2014年11月24日月曜日

第04講要約(一般人間学)

■序のコメント

▲注意事項:

シュタイナー教育において《意志》と言う場合、これは単に「やりたい」という思いだけではなく、行った《行為》をも含めている。その点で、日常会話での「意志」とは意味が異なる点に注意いただきたい。

一般にも意志の教育が重要と言われているが、意志の本性がわかっていないので、実現できていない。
意志は地上生で完全には実現され得ない、というのは意志の重要な側面である。

■人間の霊、魂、体

▲注意事項:

シュタイナーは、マナスという語が死後はマーネンという複数形で表現されることを紹介している。そして、この事実が霊我の存在と関連する、と説明している。シュタイナーや参加者にとっては、「未知のことを既知のことと結びつける」ことになっているのかもしれない。しかし、現代日本では、マーネンといった表現を知っている人の方が希だろう。つまり、結果として未知なものを未知なものに結びつけることになってしまっている。しかし、マナスやマーネンといった事柄は例として取り上げられていて『一般人間学』の内容を理解する上では枝葉末節なので、知らなかったり、理解できなかったりしても差し支えない。

人間の霊、魂、体の構成要素は以下のようになる。
霊:霊我、生命霊、霊人であり、地上生ではその極一部だけしかない。
さらに意識魂、悟性魂、感受魂、アストラル体、エーテル体、肉体がある。

■体部分と意志のかかわり


  • 《本能》は肉体
  • 《衝動》はエーテル体
  • 《欲望》は感受体(アストラル体) これについては、本能・衝動・欲望を参照のこと。

上記の参考資料から、「ビーバーの身体にはビーバーの本能が現れている」という意味が理解できるはずである。

■意志の人間的な部分


意志において、自我は《動機》として現れる。《人間的》な行為が人間的であるのは、その背後に動機があるからであるし、このことは日常的でもしばしば経験するだろう。 特に、偉人と呼ばれる人々の伝記を読むと、この《動機》がどのようにして具体的な行為にまで落とし込まれるかがわかるだろう。

■霊我、生命霊、霊人と意志の関係

行為を振り返ると、人は必ず「次はよりよく」という思いを抱く。それは《願望》であって、霊我に由来している。より成長した人間ほど、「よりよく」の意識を強く持つし、未熟な人間ほど自分の現状に満足する。 【参考】「すべての芸術は未完成である」ミケランジェロ。
自分の中の「もう一人の自分」はより賢いのである。このことを、シュタイナーはフロイト系の分析心理学の例から示している。(例自体には大きな意味はないと思われる)。
「次こそは」という《先へ向けての意図》は生命霊と関連する。これは死後の営みで展開される部分であろうが、地上生でもその片鱗が「次こそは」という思いとして現れる。
さらに死後、次の受肉に向けての《決意》が霊人との関連で生じる。一つの地上生を総括し、その成果と発展可能性を含め《決意》というかたちになるのだろう。 したがって、この部分の文面だけでは、現地上生での意志との関連はわからない。
教育ではこの死後に残るものも視野に入れる必要がある。

■意志教育の実践

意志教育の観点からもシュタイナーはマルクス主義教育を批判するが、この部分は「マルクス主義」を「現代的」に読み替えても意味を持つ。
しかし、意志の力を育てるのは単純に《繰り返し》なのである。 生徒の側から作り出される教師の権威の元で、繰り返しが行われるなら、それが意志を育てる。 繰り返しには、無意識的な繰り返しと意識的な繰り返しがあるが、それぞれ人間の別な側面を育てる。

  • 無意識な繰り返し⇒感情を育成
  • 意識的な繰り返し⇒意志を育成

【参考)
無意識な繰り返しが感情を育てる:ドラマや映画の音楽では、しばしば次のような手法が使われる。作品の序盤からあるテーマが、ちょっとしたシーンの中で軽い扱いで繰り返される。それが作品のクライマックスで、入念なアレンジで再度登場するのである。それによって、聴き手の心が大きく揺さぶられるし、前に繰り返し聴いていたことを意識しない場合に、それが顕著である。たとえば、オペラの前奏曲のテーマが最も感動的なシーンのアリアに現れる、といった手法である。古い話ですが『北の国から』では、フォーレの『夢の後に』が、時にさらっと、時に濃厚に効果的に使われていたように思います。(全編を観たことがなく、数回の断片を観ただけなので確証はありませんが。)

■芸術の練習は意志教育に有効

芸術の練習では、必然的に繰り返しが必要で、それが子どもの意志を育てるのに有効である。

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