2014年11月24日月曜日

第03講要約(一般人間学)

■序のコメント、低学年教師について

低学年教師は低位に見られるが、本来は同等の地位である。ただし、本質的な事柄の認識は必要である。

■認識への障害

心理学は霊を忘れているし、本質を外れた「エネルギー不変」という考えは真の認識を妨げる。

■自然との二面的かかわり



人間は、自然とまず認識的にかかわるが、これは死に向かう方向である。 また、自然を感受知覚するが、これは知られてはいないが意志的であり、生の方向に向かう。

■認識的・意志的の両側面を持つ純粋思考


感覚的対象とかかわらない《純粋思考》によって、人間は「自由」でありうる。《純粋思考》では、認識的側面と、法則に則りつつ内容を自ら創り出すという意味で意志的側面を持つ。つまり、死に向かう側と生に向かう側の両面を持つ。

■人間を介して霊界の生の力が自然界に伝わる

本来、《生の力》の起源は霊界である。その力は人間が受け止め、自然界に送っている。
また、人間は余分な動物的なものを排除すること進化してきた。たとえば、過剰な代謝能力をウシに預けることで、明晰な意識を獲得する基盤をつくったと言える。あるいは、進化途上で最も最近排除したのは、類人猿であろう。種々の類人猿の行動を見ると、Sexに関係するものが重要な意味を持っていることがわかる。たとえば、マウンティングによって個体同士の上下関係を明確にする種がいる。あるいは、ボノボでは雌が陰唇部を触れ合わせることが挨拶になっている。また、相手を威嚇する際に、勃起したペニスを誇示する猿もいる。このような観察から、「類人猿は人類から過剰な性的要素を持って行ってくれた」と考えることができる。 ただ、十分に引き取ってくれたかは検証の余地があるだろう。性犯罪で逮捕される者は、巡査から裁判官まであらゆる職種におよぶ。
人間の一生で肉体は霊界からの作用を受け、作用を受けた死体が自然界を活性化している
これは高次の認識であり、検証は難しい。

■自然界から人間に入り込む死の力

生の力が霊界からだとすれば、死の力は外の自然界に由来する。人間はその力を借りて骨格系をつくる。さらには、その死の力を、筋肉血液系の生の力で弱めて神経系をつくる。 また、骨格系には意識されない叡智が宿っていて、幾何学はそれが意識化された一部である。

■人間の魂は宇宙的出来事の舞台

人間は宇宙の観察者である、というのが現代科学の認識であるが、実は単なる傍観者ではなく、人間の魂は宇宙的出来事の舞台であり、人間はその出来事に深く参与している。言い換えると、宇宙の今後の進化は人間しだいなのである。

■方法論的コメント:概念を普遍化するのは誤り

概念によって個別の事柄を述べるに留め、それを普遍化、一般化するのは誤りである。概念とは事柄を分離するために用いる。

■その他

  • 左右の視線を交差できることで、自我認識の可能性が生まれる(馬はそれができない)
  • ロッツェは知覚が意志的であることを予感した
  • ハルトマンはペシミストで人類総自殺を考えたが、人間と地球の関係を洞察していなかったので、「地球の爆破」という余分なことまで入れてしまった。

第04講要約(一般人間学)

■序のコメント

▲注意事項:

シュタイナー教育において《意志》と言う場合、これは単に「やりたい」という思いだけではなく、行った《行為》をも含めている。その点で、日常会話での「意志」とは意味が異なる点に注意いただきたい。

一般にも意志の教育が重要と言われているが、意志の本性がわかっていないので、実現できていない。
意志は地上生で完全には実現され得ない、というのは意志の重要な側面である。

■人間の霊、魂、体

▲注意事項:

シュタイナーは、マナスという語が死後はマーネンという複数形で表現されることを紹介している。そして、この事実が霊我の存在と関連する、と説明している。シュタイナーや参加者にとっては、「未知のことを既知のことと結びつける」ことになっているのかもしれない。しかし、現代日本では、マーネンといった表現を知っている人の方が希だろう。つまり、結果として未知なものを未知なものに結びつけることになってしまっている。しかし、マナスやマーネンといった事柄は例として取り上げられていて『一般人間学』の内容を理解する上では枝葉末節なので、知らなかったり、理解できなかったりしても差し支えない。

人間の霊、魂、体の構成要素は以下のようになる。
霊:霊我、生命霊、霊人であり、地上生ではその極一部だけしかない。
さらに意識魂、悟性魂、感受魂、アストラル体、エーテル体、肉体がある。

■体部分と意志のかかわり


  • 《本能》は肉体
  • 《衝動》はエーテル体
  • 《欲望》は感受体(アストラル体) これについては、本能・衝動・欲望を参照のこと。

上記の参考資料から、「ビーバーの身体にはビーバーの本能が現れている」という意味が理解できるはずである。

■意志の人間的な部分


意志において、自我は《動機》として現れる。《人間的》な行為が人間的であるのは、その背後に動機があるからであるし、このことは日常的でもしばしば経験するだろう。 特に、偉人と呼ばれる人々の伝記を読むと、この《動機》がどのようにして具体的な行為にまで落とし込まれるかがわかるだろう。

■霊我、生命霊、霊人と意志の関係

行為を振り返ると、人は必ず「次はよりよく」という思いを抱く。それは《願望》であって、霊我に由来している。より成長した人間ほど、「よりよく」の意識を強く持つし、未熟な人間ほど自分の現状に満足する。 【参考】「すべての芸術は未完成である」ミケランジェロ。
自分の中の「もう一人の自分」はより賢いのである。このことを、シュタイナーはフロイト系の分析心理学の例から示している。(例自体には大きな意味はないと思われる)。
「次こそは」という《先へ向けての意図》は生命霊と関連する。これは死後の営みで展開される部分であろうが、地上生でもその片鱗が「次こそは」という思いとして現れる。
さらに死後、次の受肉に向けての《決意》が霊人との関連で生じる。一つの地上生を総括し、その成果と発展可能性を含め《決意》というかたちになるのだろう。 したがって、この部分の文面だけでは、現地上生での意志との関連はわからない。
教育ではこの死後に残るものも視野に入れる必要がある。

■意志教育の実践

意志教育の観点からもシュタイナーはマルクス主義教育を批判するが、この部分は「マルクス主義」を「現代的」に読み替えても意味を持つ。
しかし、意志の力を育てるのは単純に《繰り返し》なのである。 生徒の側から作り出される教師の権威の元で、繰り返しが行われるなら、それが意志を育てる。 繰り返しには、無意識的な繰り返しと意識的な繰り返しがあるが、それぞれ人間の別な側面を育てる。

  • 無意識な繰り返し⇒感情を育成
  • 意識的な繰り返し⇒意志を育成

【参考)
無意識な繰り返しが感情を育てる:ドラマや映画の音楽では、しばしば次のような手法が使われる。作品の序盤からあるテーマが、ちょっとしたシーンの中で軽い扱いで繰り返される。それが作品のクライマックスで、入念なアレンジで再度登場するのである。それによって、聴き手の心が大きく揺さぶられるし、前に繰り返し聴いていたことを意識しない場合に、それが顕著である。たとえば、オペラの前奏曲のテーマが最も感動的なシーンのアリアに現れる、といった手法である。古い話ですが『北の国から』では、フォーレの『夢の後に』が、時にさらっと、時に濃厚に効果的に使われていたように思います。(全編を観たことがなく、数回の断片を観ただけなので確証はありませんが。)

■芸術の練習は意志教育に有効

芸術の練習では、必然的に繰り返しが必要で、それが子どもの意志を育てるのに有効である。

第05講要約(一般人間学)

■表象と意志の対極について

思考(表象)と意志は対極ではあるが、両者は互いに混ざり合っていて、機械的に《対極》と割り振ることはできない。

■感覚には意志と認識の両方がある

たとえば視覚では、共感・反感、つまり神経的なものと血液的なものの両者があり、バランスが取れている。神経系=網膜、血液系=脈絡膜

人間の眼と動物の眼 動物の眼はずっと共感的で、剣状突起などの血液的器官が発達している。逆に、人間の眼は反感的であるがゆえに、認識が可能なのである。

■意志は主に共感的

意志は基本的に共感的であるが、成長と共にそこに反感的な要素を加え入れ、つまり意志に認識を加え「人間的行動」へと導く。

■感情は思考と意志の中間に位置する。


まず、感情では思考と意志がしっかり結びついている。「激情による行為」では、感情が意志に流れ込んでいる。
また、感覚知覚も感情とかかわりあっている。知覚によって感情が動くのは周知だろう。

