2014年11月24日月曜日

第12講解説(一般人間学)

■肉体を動植鉱物界との関係で捉える

人間を理解するには、動植鉱物界との関係の関連を考慮する必要があるが、単なる表面的な観察では本質は掴めない。

■脳は動物界を通り抜け、最も進化している

事実として、人間の脳は動物界で最も進化している。

■頭部は動物的形姿を作りだそうとする

これは2点に分けられる。

  1. 頭部が形態形成をリードしている
  2. その形態は動物形態であり、人間形姿ではない
1.については、いくつかの事実を見れば、人間にはそうした傾向があることがわかるだろう。
まず、成長過程で頭部は身体の他の部分に比べ、先に完成する。脳細胞数に関しては、7歳で成人の90%以上が形成されている。これで直ちに、脳が身体他部分の形成をリードしている、とは言えないが、リードしている可能性はある、くらいのことは言える。
次に、一歩進んで、頭部のもつ形態形成的役割を理解するには、脳梗塞の後遺症を様子を観察すれよい。脳梗塞では、脳内出血による機能損傷で、胴部や四肢に対して適切な神経が遮断されている。その結果、たとえば半身不随といった症状が出る。たとえば、右手、右足が自由に動かせなくなる。その結果、手足が萎え、形が少しずつ変わっていく。あるいは、顔も一部の筋肉が不活発であるために、形が変わる。 つまり、身体の形態を100%頭部が決定しているのではないにしろ、形態には頭部が事実として関与している。

2.については、通常の自然科学の立場から言えることはない。 しかし、シュタイナーが他の箇所で言っていることを加えるなら、次のように説明できる。
現代の科学常識では、脳こそが人間の人間たる最も重要な器官である、となっているが、シュタイナーの観察では、脳神経系は《アストラル体》のための器官であり、血液こそが《意識的自我》の器官であるし、《無意識的自我》が最もしっかり根付いているのは骨格である。 したがって、「神経はアストラル・レベル」という認識に立てば、「脳が絶えず人間形姿を動物化しようとしている」というのは自然な論理と言えるだろう。人間が人間形姿を持つためには、他の人間的な力を必要とする。

■四肢、胸部がそれ(動物形態化)を抑える

アストラル体の活動は、エーテル体を基盤にしつつ、本来、自我のコントロール下にある。 アストラル体とエーテル体の関係を見ると、アストラル体の活動は、エーテル体が作る生命的な力を壊すことで成り立っている。したがって、壊すことができないくらいに旺盛な生命力があるときには、アストラル体の活動は低下する。身近な例では、満腹だと眠くなり集中して考えられない、といった現象がある。 アストラル体は自我のコントロール、言わば上からのコントロールを受ける。人間は、空腹だからといってスーパーマーケットの棚からリンゴを取って食べたりはしない。演劇などでは、アストラル体を基盤とする自らの感情が完全に自我の支配下に置かれる。
このように、アストラル体の活動は上からも、下からも制限される。上とは自我であり、これは四肢と関連しているし、下とはエーテル体でこれは胴部と関連している。このことを霊視的な像で語るなら、「皆さんの中から動物界が生涯生じ続けることがないよう、胴部や四肢が動物界を思念へと変容させているのです」となる。
また、頭部での動物化が強すぎると、偏頭痛が生じると述べられているが、この関連はまだ説明できない。

■呼吸は植物界の裏返し

植物は二酸化炭素を吸い込み、酸素を放出する。それに対し、呼吸では酸素を吸い込み二酸化炭素を放出する。この事実だけで、「植物界の裏返し」はある程度実感できる。
他にも、ミトコンドリア(呼吸)と葉緑体(光合成)は共に細胞内の二重膜小器官で、同じ仲間に属するが、そこでの働きは正反対である。また、呼吸におけるクエン酸回路と光合成におけるカルヴィン回路は、共に複雑な円環状の反応系である。

