運営が楽になるでしょう。絵具代、画板代、画用紙代、おやつ代、等々、共通の会計にしておくとよいものも多いですから。こうしたことが決まっていると、途中から参加されたい方が現れても、すっきりとしたかたちで参加できると思います。また、会費が多少余ってもいいでしょう。水彩画の講習会などがあったときに、参加費をそこから出してもいいかもしれません。誰かが学んできたことも、すぐに共通の財産にできるのですから。もちろん、個々の具体的な部分は仲間同士で話し合って決めます。 

もちろん、描く喜びは他の絵具、他の画材でもありえるでしょう。しかし、この水彩では絵具そのものの色、それらが混ざったときの色が美しく、その「色の美しさ」が描く喜びを倍増させてくれます。「美しく描けた」と満足できれば、それが次の意欲にもつながります。美しい音色が音楽をする心を支えてくれるように、美しい色が子どもの描く意欲を支えてくれます。これは私の実感から、はっきりと言うことができます。
 

■ 【参考図書】

『シュタイナー学校の芸術教育』M・ユーネマン、F・ヴァイトマン著、鈴木一博訳、晩成書房 
この本は、シュタイナー学校の1年生から12年生までの絵画芸術の教育について系統的に書かれた本ですから、さまざまな点で参考になると思います。ただし、すべてのシュタイナー学校で同じように授業されているとは考えないでください。むしろ、この通りにやっているクラスの方が希かもしれません。


なお、挿絵は大阪在住の岩元睦子(ちかこ)さんが描いてくださいました。