さらには、思考的要素である判断にも感情が流れ込んでいる。判断については、ジークヴァルトとブレンターノの論争がある。 ジークヴァルトは「判断には感情が重要」とし、ブレンターノは「判断には思考が重要」と考えた。しかし、私たちの判断の現実を見ると、判断内容には思考が重要であるが、正しいという確信は感情に表れる、という折衷案が妥当である。
身体的には、感情は血液と神経の出会うところで生じる。

■音楽においても思考的要素重視派と感情的要素重視派の対立があった。

思考的要素を重視:ハンスリック
感情的要素を重視:ワーグナー
ワーグナーは自作の『マイスター・ジンガー』でハンスリックをパロディ化したベックメッサーを登場させ、「形式ばかりに捕らわれた音楽」を歌わせている(YouTubeのベックメッサー)。また、持論は主人公のヴァルターのアリア『朝のように輝き』に託している(YouTubeのヴァルター)。

■個々の感覚はそれぞれに異質

聴覚には聴覚の質があり、視覚には視覚の質がある。したがって、「感覚一般」という言い方はできない。十二感覚論は第8講でやや詳述している。

■人間は成長に伴って現実を獲得していく

人間は成長に伴って、認識や意志によって現実を自分のものにしていく。シュタイナーがしばしば述べている例、つまり同じ光景を見ても教養ある人とそうでない人では見ているものが異なる、ということにもつながる。
人間と現実との関係について、カントは「人間には現実の像しか得られず、現実は認識不可能である」としてしまった。これを出発点にしては、人間的な生き方はできないだろう。

第06講要約&一部解説(一般人間学)

■ 思考・感情・意志を霊的に見ると

この第6講を語るにあたり、シュタイナーの意識の背景には、7つの意識段階(後述)がある。 その中で、まず思考、感情、意志の位置づけが述べられる。 第01~19段落の内容をまとめると次のようになる。
思考 : 目覚めた意識 感情 : 夢的意識 意志 : 熟睡的意識 しかし、意識段階にはもう一つ別な側面が加わる。 それは《物質的》なリアリティである。 つまり、 ・物質的にはかかわらない ・物質的にやや関与する ・物質と格闘する という三段階である。 標語を付け加えてまとめると以下のようになる。

  • 思考 : 目覚め : リアルな影響なし    : 絵に描いた餅 
  • 感情 : 夢   : リアルな影響が像になる : 胃が重いと夢も重い 
  • 意志 : 熟睡  : 非常にリアルな影響   : 消化吸収過程は意識不可

■ 思考

思考では、意識は完全に目覚めている。こうした意識状態を『神秘学概論』では《対象物意識》と呼んでいる。 思考内容は物質界の像であり、それを考えても何の影響を受けないし、逆に思考内容は物質界には影響を及ぼさない。

■ 感情

感情の意識は夢的であり、こうした意識状態を『神秘学概論』では《形象意識》と呼んでいる。
夢では、リアルな現象と像とがある種の対応を示している。これについては以下を参照してください。
http://goethenian.blogspot.jp/2014/06/blog-post_14.html

 さて、感情を考えてみると、喜びとか悲しみが意識される。 しかし、その感情の原因を探ってみると、必ずしも明確ではない。 自分の好きなものについて自省してみれば、それはすぐにわかる。自分がそれが好きである理由は10も20も並べ立てられるだろう。 しかし、本当の理由は自分でも把握できていない。つまり、無意識の中から湧き上がるように現れてくる。

教育に関連した例を挙げよう。 幼稚園児から小学校低学年の子どもは、一般的にお絵かきが好きだ。ところが、3年生くらいになると、そこから離れていく。 その原因をアントロポゾフィー的に探っていくと、《形成力》が鍵を握っていることがわかる。 つまり、幼児ではこの《形成力》がリアルに身体に働きかけ、身体を作り上げる。ところが、身体が完成に近づくと、この形成力が「絵を描きたい」という感情となって現れるのである。 しかし、この形成力はさらに記憶力などに変容していく。そうすると「絵を描きたい」という衝動は少なくなってくる。

■ 意志

シュタイナー教育で言う《意志》とは(物質的に)リアルな行為であり、リアルな代謝活動である。幼児の身体が実際に成長したり、食べた米が実際に消化され、手足を動かして地面に穴を掘ることである。 そのリアルな物質的プロセスに《自我》つまり意識は入りこむことができない。というよりは、入りこんでしまったら、それに耐えられない。それゆえ、そこでは眠っているのである。
代謝活動と意識は両立しないし、それは一般的法則と言えるくらいである。 代謝活動が活発であるとき、たとえば食後、病気感染時、骨折修復時、肉体運動後などは、目覚めた意識を保つのが難しい。

■ より高次の意識段階

ここまで、目覚めた意識、夢的意識、熟睡的意識について語り、シュタイナーは第20段落以降、さらにより高次の意識について語っている。
シュタイナーが言う意識状態は次の七段階である。

  • イントゥイチオーン意識 : 人格霊 
  • インスピラチオーン意識 : 大天使 
  • イマギナチオーン意識  : 天使 
  • (目覚めた)対象物意識 : 思考、人間界 
  • 夢的意識          : 感情、動物界 
  • 熟睡的意識         : 意志、植物界 
  • 熟睡より深い眠りの意識 : 鉱物界

 つまり、対象物意識を中心に、上下に3つずつの段階がある。
思考とイマギナチオーンの関係は、この第6講ではあまり詳しくは触れていないので、その部分を補うとしたら、次のようになるだろう。
《対象物意識》の思考では、思考の対象は物質的外界に向かっている。ところが、思考を物質から解放し、概念的、理念的内容を思考すると、思考は純粋思考にシフトしていき、それがイマギナチオーンに対応する領域になる。

■ インスピラチオーン

インスピラチオーンでは、たとえば人間のオーラを見ることがそれに当たる。 この場合に何が起きているかを見れば、それが高次な夢的意識であることは明らかだろう。 オーラでは、たとえば相手の感情の様子を色彩の動きとして感じ取る。 つまり、現実に生じているのは相手の人間内での感情の営みであり、それを色彩という《像》で意識する。この構造は、夢状態と同じである。しかし、現象と像との関係はより精密である。

■ イントゥイチオーン(対象との一体化)

イントゥイチオーンは意志領域と関係する、とシュタイナーは述べている。私にとっての「意志を働かせる人間」は、砂場で遊ぶ幼児である。対象(砂)と一体になってそこに働きかけている。 《イントゥイチオーン》を高橋巖さんは《霊的合一》と訳しておられるが、非常に的確だと思う。
『神智学』の中でシュタイナーは「非常に単純な思考の中にもイントゥイチオーンがある」と述べているので、まずこの意味から考えてみよう。

私たちが「何かを理解する」というのはどのような体験だろうか? たとえば、ピタゴラスの定理が書かれた本を読む。しかし、読んだだけでは何も理解していない。すべての言葉を言葉として理解していていも、内容は理解できない。 ところが、そこに記述されている思考の流れを自ら体験しながら読むなら、そのときにはじめて理解できる。言い換えるなら、自分を無にし、思考の流れと自らを一体にしたときにはじめて理解できると言えるだろう。

第2講では、「表象とは、誕生前の体験が反感によって弱められたものである」と述べられている。このときの《誕生前の営み》とは、肉体を持たない自我が、諸概念、諸理念と一体になること、と考えられる。反感とは何かを引きはなす力であるから、それが働くためにはまず一体になっていなくてはならないからである。