■人間には植物体を生じさせる潜在力がある

呼吸では二酸化炭素が排出されるが、人体内にある炭酸には、植物化の傾向があると言う。 これを理解するために、まず植物界での炭素の働きを観てみよう。 植物は、空気中の二酸化炭素を取り込み、それを炭水化物に同化し、さらにはセルロースとして植物形態の中心素材にする。植物形態と炭素の関係は、木炭を見れば了解できる。炭を見れば、元の木がなにであるかがわかるのだから、炭素こそがその植物の形態を作る上で最も重要なのは明らかだろう。
しかし、動物や人間の身体を支えるのは炭素ではなく、カルシウムである。これは次のように考えることができる。 骨形成のプロセスを見ると、まずコラーゲンなどを主成分とする軟骨が形成され、そこにカルシウムが蓄積し、最終的には骨格になる。コラーゲンはタンパク質であるから、構造を維持する元素は植物と同様、炭素である。そこにカルシウムが加わり、現実には炭素はより流動的でさまざまに変化する役割を担うことになる。しかし、過剰な炭素は硬化への危険性をはらむので、呼吸によって排出するのである。
そして、生体内の過度な植物性が病気の原因である。 シュタイナーは、過度な植物作用により、病原菌が繁殖しやすい場が生まれ、病気になる、と言っている。 これもバクテリア類の表面が細胞壁に覆われ、植物的であることをを考えれば、つながりを見つけられる。細胞壁と言っても、植物はセルロースやリグニンで、バクテリアのそれはそこまで高分子ではない多糖類が主体なので、若干の違いはあるにしろ、同系統の素材であることは間違いない。

■体内に植物が生じると病気になるが、これを頭部&四肢が抑えられてい

る これは《植物的なもの》をアストラル体(頭部)や自我(四肢)がどのように抑えているかを考えれば良い。 アストラル体がエーテル体を《食い潰す》ことはすでに述べた。自我はアストラル体の上位にあり、アストラル体をコントロールする。そのルートで、エーテル体をコントロールしていると考えることができる。
また、四肢を動かすことが直接的に生命力をコントロールしていることも容易に納得できるだろう。身体を動かしていると、しだいに力が《枯渇》し、それが睡眠(エーテル活動)によって回復ていくことは誰もが知っている。

■胴部での代謝は中間部のみからなる燃焼作用である

次に消化を含む代謝活動が取り上げられる。代謝には発熱が伴い、そのエネルギー源は食物である。その意味では燃焼作用と同じものであるが、米が燃えて灰と熱になる 燃焼と比較するなら、その最初と最後の部分は、人間内では行われない。 米の籾殻は消化できないし、生米も消化しにくい。加熱してご飯として炊きかなければ、取り込むことができない。 また、燃焼作用の最後の部分にも関与できない。 ご飯を炊いても、ひどいお焦げは栄養にならない。また、シュタイナーが言うように「熟れすぎたり、腐った果実は身体が受け付けない」。

■魂=反植物+燃焼中間部

魂的なものの基盤は、反植物と燃焼中間部であるという。
反植物は、反エーテルであり、アストラル(魂的なものと密接に関連)も反エーテルであることで活動しているので、両者は密接に関連する。この反植物である器官が《肺》であることは明らかだろう。
次に燃焼中間部を見てみよう。ここで重要なのは、外界からの素材が実際に身体に取り込まれる際の入り口となる器官と出口になる器官である。入り口に当たる器官は、《肝臓》である。小腸で吸収された糖、アミノ酸などは、そのまま体内をめぐるのではなく、一旦肝臓で調整される必要がある。
また、体内の代謝産物が最終的に排泄されるのは、血液の濾過器官として知られる《腎臓》である。そして、反植物と燃焼中間部が出会う器官が《心臓》である。この第12講ではそこまで具体的に述べてはいないが、人間の魂を支える主な臓器は肺、肝臓、腎臓、心臓であり、心身症をアントロポゾフィー医療の立場から診るときには、重要な視点である。

