2014年12月1日月曜日

『一般人間学』、第03講、シュツットガルト、1919年8月23日


目次

参考リンク

■ 教師の意識と人類の至上の理念との関係(01)

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▲教師の意識と人類の至上の理念との関係(01)


03-01
現代の教師は、学校でのさまざまな活動の背景として、本来、宇宙の諸法則について包括的に理解しているべきでしょう。 そして、まさに低学年の授業では、当然ながら、最高次の人類理念と教師の魂のつながりが要求されます。 従来の学校では、低学年担当教師が従属的地位に置かれ、高学年教師より価値が低いと見なされていますが、この体質は学校における癌とも言えます。 この場ではもちろん、社会機構の精神的分野全般についての問題には立ち入りません。 しかし、将来においては、教師集団のすべてのメンバーが平等であり、その精神的なあり方も含めて、低学年教師と高学年教師は等価値である、という強い感情が社会一般にも浸透しなければならない、とだけは言っておかなくてはなりません。 ですから、子どもに直接教える内容ではなくとも、…低学年の授業も含めた…創造的なあらゆる授業の背景として、教師が持つべき前提知識が、当然ながら存在するのです。

■人間を理解する上での二つの根本的障害:二元論とエネルギー保存の法則(02~06)

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▲心理学が不完全である理由(02~03)


03-02
授業では、子どもを自然界と精神界へ誘います。(【訳注】ここでの「精神界」とは文学、歴史、等々を意味するものと思われる。) 人間は、誕生から死までこの地上という物質界に存在する限り、一方では自然界と、もう一方では精神界とつながっています。
03-03
さて、この時代にあって心理学的認識の発展は著しく遅れています。 つまり、869年に制定された教会ドグマの後遺症により、かつてあった「人間は体、魂、霊から成る」という認識を失ってしまったのです。 心理学のほとんどが、人間は二つの構成部分からなる、と述べているのをご存じでしょう。 人間は肉体と魂からなる、とか、身体と精神からなる、などと述べていますが、この場合には、肉体と身体、魂と精神はほぼ同じ意味で使われています。 ほとんどすべての心理学が、人間の二層構造という誤りの上に成り立っています。 このように二層構造で考えている限り、人間構成体についての正しい洞察は決して得られません。 それゆえ、今日心理学と言われるものは、基本的に素人芸ですし、ほとんど戯れ言に過ぎないのです。

▲エネルギー保存則から帰結される阻害(04~05)


03-04
さらにこれらの心理学全般は、例の大きな誤謬に由来しています。これは本来、物理学の偉大な発見ですが、その法則が19世紀後半に誤解され、誤謬として拡大してしまいました。 これを発見した人物は、当時、精神病院に隔離されましたが、ご存じのように、ハイルブロン市民は果敢にもこの人物の記念碑を建てました。ユリウス・ロベルト・マイヤーです。 当然ながら、この人物は現在ではハイルブロン市民の大きな誇りで、いわゆるエネルギー不変の法則と密接な関係があります。 この法則は、「宇宙に存在するエネルギー量は一定であり、その時々に応じて熱や力学的な力として現れ、形を変えるだけである」、というものです。 しかしこの法則のこの表現は、ユリウス・ロベルト・マイヤーの法則を完全に誤解しています。 マイヤーにとって重要な発見は、諸力がメタモルフォーゼしうる、という点で、エネルギーの保存という抽象法則を打ち立てることはどうでもよかったのです。
03-05
さて、文化史的に見ますと、このエネルギー保存の法則の意味は何でしょうか? これは、人間理解にとっては大きな障害になります。 諸力が新しく生み出されることはありえないと考える限り、真の人間本性は認識できません。 なぜなら、真の人間本性の基盤は、人間を通して絶えず新たな諸力が形成される、という点にあるからです。 人間とは、私たちが生きているこの世界における関連では、新たな諸力、あるいは…後にお話ししますが…新たな素材すら形成しうる唯一の存在なのです。 現在の世界観ではこの要素、つまり完全な人間認識に必要な要素をまったく取り入れようとしませんから、このエネルギー保存法則に行き着くのです。 このエネルギー保存法則は、人間を含まない…鉱物界、植物界、動物界といった…自然界を視野に入れる限りにおいては何の矛盾もありませんが、人間を含めた瞬間に現実認識から離れてしまうのです。

▲教師の課題:自然と文化の伝達(06)