このように意志領域では、対象と一体になることが鍵になる。その意味でイントゥイチオーンでは、霊的な意味で対象と一体化するのである。

ところが、この一体化ができるためには条件がある。
まず物質レベルでの一体化を考えてみよう。 自分の動きと、体操の内村航平さんの動きを完全に一体化されられれば、オリンピックの金メダルも夢ではないだろう。しかし、そのためにはパワー、スピード、柔軟性が不足しているのは明らかである。 霊的現実と一体化するためにも、同様なことが生じる。私たちの魂的能力でパワーや柔軟性が不足していると、それと一体化することはできない。 霊的現実との一体化では、さらに問題がある。一体化することで、私たち自身が霊界に対して影響を及ぼすのである。したがって、一体化が可能になった時点で、人が自らの思考を適切に制御できないと、それは「手当たり次第に撃ち放された弾丸」『神智学』のように、あちこちに害を及ぼす。

■ ゲーテのファウスト第2部

シュタイナーはゲーテの四肢の活動がファウストのイントゥイチオーンに結びついた、と述べている。 この講で明言はしていないが、「イントゥイチオーンをもたらしうる四肢活動」に関連する事柄を後の講で述べている。言わば四肢が賢くなければ、イントゥイチオーンは湧き上がってこない。

第07講要約&一部解説(一般人間学)

重要な視点と方法論的コメント

■魂的視点、霊的視点

魂界にかかわる事柄については、共感・反感の視点がもっとも本質的である。 また、霊的視点で観る場合には、覚醒・夢想・熟睡といった覚醒状態が本質的である。 しかし、単に意識状態だけを問題にするのではなく、熟睡状態では物質的には強い作用を受け、目覚めた状態ではその作用は少ない、という相関関係にも注意する必要がある。

■事実と事実を関係づける

アントロポゾフィーの方法論は、「事実と事実を結びつける」ことに尽きると言っても過言ではない。理論を構築するのではなく、あくまでも事実を結びつける。ただし、事実にもさまざまな層があり、物質的事実もあれば、魂的事実、霊的事実も存在する。したがって、事実を結びつけるときには、こうした領域も視野に入れなくてはいけない。

■子ども=体的、中年=魂的、老年=霊的

子どもでは感情が意志につながり、老年では感情が思考につながっている点を取り上げている。これは、日常的にも体験できるので、納得しやすいだろう。子どもは喜ぶと跳ね回るが、老人はそうではない。

■感受は意志的(認識的ではない)

日本語ではなじみのない表現ですが、知覚にかかわることをより精密に描写するために、訳語として導入している。
シュタイナーが「感覚知覚」について述べるときには、
  • Empfindung(エンプフィンドゥング)と
  • Wahrnehmen(ヴァール・ネーメン)の
二つを使う。

Empfindungは感受
Wahrnehmenは知覚、つまり、Wahr=真実、nehmen=取る、「真実として取る」という意味である。

ドイツでの《感受》の典型的な用例としては、春先にくしゃみが止まらなくなった人が、「私は花粉に感受的になっている」といったものがある。この場合、身体は花粉に反応しいているが、花粉の存在を意識的に知覚してはいない。

したがって、
  • 《感受》=無意識な体的プロセス
  • 《知覚》=感受されたものが意識化されるプロセス
というニュアンスで捉えることができます。
ただし、シュタイナーも常に厳密に区別して使っているわけではありませんので、状況によって文脈から理解する必要がある。



■「感受が意志的」という視点は何に重要か?


ここであらすじとは少し離れるが、「感受が意志的」であると考えることで、どのようなことが実際に分かってくるかを考えてみよう。 生徒、特に低学年の生徒が先生の話を聴いている状況を考えよう。 生徒は、たとえば「お姫様が森の中に入っていきました」という内容を意識的に捉えている。 しかし、《感受》という側面で考えれば、そこには同時に、子ども自身には意識されず、しかし身体的・魂的には深い影響を与える部分がある。 その意識されない部分の一つが「教師の声の質」であることは間違いがない。響きが豊かで包み込むような声であれば、教師としては理想的である。逆に、ビリつくような声、鼻づまりの声、響きがなく弱い声が望ましくないのは明らかだろう。実際、もちろんすべてのケースに当てはまるわけではないが、学級崩壊を起こしたクラス担任の声が何らかの意味で弱い場合はしばしば観察される。 そう考えると、1919年にこの『一般人間学』と並行して行われたゼミナールで、シュタイナーが言語造形の練習を不可欠なものとして取り入れていることは興味深い。教師の話す内容だけでなく、そこでの言葉や声までもを重視していたと思われるからである。 ところで、私が知る日本でのシュタイナー系言語造形練習のわずかな例は、シュタイナーがこのゼミナールで取り上げた練習の伝統とはかけ離れていた。したがって、日本語での《言語造形》を体験するだけでは、シュタイナー学校教師にとって重要な部分が伝わらない可能性があることは指摘しておく。 これを避ける非常に簡単な方法がある。 身近な言語造形の先生に《ドイツ語の言語造形練習》をリクエストし、各自がそれを練習してみれば、誰でもその違いを体験できる。 《感受》を重視するなら、学校や幼稚園の空間の快適さも重要な要素になるはずである。 もちろん、予算を無視して理想空間を作ることはできないが、空間が及ぼす影響が人間の深部にまで渡ることを知っていたら、空間の快適さを無視して効率だけで教室を建築することはないだろう。

■覚醒、睡眠の身体地図

人間の各部でも、意志領域は当然眠っているので、代謝、四肢、感受領域に当たる部分、つまり体表面や体深部は眠っている。 それに対し、神経領域、つまり身体中層部は目覚めている。これはシュタイナーのここまでの論理をたどれば、当然の帰結である。そして、「神経では霊的に無であるので、霊を把握しうる」という次の説明につながっていく。

■「神経では霊的に無であるので、霊を把握しうる」

この言葉を段階的に理解してみよう。 まず、「眼は透明であるので、外界を見ることができる」というのは納得しやすい事実だろう。 次に、「私たちは三角形を霊的に把握することができる」。(この点については霊界?の項を参照していただきたい。) そして、これを認識できるためには、私たち自身が「霊的に透明」である必要がある点も納得いただけるだろう。 日常的にも、自分が透明ではなく、何かに囚われているために相手の話が理解できない、ということはしばしばある。 ここまでわかれば、神経が霊的に無でなければ、霊的な事柄、たとえば三角形を捉えることができないはずだ、というところまで理解が深まったことになる。

■「神経が霊的に無である」とはどういうことか。

まず、私たちが《秩序》や《法則》と呼んでいるものはすべて霊的なものである。なぜなら、私たちはそれを知覚するが、外的感覚器官で捉えているのではないからである。たとえば、幾何学で言う大きさのない《点》を見ることは不可能である。《点》という霊的な法則性を思考によって捉えている。 さて、私たちの身体ではタンパク質や糖類がさまざまに結合し、考えられないくらいに高度に複雑にからみあい、調和を保っている。小腸で吸収されたアミノ酸が肝臓で低分子量のアルブミンに合成され、それがさらに各臓器で必要なタンパク質として合成されていく。これらの過程を現代の分子生物学は克明に解明していく。 これらの事実を知れば知るほど、生体の諸過程が厳密に法則性に則って進行していることがリアルに想像できるようになるだろう。 その法則性がDNAである、と考えてしまったら間違いである。確かにDNAはそうした法則性の物質的な条件ではある。しかし、法則性そのものではない。神経細胞も肝臓細胞も同じDNAを持っているが、そこで作られるタンパク質は同じではない。 このように、生体が成り立っていくためには、厳密な物質過程が必要で、その物質過程一つ一つに法則、つまり霊的なものが浸透しているのは否定できない事実である。したがって、人体が成り立つためには、とてつもない霊性が物質にかかわっているし、その物質にかかわる霊性をここでは仮に《タイプ1の霊性》と呼ぼう。シュタイナーは、このタイプ1の霊性を人間は意識することはないし、意識できないように守られている、とも言っている。 さて、霊性にはもう一つのタイプがある。それは先ほど三角形で挙げたタイプの霊で、これを人間は像として意識的に捉えることができる。これを《タイプ2の霊性》としよう。 すると、「神経では霊的に無であるので、霊を把握しうる」という言葉は、より厳密に「神経では《タイプ1の霊性》が無であるので、《タイプ2の霊性》を把握しうる」と言い換えることができる。 ここで神経の生理学的側面を見てみよう。 神経も生体の一部であるから、法則性を持った何らかの生理作用がなくては生存できない。その意味では、《タイプ1の霊性》が完全に無であるわけではない。 それでは、さまざまな刺激は神経をどのように伝わるのだろうか?