■病気はこれらの関連から理解される

人体の健康を考えるためには、これらの要素がどのように関連し、また変調をきたしているかを診る必要がある。病原体の特定が最も本質的なのではない。

■運動の原理は力学的であり、力の中に自我がある

次にシュタイナーは、筋肉運動が完全に力学的なものであることを強調している。 そして、その力の中に自我があると述べている。これは、自我の他の現れ方を見るとより理解しやすい。 アストラル体が働くためには、生命的なものが消費される必要があることを述べた。

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■アストラル体活動の生理的基盤

神経の伝達は細胞膜での脱分極が基盤になっていることが知られている。 通常、神経細胞は、細胞膜にあるナトリウムポンプにより、エネルギーを消費して、内にカリウム、外にナトリウムが多い状態を作り出している。そこに刺激が発生すると、内のカリウムは外に流れ出し、外のナトリウムが内に流れ込んでくる。この状態を喩えるなら、エネルギーを費やして、ドミノを列にして立ておいた状態が、刺激によって安定した状態、つまり倒れた状態に変わることに相当する。これをまたエーテル体はエネルギーを投じて立てた状態(内にカリウムが多い状態)に復帰させる。

■自我活動の生理的基盤

自我が必要とする生理作用は、ある意味でもっと過激である。つまり、生あるものが生なきものに変わる作用が必要なのである。その典型的なものが《結晶化》で、骨が結晶化することで、そこに自我が働いていることがわかる。 私には生物学的な根拠はわからないが、シュタイナーが「動物の骨はもっと生き生きしている」(第03講22段落)と述べているのは、このことと関連する。自我が活動するためには、何かが死んでいくことを必要とする。 その視点から観ると、赤血球の振る舞いが理解できる。人間を含めた哺乳類の赤血球では、最終分裂の際に細胞核が放出され、無核になる。つまり、その活動を別の細胞に受け渡すことなく、作られた時点から崩壊に向かうだけなのである。単に細胞が死ぬだけでなく、それに用いられた素材、つまりヘモグロビンもその多くがビリルビンにまで分解され、便や尿を介して体外に排泄される。ビリルビンの色こそが、トイレで見慣れた色なのである。 もちろん、すべての細胞は死に、その構成物質は分解排泄される。しかし、その経路が赤血球ほど明確なものはないし、その死のプロセスが自我の活動と関係している。

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上述のように、自我が活動するためには《死滅へのプロセス》が不可欠であり、そこでは最終的に結晶化しうるものが関係する。たとえば、ブドウ糖や尿酸は化学界では有機物になるが、結晶化しうるところから、アントロポゾフィーでは《鉱物的》あるいは《無機的》と呼び、それが自我活動とかかわるのである。
それゆえ、力の働きにおいても《無機的な力》すなわち、純粋に力学的法則が支配する領域において、自我が現れることになる。

■外部からの鉱物的なもの(ミネラル諸力)には四肢系が対抗する

自我は生命界と非生命界が行き来する領域で活動の力を得、またそこにまで働きかける力を持つ。それゆえ、外界からの鉱物的な力に対抗するのも自我の働きである。 この講演ではそこまで触れていないが、『霊学の観点からの医術の拡張』の第7講では、自我が外界からの鉱物的な力を克服する際のプロセスこそが、あらゆる治癒力の源である、と述べている。それゆえ、仮に腸に不調があるなら、腸に親和的な鉱物を与え、その部位で自我にその鉱物を克服させることで、治療を行うことができる。

■鉱物化力が過剰だと糖尿病や痛風

先にも述べたように、糖尿病の元となるブドウ糖や痛風で重要な尿酸は、教科書的化学では有機物にあたるが、結晶化することから、シュタイナーは鉱物的なものと捉える。 したがって、糖尿病や痛風は身体に働く自我が十分に強くないことが原因である。 シュタイナーはこうした病気の対策として、神経感覚器系で生じる《仮像物質》がその対策になると述べている。しかし、この物質がどのようなものでありうるのかは、参考資料が少ないこともあって、不明である。

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