03-06
教師である皆さんは、生徒たちに、自然、そしてある程度までの精神的営みの二つを理解させる必要があります。 最低限、ある程度までは自然界を知り、また精神的営みにも関係するのでなければ、現代人として社会生活を営むことはできません。 そこでまず、外的自然に目を向けようと思います。

■世界への二通りの道筋と純粋思考の持つ意味(07~14)

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▲自然に対する二重の関係-表象の側(07~08)


03-07
この外的自然とのかかわりを見ますと、私たちは、表象的、思考的に接し、また意志の側でもかかわっています。そして、表象は像的性格を持ち、誕生前を映したある種の鏡像ですし、意志は死後に芽吹く萌芽でした。 私たちは常にこのように自然と向かい合っています。 一見すると自然界はこのように二層になっているように見えますし、こうした見方が人間の二層構造という誤った考えの元でした。 この問題は、また後で取り上げましょう。
03-08
自然に思考的・表象的な面で接すると、私たちは自然の死に行く側面しか把握できません。 これは非常に重要な法則です。 次のことは、しっかり肝に銘じておいてください。 皆さんが、悟性や表象の力を借りて素晴らしい自然法則を発見しますと、この自然法則とは、自然界の死に行く側面とだけ関係しているのです。

▲知覚過程における自我-意志の側(09)


03-09
自然に対し、命を持ち萌芽的である意志を向けますと、死したる自然法則とはまったく異なる経験が得られます。 皆さんはまだ、誤った現代学問から来る考え方を詰め込まれていますから、これは難解かもしれません。 …全部で十二ある感覚を介して私たちが外界と関係するとき、それは認識的なものではなく、意志的なものです。 現代では、誰もこの事実を洞察していません。 それゆえ、目から対象に一種の触手が伸びるから見えるのだ、というプラトンの言葉を幼稚とみなすのです。 もちろんこの触手は感覚的手段では捉えられません。 ですから、プラトンがこれを知っていたというのは、彼が超感覚界に入っていたことの証明です。 対象を見るときには、まさに物を掴むときに似た、しかしそれよりも繊細な過程が生じているのです。 たとえばチョークを手で掴むときの物理的過程は、対象を見る際に目からエーテル力が発せられる霊的過程と似ています。 もし現代人がきちんと観察できれば、自然観察からこの事実が引き出されるはずです。 たとえば馬の眼は外側を向いていますが、この眼の位置を観るだけでも、周囲との関係が人間とは違うことを感じ取れるはずです。 次のように仮定すると、その根本にあるものがはっきりすると思います。 皆さんの両腕が、前方で互いに触れたり、両手を合わせたりできない構造になっている、と仮定してみてください。 オイリュトミーで言えば、Aしかできず、何らかの抵抗のために腕を前で合わせられず、決してOはできないのです。 馬の眼から出る超感覚的な触手は、ちょうどこのような状態です。左眼の触手を右眼の触手に触れ合わせることができないのです。 人間の眼の位置では、両眼の超感覚的な触手を常に触れ合わせることができます。 これができるので、…超感覚的な意味での…自我の知覚ができるのです。 動物でも左右を触れ合わせることができる場合がありますが、それでも祈りといった精神的な営みに使うことはできず、わずかな意味しか持ちません。もし人間がこの程度にしか左右の手を触れ合わせることができないか、あるいはまったくそれができなかったら、自我を霊的に感じ取ることはできなかったでしょう。

▲「なっていくこと」と「できあがっていること」(10~12)


03-10
眼や耳など感覚的感受において重要なことは、それが完全には受動的ではなく、能動的で、対象と意志的にかかわる点です。 最近の哲学には、正しい方向の予感もあり、それに多くの言葉を弄していますが、大概は、事柄把握への道のりの遠さを示しているだけでした。 ロッツェ哲学の局所的兆候という観方の中に、感覚の意志的性格についての予感が現れています。 しかし、とりわけ触覚、味覚、嗅覚は明らかに代謝系と結びついていますし、より高次の感覚も代謝系と関連していますから、意志的な性質があると言えるのです。
03-11
ですから、次のように言うことができるでしょう。 人間が悟性的理解をもって自然に向いますと、自然界の死んだものを捉え、死んだ法則を得ます。 また、自然において未来志向的に死の領域から抜け出ているものを、人間は意志によって捉えますが、その意志とは、自分にとっても曖昧でありつつ、それでいて諸感覚にまで入り込んでいます。
03-12
この言葉をきちんと捉えると、自然との関係がいかに生き生きするかを思ってみてください。 そして、こんな風に言うことでしょう。自然に出ていくと、光や色彩が向かって来て、そして、光や色彩を受け取ることで、私は自然における未来に向かう放射と結びつく。そして部屋に戻り、自然について考えを巡らせ、法則について考えるとき、私は自然の死に行くものと取り組んでいる、と。 自然の中では、死んでいくものと生まれ出るものとが絶えず結びつき合っています。 私たちが死を理解しうるのは、自分の内に誕生前の営みの鏡像を持ち、さらには悟性世界、思考世界を持ち、それを介して自然の根底にある死を捉えられるからです。 自然の中で未来に生じるものを捉えうるのは、悟性や思考をもってではなく、内にある意志的なものをもって自然に向かうからなのです。