  1. 神経の細胞膜では、カリウム(K)をエネルギーを消費しつつ積極的に取り入れ、ナトリウム(Na)を積極的に排出している。これはナトリウム・ポンプと呼ばれる。
  2. 細胞外はNaが多く、内はKが多いので、電気的には外が+、内が-になっている。(分極)
  3. 刺激がやってきて、神経が興奮状態になるとKとNaの内外濃度が瞬間的に逆転する。(脱分極)。これにはエネルギーは不要で、立てたドミノが倒れるような現象である。(神経がドミノだとすれば、倒れたドミノはすぐさまエネルギーを使って立てられることになる)。
  4. 神経の興奮を物質的に見るとこのような現象であり、現在の研究レベルでは「三角形についての思考」であろうと、「リンゴを美味しそうと思う」のも、同じ脱分極反応でしかなく、《タイプ1の霊性》という立場からは、同じものでしかない。肝臓はブドウ糖にもアミノ酸にも働きかけるが、そこではそれぞれ別な《タイプ1の霊性》がかかわるのであるから、生体の化学工場と言われる肝臓には無数の《タイプ1の霊性》が存在するのとは対照的である。

以上が神経における《タイプ1の霊性》の様子である。 つまり、わずかな生理作用、言い換えるとわずかな《タイプ1の霊性》を基盤に、《タイプ2の霊性》が豊かに活動している、と言えるだろう。

■現象の対応

第9講の内容を予告するかたちで、記憶・忘却がそれぞれ覚醒・睡眠に対比できることに触れている。
『神秘学概論』ではこれらを四つの構成体との関係で述べている。 死、睡眠、忘却と自我、アストラル体、エーテル体、肉体の関係をまとめると次のようになる。

死      睡眠     忘却
 自我     自我     自我
 アストラル体 アストラル体 -分離-
 エーテル体  -分離-   アストラル体
 -分離-   エーテル体  エーテル体
 肉体     肉体     肉体

■方法論的コメント

最後に方法論について、繰り返している。 つまり、「リアルなものとリアルなものを関係づける」のである。



第08講要約&一部解説(一般人間学)

■意識的な想起を育成

眠りが不十分だと、自我が過敏になる。 意識に浮かび上がってくるものを統御できず、受け身的に思い出しているだけでは、ぼんやりとした一生を過ごすことになる。 自分の意図で《想起》ができるように教育する必要がある。 この《想起》は眠れる意志の力によって可能になるので、子どものそこに働きかける必要がある。 そのためには、学ぶ対象への興味を育てるてから、そのエポックに入る。

■方法論的コメント:分析と総合

事柄の細部まで分析的に正確に見る必要がある。 次に、そうした断片を統合していく。 この働きは『ゲーテ的世界観の認識論要綱』では、悟性と理性と呼ばれている。
『分析的悟性と綜合的理性』参照

■十二感覚

人間には十二感覚がある。

■認識的な感覚

  • 自我感覚:認識的な感覚であり、これで他者の自我を知覚する。 他者と向かい合い、まず他者が自分に入りこみ、次に自分がそれを押し返し、という繊細な共感反感のせめぎ合いの中で、他者の自我を知覚する。 
  • 思考感覚:他者の思考の様子を知覚する感覚である。難しい本などでは、字は読めても思考の流れが掴めないことがある。このときは、思考感覚が十分に働いていない。 
  • 言語感覚:これで相手の表現のニュアンスを知覚する。言葉に限らず、しぐさなどの表情を読み取るのも言語感覚である。 
  • 聴覚:外界の音を聞きとるのは、この感覚である。

■感情的な感覚

  • 熱感覚:厳密に観ていくと、温度を知覚するのではなく、自他間の温度の流れを知覚する。つまり、右手を氷水、左手をぬるま湯に浸し、30秒後に両手を水道水に浸すと、一方は冷たく、もう一方は温かく感じる。つまり、熱が逃げていく方を冷たく、熱が入ってくる方を温かく感じる。 また、体温よりわずかに高いか低いかの水を用意し、そこに指の先だけを入れる。すると、それが温かいか冷たいか判定できない。ところがそこに手首から先全体を浸すと判定できるようになる。 この現象も、熱感覚では熱の出入りを知覚していることを示している。しかし、それだけではなく、触覚との差も明確になる。つまり、触覚では指先などの局部が鋭敏なのである。それに対し、温度感覚では、服を脱いで全身で熱の授受を行うと、感覚が最も敏感になる。 
  • 視覚:一般に知られた視覚である。ゲーテは「眼は形を見ない」と鋭く観察している。眼は明暗や色彩は観るが、形は観ない。形を知覚するのは運動感覚である。 
  • 味覚:甘み、酸味、塩味、苦みの四つを舌で感じ取る。 
  • 嗅覚:匂いは過去の体験と比較はできるが、概念化できない。色や味を現わす単語はあっても、匂いを示す単語はほとんど(あるいはまったく)ない。

■意志的感覚

  • 平衡感覚:身体のバランスを感じ取る感覚である。視覚に依存するバランス感覚と、視覚なしで感じ取るバランス感覚がある。10歳以下の子どもでは後者がまだ十分に発達していない。 
  • 運動感覚:これによって自分自身の動きを感じ取る。眼で形を追うと眼球が動き、その動きを自覚することができる。これによって視覚を介してフォルムを知覚することができる。 
  • 生命感覚:身体の活動状態を感じ取る。自分が元気であるのか、あるいは、どこかに不都合があるのかを感じる。 
  • 触覚:よく知られた感覚である。これによって人間は自らの境界、そして自らの存在を感じ取ることができる。つまり《自己存在》と密接に関連した感覚であり、最も根源的な感覚である。
■人間が十二感覚を持つ意味
人間は十二感覚を持ち、それによって一体である世界を十二通りに体験する。そして、その個別な体験を成長と共に統合していく。 たとえば、赤ん坊は月を取ろうと手を出すことがあるが、これは視覚と触覚が統合されていない証拠である。 別々な門を通って人間に入ってきたものを統合できるのは、その元となるものがそもそも一体なるものであったからである。 つまり、自然が提供する知覚像は、視覚、聴覚、嗅覚、触覚等々に対し、完全であり、きちんと統合しうるものである。 そして、シュタイナーは人間が十二感覚を持つ意味として、諸感覚の統合体験が《判断の基礎》になる点だけを挙げている。

■人間を観る視点

まとめと先への展望も含め次のようにまとめている。
  1. 霊的視点:覚醒、夢想、熟睡の覚醒状態が鍵になる。 
  2. 魂的視点:共感・反感が魂界の基本的な力である。 
  3. 体的視点:頭部、胴部、四肢のフォルムを観なくてはいけない。

第09講解説(一般人間学)

■序:簡単なまとめ

真の智から教育的本能を育てる必要がある。
▲重要な視点

  • 魂は共感・反感 
  • 霊界は睡眠、夢、覚醒 
  • 体はフォルム。 

▲年齢段階での特徴

  • 0~7歳:模倣 
  • 7~14歳:権威 
  • 14歳~:自分の判断

■論理の三段階

論理の三段階は《結論》(結び付けること)、《判断》、《概念》からなる。

■《結論》(結び付けること)

これは自分と対象が結びつくこと、そこに意識を向けることであり、ここでは人間は目覚めている。 また、授業ではこの部分を活き活きと保つ必要がある。

■《判断》

自分が見たものを、自分の過去の体験や知識と結びつけることを指す。 この部分では人間は完全には目覚めておらず、夢想的状態である。 夢の像は意識されるが、それが生み出された背景は意識できない。それと同様に、判断そのものは当然意識化 されるが、その判断に至った背景には意識が及ばない。 たとえば、茶碗に盛られたご飯に箸が突き立てられて目の前に出されたら、多くの日本人は「これはあり得ない」と憤慨するだろう。 「これはあり得ない」という根拠は、これが死者にご飯を捧げるときの作法であることはすぐにわかるが、頭では分かっても感情的にそれが許せないこともあるだろう。 このように、判断の根拠を掘り下げていくと、それがかなり深いものであることが分かるはずである。

