2014年10月1日水曜日

シュタイナーが教えた九九

シュタイナーが教えた九九

掛け算の導入が終わったクラスにシュタイナー自身がやってきました。そこで彼はこんな話をしたのだそうです。
今は夏だから外にはバラの花が咲いているね。
もし誰かがバラを籠に入れて持ってきてくれたら嬉しいね。
ここに籠に入ったバラがあることにしよう。
これを今から皆に配っていくよ。
最初の君に、3本あげよう。
誰かが3本もらったら他の子も3本は欲しいよね。
だから皆に3本ずつくばってあげよう。
「3,6,9,12,15,18・・・30」。
こうして3本ずつ配ることができる。
でも、他の子はまだ貰っていないね。
みんなも欲しいよね。
だから、かごをもう一度一杯にして分けてあげよう。
「3,6,9,12,15,18・・・30」・・・
このようにして、九九の3の段の数字を自然に数回、クラスで繰り返すことになったそうです。

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純粋思考

《感覚に依拠しない思考》という言い方もします。

シュタイナーは《私》という語の特殊性を指摘しています。つまり、「自分を指す呼称として《私》という語を外から聞くことはなく、常に内側から響き出る」と言うのです。この点は、非常に重要です。ただ、ここでは少し厳密に考える必要があります。通常《私》と言う場合、そこには私の身体も含まれています。しかし、その身体部分ではなく、真に《私》と言える部分を考えます。たとえば、寝ている間に顔や姿が整形手術などで変えられてしまったとしましょう。すると、朝、鏡を見て思わず
これは私じゃない!
と言うでしょう。変わってしまった身体に違和感を感じる、変わっていない部分が本当の《私》で、この《私》にとって、私という語は内側からしか響きません。そして、何の証明も必要とせずに、その正しさを確証しています。私が私であることは、私にとっては証明不要なのです。さて、純粋思考による思考内容も、この《私》という語と同じ現れ方をします。つまり、物質的なものには一切かかわらず、思考内容が内側からの体験として生じてくるのです。

さて、通常の思考、つまり感覚界の事柄について考える場合には、思考の対象は感覚知覚から与えられています。たとえば、聞こえた音に対し「何だろう」と考えるわけです。ところが、純粋思考においては、思考世界に存在する法則に従って、内容を自分自身で作り出さなくてはなりません。そうでなければ、その思考内容を内側からの体験とは感じられないはずです。そして、内容を自分自身で作り出すという作業には、非常に強い意志の力を必要とします。シュタイナー教育における《意志》とは行為を意味し、単にやりたいと思うだけでは意志とは呼びません。この純粋思考における意志は、穴を掘る作業とは違い、決して物質的に何かに働きかけるわけではありませんが、それでも精神的・霊的な意味において作業し、創造しています。しかも、その創造のプロセスを自らが完全に体験し、その方向を把握していますので、《自由》な行為なのです。「選択の自由」という意味での自由はありません。霊的世界、つまり理念的世界の法則に完全に則っていなければ、こうした自由な思考はできません。



そうした状態を、次のように喩えることができます。シュタイナーの言う《自由》のイメージとして、私はしばしばサーフィンを挙げます。ボードに乗り、パドリング(手かき)をすれば、自由に、どこにでも行かれます。さて、沖に出て、大きな波がやってきます。この波の成り行きを正確に認識し、その波に乗った状態は、波に束縛されていて、不自由でしょうか。確かに、波の外に出ることはできませんが、サーファーはそこで起きていることを明確に意識して、そこに自分を合わせることで、大きな喜びを感じているはずです。そして、これこそが自由のあり方です。ピチャピチャと水をかいて、自分勝手にどこにでも行かれることが自由なのではありません。