▲認識における、感覚に依拠しない純粋な思考(13~14)


03-13
誕生前や地上生までの全体から、もしくは、誕生前の期間に単なる思考的営みになってしまったものから、何かを救い出すことができなければ、人間は決して自由にはなれないでしょう。 この場合、人間は死するものと結びつき、自分が内に持つ、死せる自然と類縁なものを自由へと引き上げることになりますが、それはまさに死に行くものを自由にしようとしていることになります。 意志存在としての人間は自然と結びついていますが、人間がそこに没頭して行きますと、意識がぼんやりしてしまいます。なぜなら、意志存在としての人間を自然と結びつけるものとは、まだ萌芽的だからです。 そのとき人間は、自然存在ではあるでしょうが、決して自由な存在ではありません。
03-14
…悟性による死せるものの把握と、意志による生命を持ち成長しゆくものの把握…この二つの要素を超えた何かを、他のいかなる地上存在も持ち得ない何かを、人間は誕生から死まで持ち続けます。 それが純粋思考です。これは、外界の自然と関連する思考ではありません。そうではなく、人間自身の内にあり、人間を自律存在とし、生死を超えた超感覚的なものに関連する思考です。 それゆえ、人間の自由を論ずるなら、人間内の自律的な要素、すなわち感覚的なものから解き放され、さらにはその中に意志もが活動している純粋思考を見なくてはなりません。
(純粋思考についての簡単な説明へのリンク)

■自然に対する人間の意味(15~21)

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▲進化に対する人間の意味(15~17)


03-15
もしこの視点から自然そのものを観察しますと、こんな風に言えるでしょう。 自然を眺めると、死の流れが私の内にあり、新生の流れもまた私の内にある。 死、そして再生が、と。 最近の学問は自然をいわば単一的なものとして捉え、生と死をきちんと分けていませんから、上述の関連をほとんど理解できません。その結果、今日の学問が自然について語る内容は混沌としています。死と生成を常に混同しているからです。 自然界のこの二つの流れをきちんと分けるとするなら、「もし人間が自然界に存在しなかったなら、自然はいったいどうなるか」、と問わなくてはなりません。
03-16
この問いを向けられると、最近の自然科学や自然科学哲学は非常に困惑します。 たとえばれっきとした現代自然科学者に、もし人間が居なかったら、自然やそこに棲む生物はどうなっていただろうか、と質問したと思ってみてください。 こうした唐突な質問に、もちろん初めは幾分驚くかもしれません。 その答えの根拠を自分の学問の中に探し、こう答えるでしょう。 「もしそうなら、地上には鉱物、植物、動物が存在し、人間だけが存在しないだけだろう。そして、地球の成り行きも、カント・ラプラス説が言うガス状態から今日に至る道筋をまったく同じにたどっただろう。ただ、人間だけがこの発展に参加していないだけだ」、と。 …基本的には、これ以外の答えは出て来ないでしょう。 もしかしたらこう付け加えるかもしれません。「もっとも農業では大地を耕し地表を変化させ、また機械を作り、さらに変化をもたらすだろうが、それは自然自身の力で生じる変化に比べたら微々たるものに過ぎない」、と。 つまり、自然科学者は常に、「人間がいなくても鉱物、植物、動物は進化するだろう」、と言います。

▲地球の形成力にとっての人間死体の意味…若さを保たせる働き(17~21)