■《概念》

概念形成は眠りの領域、身体の奥深くで行われる、とシュタイナーは述べている。それゆえ、人がどのような概念を培ってきたかがその人間の外見に現れる。工場労働者や社交界の婦人たちが基本的に同じ人相なのは、時代病でもある、と指摘している。それぞれ別であるはずの個が個として成長していないからである。

■生きた概念

《概念》は人間のあり方に深く働きかけるので、教育の中でもその扱いは重要である。 子どもには、生きた人間の中で共に成長しうる《生きた概念》を教えなくてはいけないし、《生きた概念》は大人にとっても重要である。

■変化しない概念

ただし、変化しない概念も少しは必要で、それは子どもの魂に骨格を与える。変化しない概念としては、文法や九九を挙げることができる。

■《生きた概念》は定義付けではなく、特徴付けによって。

定義付け
 ライオンは哺乳綱、食肉目、ネコ科ヒョウ属に分類される食肉類である。 一頭の雄と複数の雌、ならびにその子どもが集団となって、プライドを形成する。 狩りは通常、雌が集団で行い、獲物はインパラ、ヌー、などである。 
特徴付け(自然科学論でゲーテが展開している論法はすべて特徴付けである。)
トラやヒョウの身体には独特の模様があるが、ライオンは無地だ。けれども、雄には特徴的なたてがみがある。 近所で見かける猫でもそうだけれど、トラやヒョウは子連れの時以外は一人暮らしで、狩りも一頭でする。けれども、ライオンの雌は集団で狩りをするし、集団で連携することもできる。 
余談…30年以上前ですが、『一般人間学』の勉強会で、チューターが「生きた概念が大切なんです」と強調していたのを思い出します。しかし、そのチューターも、生きた概念がどのようなものかまったく説明できず、単に言葉だけが舞っていました。

■すべては《人間》という概念に合流する

すべての概念は、《人間》という概念に合流していくし、その意図を背景に持って、教える必要がある。それは、第03講でも述べられたように、人間が地球進化、さらには宇宙進化の中心にあるからである。 もちろん、《命》という観点からすれば、仏教が教えるようにすべての命が平等である。 しかし、だからといって人間が地球上に存在する意味が他の動植物と同じであるとは言えない。 人間が宇宙進化の中心であるという事実によって、「人間こそ上位」という自惚れを持つなら間違いである。むしろ「人間にしかなし得ないことがある」という強い責任感が湧いてくるはずである。 教育の中で最も分かりやすい例は、4年生の動物学エポックだろう。 そこでは、動物のあり方を人間との関連で理解していく。

■《生きたもの》=《法則的変容(メタモルフォーゼ)》

一例:幼児期の畏敬の念は、晩年になっての他者を祝福する能力へと変容する。

■成長段階

第一・七年期: 世界はモラル的: 過去に生きる
第二・七年期: 世界は美しい: 現在に生きる
第三・七年期: 世界は真実: 未来に生きる

第10講解説(一般人間学)

■身体を球の変形として見る

球を基本形態として考えると、人間の身体は次のように捉えることができる。

  • 頭部:完全な球 
  • 胸部:一部が可視な球(三日月) 
  • 四肢:差し込まれた半径

頭部については、納得しやすいだろう。頭部を描く際には、球+下顎骨が基本になる。 「胸部が三日月」というのも、「まあ、何だか変だけれど」ということで納得できるかもしれない。 ところが、これは感情や夢のあり方と非常に密接な関係がある。 最終的な喜びや悲しみは感情として意識化されるし、夢も像となった部分は意識化される可能性がある。しかし、その背景にある非常に大きな部分に対しては無自覚で意識化できない。それはちょうど三日月のように、本当は大きい(かつ丸い)のだけれども、見える部分は非常に小さい、ということと対応する。
 「四肢が外から差し込まれた」などというのは、荒唐無稽のように思われるかもしれない。しかし、事実がそれを語っている。

 このような証拠もある。

■頭部には、胸も四肢もある
頭部の四肢に当たるのは、頭部における運動器官である顎である。 また、口腔は消化器官の始まりであるので、代謝系に関係している。 人間の胸部には呼吸器系がある。それに対応して、鼻が口の上にある。鼻の両側や眉間のあたりには、副鼻腔の空洞があり、空気とかかわる呼吸器官系の部分は、鼻だけに限らない。

■三者の関係

頭部、胸部、四肢の骨はそれぞれどのような関係になっているだろうか?

■頭蓋骨は椎骨の変形


まず、頭蓋骨と椎骨(背骨のパーツ)の関係から述べている。これはゲーテが発見した事実で、頭蓋骨のパーツは椎骨がメタモルフォーゼしたものである。これは、骨の形態をよく比較すれば納得がいくはずである。


■管状骨は頭蓋骨の裏返り
これを射影幾何学的に示すこともできるらしいが、私はそのオペレーションを理解していない。 しかし、霊的なものと物質的なものが対称関係にある点を考えれば、そのように考えることで、論理体系としての整合性は保たれる。 たとえば、第02章では、表象は像であり意志は萌芽であり、両者は対称関係にあることが述べられていました。 人間の魂の三層構造(思考、感情、意志)について、シュタイナーが初めてまとめた『魂の謎』の中でも、次のように言っています。
例えて言えば、表象の方は着色面を見ている時の感じで体験しています。それに対し、意志の方は着色面上の黒い面を見ている時の感じで体験しています。着色面上からは色彩印象が得られる訳ですが、黒の部分ではまさに色彩知覚が欠如しているがために対極として〈見える〉のです。 

と述べています。

■球の中心はどこにある?


  • 頭部:内部に中心 
  • 胸部:遠くに中心(三日月と同様、少なくとも見える部分にはない) 
  • 四肢:宇宙の周辺全体 

この四肢については、射影幾何学のある対応関係を学ぶと理解しやすくなる。まさに、内に中心を持つ円と対極の関係になる。
頭部は内に中心を持つので、本質的にそこに受肉している個人とつながり、その場に静止している。 宇宙の本質は運動にある。そして四肢は中心をその宇宙に持つ。したがって、四肢の本質はその運動を模すことにある。 一方に運動があり、もう一方に静止があるなら、その間で運動が静止していくプロセスが生じる。それが芸術の本質である。つまり、霊的な運動を模しつつ、それが静止したときに生じるのが芸術なのである。 エジプト、ギリシャ彫刻はこの認識で創られた。

■参考

アントロポゾフィーでは、常に「できあがった形に動きを見よう」とし、「できあがった物質にプロセスを見よう」とする。また、その力を育てないと、アントロポゾフィー的な認識はできない。

■「霊性の否定」からの帰結


  • 四肢が頭部の裏返し、が理解できず、この章を理解しにくい 
  • 物質主義の台頭

■真の人間認識から

ここで述べた真の人間認識を得れば、
  • 一人一人が宇宙の中心であることを認識し 
  • 人間に対する畏敬の念が生じてくる。

    第11講解説(一般人間学)

    ■頭部、胸部、四肢の覚醒・睡眠状態

    頭部や四肢の覚醒・睡眠状態は、およそ次のようにまとめられる。

          乳児   幼児      小学校低学年  中学校
    頭部    眠  完成だが眠      夢見      覚め
    胸部    眠    夢見        覚醒      覚醒
    四肢    眠    覚醒、未完    覚醒      覚醒
    作用法   ?    模倣、言語叡智 芸術    知的な作用



    ■働きかけは目覚めた部分にだけ

    子どもへの教育的働きかけは、目覚めた部分以外にはできない。眠った人への講義は無駄なのと同じである。 ただ、《目覚めた部分》に働きかけることで、眠った部分が目覚めていく。幼児では手足が目覚め、小学生では胸部(感情)が目覚める。したがって、小学生では四肢と胸に、芸術的に働きかける。 中学生になると頭部が目覚めるので、その目覚めた思考に働きかけることができる。

    ■幼児期は模倣を通して手足に働きかけ、さらに言語霊も作用する

    幼児の頭部でも少しは目覚めているが、そこへの過度な負担は幼児の本性にそぐわない。したがって、幼児では基本的に手足に働きかける。
    頭部の霊性は眠り、外に流れ出しているので、幼児は模倣をする。外界の事物と完全に一体になれる。 また、幼児期から言語霊が人間を育てる。 言語霊の例を挙げよう。子どもが「犬」という言葉を身につけると、そこにはすでに階層的秩序がある。「犬」を個別化し「マルチーズ」、さらに個別化した「ラッキー」、あるいは「犬」より一般的概念である「動物」など、そこには体系的つながりがある。

    ▲言語霊が人間を育ててくれる例。

    • 一年生は作文で「そして」という接続詞くらいしか使えない。後には「それゆえ」とか「しかし」を使うようになり、その学習過程で事柄のつながりをより的確に捉えられるようになる。
    • 言葉の音(おん)にも言語霊は現れる。幼児が唇を使う子音であるMやPをまず身につける。これは外界に対する共感を現わしているとみることもできる。逆に喉を使うGなどは、自分の内側により深く入り込む体験を促すことになる。

    ■小学生段階での働きかけ

    • 芸術を通した感情への働きかけ
      小学生では胸部も目覚め、事物と感情に結びつく力が強まる。それを踏まえてシュタイナーは、学ぶ際に芸術的なものを介するように助言している。

    ■思考が目覚めたら

    子どもはいつまでもメルヘンの世界にいるわけではないので、さまざまな形で、子どもの思考に働きかけ始める必要がある。また、シュタイナーが直接言っている訳ではないが、思考は多面的なので、現在の「自然科学的思考」を絶対視するのではなく、種々の科目で学ぶさまざまな思考法の一つと捉えるのが望ましい。

    ■乳児は手足すら目覚めていない

    新生児では手足すら目覚めていないので、それに働きかけて他を目覚めさせるということもできない。その乳児の手足を目覚めさせるのが母乳である。母乳は母親の四肢的要素から作られからである。四肢的要素から作られたものが四肢を目覚めさせるというつながりは、とても自然だろう。
    ここで目覚めさせるための手段を順に列挙すると 母乳、 模倣(四肢)、 四肢活動、 言語霊、 芸術的要素、 ということになる。

    ■子どもの成長と教育法

    • 記憶を促すと子どもは細長くなる。
    • ファンタジーを促すと伸長が止まる
    この両方ともが必要であるが、教師はその両者のさじ加減を調節できる必要がある。

    ■八年担任制

    教育は子どもの成長を知って初めて可能であるので、 成長をしっかり把握するには八年担任制が必要である、とシュタイナーは示している。

    第12講解説(一般人間学)

    ■肉体を動植鉱物界との関係で捉える

    人間を理解するには、動植鉱物界との関係の関連を考慮する必要があるが、単なる表面的な観察では本質は掴めない。

    ■脳は動物界を通り抜け、最も進化している

    事実として、人間の脳は動物界で最も進化している。

    ■頭部は動物的形姿を作りだそうとする

    これは2点に分けられる。

    1. 頭部が形態形成をリードしている
    2. その形態は動物形態であり、人間形姿ではない
    1.については、いくつかの事実を見れば、人間にはそうした傾向があることがわかるだろう。
    まず、成長過程で頭部は身体の他の部分に比べ、先に完成する。脳細胞数に関しては、7歳で成人の90%以上が形成されている。これで直ちに、脳が身体他部分の形成をリードしている、とは言えないが、リードしている可能性はある、くらいのことは言える。
    次に、一歩進んで、頭部のもつ形態形成的役割を理解するには、脳梗塞の後遺症を様子を観察すれよい。脳梗塞では、脳内出血による機能損傷で、胴部や四肢に対して適切な神経が遮断されている。その結果、たとえば半身不随といった症状が出る。たとえば、右手、右足が自由に動かせなくなる。その結果、手足が萎え、形が少しずつ変わっていく。あるいは、顔も一部の筋肉が不活発であるために、形が変わる。 つまり、身体の形態を100%頭部が決定しているのではないにしろ、形態には頭部が事実として関与している。

    2.については、通常の自然科学の立場から言えることはない。 しかし、シュタイナーが他の箇所で言っていることを加えるなら、次のように説明できる。
    現代の科学常識では、脳こそが人間の人間たる最も重要な器官である、となっているが、シュタイナーの観察では、脳神経系は《アストラル体》のための器官であり、血液こそが《意識的自我》の器官であるし、《無意識的自我》が最もしっかり根付いているのは骨格である。 したがって、「神経はアストラル・レベル」という認識に立てば、「脳が絶えず人間形姿を動物化しようとしている」というのは自然な論理と言えるだろう。人間が人間形姿を持つためには、他の人間的な力を必要とする。

    ■四肢、胸部がそれ(動物形態化)を抑える

    アストラル体の活動は、エーテル体を基盤にしつつ、本来、自我のコントロール下にある。 アストラル体とエーテル体の関係を見ると、アストラル体の活動は、エーテル体が作る生命的な力を壊すことで成り立っている。したがって、壊すことができないくらいに旺盛な生命力があるときには、アストラル体の活動は低下する。身近な例では、満腹だと眠くなり集中して考えられない、といった現象がある。 アストラル体は自我のコントロール、言わば上からのコントロールを受ける。人間は、空腹だからといってスーパーマーケットの棚からリンゴを取って食べたりはしない。演劇などでは、アストラル体を基盤とする自らの感情が完全に自我の支配下に置かれる。
    このように、アストラル体の活動は上からも、下からも制限される。上とは自我であり、これは四肢と関連しているし、下とはエーテル体でこれは胴部と関連している。このことを霊視的な像で語るなら、「皆さんの中から動物界が生涯生じ続けることがないよう、胴部や四肢が動物界を思念へと変容させているのです」となる。
    また、頭部での動物化が強すぎると、偏頭痛が生じると述べられているが、この関連はまだ説明できない。

    ■呼吸は植物界の裏返し

    植物は二酸化炭素を吸い込み、酸素を放出する。それに対し、呼吸では酸素を吸い込み二酸化炭素を放出する。この事実だけで、「植物界の裏返し」はある程度実感できる。
    他にも、ミトコンドリア(呼吸)と葉緑体(光合成)は共に細胞内の二重膜小器官で、同じ仲間に属するが、そこでの働きは正反対である。また、呼吸におけるクエン酸回路と光合成におけるカルヴィン回路は、共に複雑な円環状の反応系である。

    ■人間には植物体を生じさせる潜在力がある

    呼吸では二酸化炭素が排出されるが、人体内にある炭酸には、植物化の傾向があると言う。 これを理解するために、まず植物界での炭素の働きを観てみよう。 植物は、空気中の二酸化炭素を取り込み、それを炭水化物に同化し、さらにはセルロースとして植物形態の中心素材にする。植物形態と炭素の関係は、木炭を見れば了解できる。炭を見れば、元の木がなにであるかがわかるのだから、炭素こそがその植物の形態を作る上で最も重要なのは明らかだろう。
    しかし、動物や人間の身体を支えるのは炭素ではなく、カルシウムである。これは次のように考えることができる。 骨形成のプロセスを見ると、まずコラーゲンなどを主成分とする軟骨が形成され、そこにカルシウムが蓄積し、最終的には骨格になる。コラーゲンはタンパク質であるから、構造を維持する元素は植物と同様、炭素である。そこにカルシウムが加わり、現実には炭素はより流動的でさまざまに変化する役割を担うことになる。しかし、過剰な炭素は硬化への危険性をはらむので、呼吸によって排出するのである。
    そして、生体内の過度な植物性が病気の原因である。 シュタイナーは、過度な植物作用により、病原菌が繁殖しやすい場が生まれ、病気になる、と言っている。 これもバクテリア類の表面が細胞壁に覆われ、植物的であることをを考えれば、つながりを見つけられる。細胞壁と言っても、植物はセルロースやリグニンで、バクテリアのそれはそこまで高分子ではない多糖類が主体なので、若干の違いはあるにしろ、同系統の素材であることは間違いない。

    ■体内に植物が生じると病気になるが、これを頭部&四肢が抑えられてい

    る これは《植物的なもの》をアストラル体(頭部)や自我(四肢)がどのように抑えているかを考えれば良い。 アストラル体がエーテル体を《食い潰す》ことはすでに述べた。自我はアストラル体の上位にあり、アストラル体をコントロールする。そのルートで、エーテル体をコントロールしていると考えることができる。
    また、四肢を動かすことが直接的に生命力をコントロールしていることも容易に納得できるだろう。身体を動かしていると、しだいに力が《枯渇》し、それが睡眠(エーテル活動)によって回復ていくことは誰もが知っている。