03-17
しかし、これは正しくありません。 地球進化に人間が含まれないなら、大部分の動物も存在しないはずです。 なぜならば、特に大部分の高等動物は、…イメージとしてお話ししますが…人間が先に進むために踏み台として必要としたがために存在したのです。 かつての人間は現在とはまったく違った生き物で、地球進化のある段階で、自分自身の本質から高等動物的部分を分離排泄しなくてはならなかったのです。さらに進化するために、それらを排出する必要があったのです。 この排出は、何らかの溶液から、そこに溶解した素材が分離し、沈殿する過程に喩えることができます。 これと同じように、人間も、初期の発達段階では動物界と一体でしたが、それが時間と共に、喩えの沈澱物と同じように、動物界を排出してきたのです。 もし人間が地球進化の中で今日の人間にならなければ、諸動物も今日の動物にはならなかったはずです。 地球進化が人間を含まなかったら、動物形態、さらには地球そのものも、今日とは全く違った姿をとったはずです。
03-18
さらに鉱物界と植物界についても考えてみましょう。 この点は、はっきりさせておいた方がよいのですが、もし地球に人間が存在しなかったら、下等動物だけでなく、植物界や鉱物界もとうの昔に硬化し、生成発展できなかったはずです。 ここでも偏った自然観の上に成り立つ現代的世界観を持つ人は、当然ながらこう言うでしょう。 「人間は死に、その肉体は焼かれるか埋められるかして土に帰る。しかし、これは地球進化にとって何の意味もない。 なぜなら人間の死体を受け取ろうが取るまいが、地球の進化は今と何も変わらないだろう」と。 …しかしこのような発言自体が、火葬にしろ土葬にしろ、絶えず人間の死体が地球に帰るプロセスが、実効のあるリアルなものであることに対する無知をさらけ出しているのです。
03-19
パン焼きでは、ほんの少量でも酵母が重要で、生地に酵母を入れなければパンが膨らまないことを農家の女性は都会の女性よりもよく知っています。 地球進化もそれと同様です。 死と共に人間の肉体は霊的・魂的なものから切り離されますが、その死体の持つ諸力が絶えず地球に供給されなければ、地球進化はとっくに終わっていたはずです。 地球進化は絶えず人間死体が持つ諸力を受け取っていて、それが進化を保っているのです。 もしこの諸力がなければ、鉱物はとうに結晶形成力を失い、ばらばらに解消してしまったはずです。しかし、この力のおかげで、鉱物は今日なお結晶形成力を発揮することができるのです。 また植物も、この諸力がなければとうに生長が止まってしまったはずですが、今日なお成長できるのです。 下等動物についても同じです。 人間は身体内の促進剤を、ちょうど酵母のように、さらなる進化のために大地に与えているのです。
03-20
それゆえ、地球上に人間が生きているか否かは、決してどうでもよいことではないのです。 地球上に人間が存在しなくても地球上の鉱物界、植物界、動物界は進化していく、というのは真実ではありません。 自然プロセスとは、そこに人間も含めて統一的、完結的なのです。 人間の死も宇宙的プロセスに含めて考えるとき、初めて人間を正しくイメージしています。
03-21
こう考えますと、私が次のように言っても、驚かれないでしょう。 霊界から物質界へと降りて来ることで人間は物質的肉体という衣を身に纏います。 しかし当然ながら、誕生時に受け取ったこの肉体は、何年後かに死ぬときには違ったものになっています。 その間に、肉体に何かが起きているわけです。 その変化の原因は、肉体に人間の霊的・魂的諸力が浸透したから以外にはありえません。 結局のところ、私たちは動物と似たようなものを食べています。 つまり、動物が及ぼす外界の物質的変化と似たようなことをしています。 しかし人間の場合、その変化に、動物には存在しない何か、霊界から降りてきて人間肉体と一体となった何かが協働しています。 これによって私たち人間は、物質素材から、動物や植物が作りうるものとは違ったものを作り出します。 それゆえ、大地に帰る人間の死体素材は変化した素材であり、誕生時に受けとった素材とは異なっています。 ですから人間は、誕生時に受けとった物質や諸力を、生涯刷新し続け、変容させて地球プロセスに譲り渡す、と言えるでしょう。 死に際して地球プロセスに譲り渡す素材や諸力は、誕生時に受け取ったそれではありません。 人間はこのようにして、絶えず超感覚的世界から物質的地上世界に流れ込んでくるものを、地上の進化プロセスに受け渡すのです。 人間は、地上生において、誕生に際し超感覚的世界から持ってきた何かを物質的素材や諸力と統合し、死に際してそれを大地に譲り渡します。 こうして人間は、超感覚的世界から物質的感覚的世界への滴を絶えず仲介しているのです。 こう考えることができるでしょう。「超感覚的世界から感覚世界へは、絶えず滴が降り注いでいるが、もし人間がこれを受け取らず、自分を介して大地に伝えなかったら、この何かは、大地に実りをもたらすことはできない」、と。 人間が誕生と共に受け取り、死に際して大地に譲り渡すこの滴は、絶えず大地に実りをもたらし続ける超感覚的諸力であり、これによって地球の進化プロセスが保たれるのです。 もし人間の死体が無かったら、地球はとうに死滅しているはずです。