    ■胴部での代謝は中間部のみからなる燃焼作用である

    次に消化を含む代謝活動が取り上げられる。代謝には発熱が伴い、そのエネルギー源は食物である。その意味では燃焼作用と同じものであるが、米が燃えて灰と熱になる 燃焼と比較するなら、その最初と最後の部分は、人間内では行われない。 米の籾殻は消化できないし、生米も消化しにくい。加熱してご飯として炊きかなければ、取り込むことができない。 また、燃焼作用の最後の部分にも関与できない。 ご飯を炊いても、ひどいお焦げは栄養にならない。また、シュタイナーが言うように「熟れすぎたり、腐った果実は身体が受け付けない」。

    ■魂=反植物+燃焼中間部

    魂的なものの基盤は、反植物と燃焼中間部であるという。
    反植物は、反エーテルであり、アストラル(魂的なものと密接に関連)も反エーテルであることで活動しているので、両者は密接に関連する。この反植物である器官が《肺》であることは明らかだろう。
    次に燃焼中間部を見てみよう。ここで重要なのは、外界からの素材が実際に身体に取り込まれる際の入り口となる器官と出口になる器官である。入り口に当たる器官は、《肝臓》である。小腸で吸収された糖、アミノ酸などは、そのまま体内をめぐるのではなく、一旦肝臓で調整される必要がある。
    また、体内の代謝産物が最終的に排泄されるのは、血液の濾過器官として知られる《腎臓》である。そして、反植物と燃焼中間部が出会う器官が《心臓》である。この第12講ではそこまで具体的に述べてはいないが、人間の魂を支える主な臓器は肺、肝臓、腎臓、心臓であり、心身症をアントロポゾフィー医療の立場から診るときには、重要な視点である。

    ■病気はこれらの関連から理解される

    人体の健康を考えるためには、これらの要素がどのように関連し、また変調をきたしているかを診る必要がある。病原体の特定が最も本質的なのではない。

    ■運動の原理は力学的であり、力の中に自我がある

    次にシュタイナーは、筋肉運動が完全に力学的なものであることを強調している。 そして、その力の中に自我があると述べている。これは、自我の他の現れ方を見るとより理解しやすい。 アストラル体が働くためには、生命的なものが消費される必要があることを述べた。

     -------- ここから(後に別項目化するかも) --------

    ■アストラル体活動の生理的基盤

    神経の伝達は細胞膜での脱分極が基盤になっていることが知られている。 通常、神経細胞は、細胞膜にあるナトリウムポンプにより、エネルギーを消費して、内にカリウム、外にナトリウムが多い状態を作り出している。そこに刺激が発生すると、内のカリウムは外に流れ出し、外のナトリウムが内に流れ込んでくる。この状態を喩えるなら、エネルギーを費やして、ドミノを列にして立ておいた状態が、刺激によって安定した状態、つまり倒れた状態に変わることに相当する。これをまたエーテル体はエネルギーを投じて立てた状態(内にカリウムが多い状態)に復帰させる。

    ■自我活動の生理的基盤

    自我が必要とする生理作用は、ある意味でもっと過激である。つまり、生あるものが生なきものに変わる作用が必要なのである。その典型的なものが《結晶化》で、骨が結晶化することで、そこに自我が働いていることがわかる。 私には生物学的な根拠はわからないが、シュタイナーが「動物の骨はもっと生き生きしている」(第03講22段落)と述べているのは、このことと関連する。自我が活動するためには、何かが死んでいくことを必要とする。 その視点から観ると、赤血球の振る舞いが理解できる。人間を含めた哺乳類の赤血球では、最終分裂の際に細胞核が放出され、無核になる。つまり、その活動を別の細胞に受け渡すことなく、作られた時点から崩壊に向かうだけなのである。単に細胞が死ぬだけでなく、それに用いられた素材、つまりヘモグロビンもその多くがビリルビンにまで分解され、便や尿を介して体外に排泄される。ビリルビンの色こそが、トイレで見慣れた色なのである。 もちろん、すべての細胞は死に、その構成物質は分解排泄される。しかし、その経路が赤血球ほど明確なものはないし、その死のプロセスが自我の活動と関係している。

    -------- ここまで(後に別項目化するかも) --------

    上述のように、自我が活動するためには《死滅へのプロセス》が不可欠であり、そこでは最終的に結晶化しうるものが関係する。たとえば、ブドウ糖や尿酸は化学界では有機物になるが、結晶化しうるところから、アントロポゾフィーでは《鉱物的》あるいは《無機的》と呼び、それが自我活動とかかわるのである。
    それゆえ、力の働きにおいても《無機的な力》すなわち、純粋に力学的法則が支配する領域において、自我が現れることになる。

    ■外部からの鉱物的なもの(ミネラル諸力)には四肢系が対抗する

    自我は生命界と非生命界が行き来する領域で活動の力を得、またそこにまで働きかける力を持つ。それゆえ、外界からの鉱物的な力に対抗するのも自我の働きである。 この講演ではそこまで触れていないが、『霊学の観点からの医術の拡張』の第7講では、自我が外界からの鉱物的な力を克服する際のプロセスこそが、あらゆる治癒力の源である、と述べている。それゆえ、仮に腸に不調があるなら、腸に親和的な鉱物を与え、その部位で自我にその鉱物を克服させることで、治療を行うことができる。

    ■鉱物化力が過剰だと糖尿病や痛風

    先にも述べたように、糖尿病の元となるブドウ糖や痛風で重要な尿酸は、教科書的化学では有機物にあたるが、結晶化することから、シュタイナーは鉱物的なものと捉える。 したがって、糖尿病や痛風は身体に働く自我が十分に強くないことが原因である。 シュタイナーはこうした病気の対策として、神経感覚器系で生じる《仮像物質》がその対策になると述べている。しかし、この物質がどのようなものでありうるのかは、参考資料が少ないこともあって、不明である。

    第13講解説(一般人間学)

    ■肉体は霊を堰き止め、霊は肉体を吸い取る(削り取る)

    人体の物質代謝を考えると、消化器系で身体を構築する素材が準備され、四肢ではその素材を用いて皮膚や筋肉を作っている。その意味では、四肢は生産の側にはなく、消費の側にある。「四肢は物質を作り出さない」という言葉は、そうした対比の中で考えると理解しやすい。

    ■霊の流れを妨げる脂肪

    四肢を十分に動かしていないと、物質が余り、それが体脂肪になる。すると、この体脂肪は霊の流れを妨げる、とシュタイナーは言っている。
    「脂肪が霊の流れを妨げる」というのを理解するのは容易ではない。しかし、霊が働くための物質的基盤が「結晶化、そして死に向かうプロセス」であることを考えるなら、脂肪には結晶化とは縁がないと言えるだろう。
    いずれにしても、子どもの肥満に対し、シュタイナーが1919年に警鐘を鳴らしているのは注目に値する。なぜなら、当時のドイツの生活事情を考慮するなら、たとえば、大変なインフレが起きイタ時代でもあり、《肥満》が大きな社会問題ではあり得なかったからである。

    ■霊は生きた物質が死滅するところで活動する

    その典型的な器官が神経である。前にも述べたように、神経の基本的伝達メカニズムは《分極》→《脱分極》であり、生命的状態から非生命的状態への移行である。
    シュタイナーは霊が肉体を吸い取る働きとして、皮膚の垢や爪を挙げている。これも《生》→《死》という物質的プロセスが基盤となって霊が活動する、という法則には当てはまる。しかし、この関係は高次の知覚能力がなければ、洞察はできないと思われる。

    ■肉体労働と頭脳労働の対極性


    ■肉体労働

    肉体労働では、肉体が霊性の中で動き回り、過度な労働では肉体が霊化し過ぎる、言い換えると吸い取られすぎてしまう。言い換えると物質的に消耗してしまう。それゆえ、多くの代謝的生産活動が必要となり、多くの睡眠が必要なる。

    ■頭脳労働

    頭脳労働では、霊性を意識の中で捉える。つまり、脳などの神経内で霊性を霊性のままで活動させるが、その際にどうしても《生》→《死》のプロセスが必要になる。そして、これが過度になると、物質を消費し過ぎることが問題になるのではなく、余剰な物質が蓄積することが問題になる。つまり、神経を用いた例の活動の産物として、死の傾向を持つ物質が神経内に蓄積する。

    ■過度な頭脳労働が睡眠を妨げる理由

    この講演では説明していないが、排泄にはアストラル的活動が必要であり、神経内の余剰排泄物が多くなることで、アストラル体が身体とつながっている時間が長くなる可能性がある。そして、アストラル体が肉体やエーテル体から離れにくい状態は不眠である。
    ここで排泄について、簡単に説明しておく。 尿などの排泄では、腎臓の糸球体で血漿成分を一旦全部外に捨てる。(ただし、タンパク質などの高分子は排泄されないが、ここでは考察からはずしている)。そして、尿細管で必要なものだけを再吸収している。たとえて言うなら、持っているものをすべてゴミ箱に入れてしまい、その中から必要なものだけを再度、取り出しているのである。この行為には、対象が何であるかを知覚し、その有用性を吟味するという高度な選択が必要である。外界の知覚でアストラル体が活動するのと同様に、こうした内部での知覚でもアストラル体が重要な働きを演じている。 それゆえ、腎臓ではアストラル体が高度に働いている。

    ■意味ある動きと肉体の要求にしたがった動き

    どのような動きでも、肉体側から来る運動と外界の法則性の兼ね合いが問題になる。たとえば、中華鍋を振ってチャーハンを作るとしよう。初心者は自分が動ける動き方で無闇に鍋を振るので、仕事の能率は悪く、しかも早く疲れてしまう。それに対し名人は、中華鍋が必要とする動きの法則に的確にしたがうので、能率良くしかも疲労も少ない。つまり外界の法則にフィットした動きの方が無駄がないのである。
    そして、外界の法則に最もフィットした動きがオイリュトミーであると言っている。オイリュトミーでは中華鍋の場合とは異なり、物質的法則に留まらず宇宙的法則に身体をフィットさせるので、疲れないのである。 もちろん、初心者ではオイリュトミーによって死ぬほど眠くなることはしばしばあるが、シュタイナーは「オイリュトミストは疲れない」とまで言っている。
    また、この文脈で、「怠け者は動かないのではなく、無駄な動きをしている。それゆえによく眠る」というシュタイナーの指摘は、人間としての生き方に大きな示唆を与えてくれている。

    ■難しい話は眠くなり、関心は頭脳労働を健全に保つ

    頭脳労働との関連で、シュタイナーは二つのことを言っている。一つは、難しい話を聴くと眠くなる、という現象である。もう一つは、事柄を関心も持たずに丸暗記する場合は不眠を起こしやすが、関心を持って記憶するなら、そこで血液活動が活発になり、不眠を防ぐ、というのである。 難しい話の場合、聞いているうちにそこに関心をとどめることができなくなると、眠気が襲ってくる。そこで使われている複数の概念が自分にとってまったく未知であるような場合、それらをどのように関係づけて良いかわからず、すべてが宙ぶらりんのままで話が進んでいくと、人は間違いなく眠気に襲われる。 それに対し、新しい概念が出てきても、それが既知の事柄と結びつき、思考の中で関係性を保てる場合には、眠気はやってこない。体験としては、思考感覚の中で、アストラル体が諸概念と完全に結びついている場合には、内容も理解でき、眠くもならない。しかし、結びつきを見いだせない概念が三つ、四つあると、アストラル体はそれらの浮遊概念と共に浮遊状態(睡眠)に入ってしまう。実際には論理的な話であっても、自分にとって《捉えどころのない話》だと、どうしても眠くなる。
    関心のない事柄を「試験に出るから」というだけの理由で覚える場合は、いわば頭脳労働を単独で行っている状態である。しかし、そこに《関心》が加わると、アストラル体を活性化する活動が加わる。さらに、関心の根底には対象への愛がある。その愛の力は、熱として働き、頭脳労働によって産出される老廃物をすみやかに排除する力になる。
    このように、教育活動を健康に保つための背景を述べ、シュタイナーは関心を伴わない丸暗記を促す《試験》を望ましくないものと述べている。

    第14講解説(一般人間学)

    第14講の主要テーマ


    • '一部にすべてが見られる
    • 教師の心構え

    人間の各部と身体全体との関係

    頭部には身体のすべてが肉体的な形で存在する。

    頭部には、頭部的なもの(神経、感覚系)、胸部的・呼吸器系的なもの(鼻)、腹部的・消化器系的なもの(口腔)、四肢的・運動系的なもの(顎)が肉たい的な形で存在している。

    四肢系は頭部と対称

    実際の手足(四肢系)は肉体的に見える。しかし、四肢における腹部、胸部、頭部は見えないくらい巨大である。つまり、人間の手足とは宇宙的な巨大身体の四肢部だけが可視になり、人間の胴体に噛みついたかたちになっている。そして、この構造は、「霊的なものが肉体的なものを喰う」という第13講のモチーフと整合性がある。

    胸部における頭部と四肢部

    頭部には閉じる傾向があり、四肢には開いていく傾向がある。それは胸部の十二対の肋骨に現れている。

    変声と性的成熟

    胸腹部に属する偽頭部は咽頭であり、偽四肢は生殖器である。咽頭には何らかのフォルムを生み出そうとする衝動があるが、それが物の形としては実現されず、言葉として表れる。つまり、胸胴部の偽頭部である咽頭からは、魂的な頭部である言語が作り出される。もちろん、これは通常の解剖学で説明できない。しかし、この現象は教育にとって意味がある。つまり、肉体的に頭部が完成した後には、魂的な頭部を育てる必要がある。言語を文法的にも学べるようにしてやる必要がある。固める方向で、魂的な骨組みを育てる。
    また、胴部の偽四肢が育つ思春期には教育の課題も変わる。四肢的なものには、共感的に広がっていく本性がある。したがって、教材も定義的、固定的になってはならず、絶えず生き生きと動きのあるものでなくてはならない。つまり、思春期の子どもの教育にはファンタジー;が重要で、杓子定規は最悪である。
    ちなみに、この関連から考えれば、性的成熟期と変声期が重なる現象も理解できる。つまり、この時期には、胴部において、偽四肢(生殖器)と偽頭部(咽頭)が最終的に成熟してくる。

    教師の心構え

    この「ファンタジー」をキーワードに、シュタイナーはこの連続講演を締めくくっていく。

    • 教師は常に生き生きとしたファンタジーを持ち続けなくてはいけない
    • 常に真理へ向かおうとする勇気(「間違ったらいけない」と思っていたのでは、ファンタジーは持てない)
    • 真理に対し誠実であり、真理に対する責任を持つ

    これらの言葉と共に、シュタイナーはこれから教壇に立とうとする人々を力づけた。

    2014年11月1日土曜日

    アナレンマで太陽が1年で8の字を描く理由

    ■アナレンマを授業で取り上げるなら

    シュタイナー教育では、アナレンマの現象を授業で取り上げることもあるかもしれません。
    5年生でしたら、理屈抜きで、太陽がこのような現象を見せることを紹介すればよいでしょう。
    それによって、天体に対して、生き生きとした印象を持つ生徒もいるでしょう。

    こうした現象が見られる背景を以下に紹介しておきます。
    「地球が太陽のまわりを楕円軌道で回っているからこのような現象が起きる」という誤った説明がなされることが多いからです。
    生徒に説明することはなくても、教師はその背景を理解している方が望まいでしょう。

    ■アナレンマの画像(Wikipediaより)



    ■8の字になる理由


    赤道面に対し黄道面が23.4度傾いていて、仮に太陽が黄道上を西から東に等速で動いたとしても、赤道方向のベクトル成分は変動する。

    その速度は冬至と夏至で最大になり、それによる変位が一番大きくなるのが、冬至後、夏至後の4~6週間後になる。(振り子が一番速いのは、下に来た時だが、変異が一番大きくなるのは、振れきった時なのと同じ原理)。



    その時に、アナレンマでは一番左に膨らんだ位置になる。

    ■上が小さい理由

    地球が楕円軌道を描いていて、近日点が1月上旬にあり、その時の太陽の黄道上での速度が最大なので、冬の方がアナレンマの膨らみが大きくなる。