■自然から人間へ、人間から自然への力の働きかけ(22~29)

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▲死の力による骨と神経の形成(22~23)


03-22
さらに話を進めるなら、こう問うことができます。「それでは、死の諸力は人間の本性にどう働きかけるだろうか?」と。 もし人間が絶えず命を与えていなければ、外的自然界は死滅してしまうはずですから、死をもたらす諸力は外なる自然界を支配していますし、それは実際に人間本性の内部にまで入り込んできます。 それではこの死をもたらす力は人間本性内でどのように働くのでしょうか。 この死をもたらす力は、人間本性内で、骨格や神経系器官を作り出す働きをします。 骨格やその類を形成するものは、それ以外の組織系を形成するものとは全く違った性質を持っています。 死をもたらす諸力が私たちの内に入り込み、活動します。それをあるがままに受け入れると、私たちの骨格になるのです。 この死をもたらす諸力が入り込んで、私たちがそれを弱めると、神経系になります。 …神経とは何でしょうか? 神経とは、絶えず骨格を志向しつつも、人間内の非骨格的・非神経的要素の作用によって骨化が妨げられたものなのです。 神経は絶えず骨化しようとし、骨格と同様絶えず死へ向かっていますが、骨格の方が死んでいる程度が高いのです。 動物では骨格の事情も違い、それは人間の骨格よりずっと生き生きしています。 …「死をもたらす流れが、骨格・神経組織で作用している」と考えることで、人間本性の一方の面をイメージできます。 これが一方の極です。
03-23
もう一方の流れである絶えず生命を与える力は、筋肉・血液組織系のすべての器官に作用しています。 神経が骨格にまでなってしまわないのは、それが血液・筋肉組織と関係していて、血液・筋肉内で作用する諸力が骨化への衝動を抑えているからです。 血液・筋肉組織が骨化に対抗し、骨化を防いでいるので神経は骨化しないのです。 一方に骨格系、もう一方に血液・筋肉系がありますが、成長においてこれらの関係が不適切で骨格の正常な死滅化が血液・筋肉系によって妨げられますと、クル病になります。 ですから、人間内で筋肉・血液系と骨格・神経系の相互作用が適切であることは非常に重要です。 眼における骨格・神経系を見ますと、まず骨格がそれを覆っていますし、後退し弱められた骨格系である神経系が入りこんでいます。ですからそこでは、筋肉・血液系内に生きる意志的本性と、骨格・神経系内にある表象的活動とがつながる可能性が生れます。 ここでまた、昔の学問では重要であったものの、現代学問では稚拙と笑い飛ばされてしまう事柄が出てきます。 それでも最近の学問にはそこへの回帰も見られますが、形は違っています。

▲骨格系と幾何学(24~25)


03-24
昔は、神経髄と骨髄、つまり神経素材と骨素材との類縁関係が感じ取られていました。それゆえ、神経を骨と同じように考えていました。 これは真実でもあるのです。 私たちが抽象的学問を手にしうるのも、すべて骨格組織の能力のおかげです。 たとえば、なぜ人間は幾何学を構築できるのでしょうか? 高等動物には幾何学はありません。その生き方を見ればわかります。 「高等動物にも幾何学はあるが、人間がそれに気づかないだけだ」という意見もありますが、それはでたらめです。 …さて、人間は幾何学を構築します。 しかし、人間はたとえば三角形をイメージする際に何を助けにしているのでしょうか? 人間は三角形をイメージする、という事実をしっかり考えますと、そこにある素晴らしい何かに気づくはずです。 つまり、実生活のどこにも存在しない抽象的な三角形を、純粋に自らの幾何学的・数学的ファンタジーから作りあげているのです。 宇宙において表面に現れる出来事の基盤には、知られていないものがたくさんあります。 たとえば、皆さんがこの部屋のどこかに立っていると考えてください。 皆さんの超感覚的人間はある時、奇妙な動きをしますが、通常、それには気づきません。それはおよそ次のようです。横に少し動き、次に少し後ろにさがり、最後に元の位置に戻ります。 皆さんは実際、無意識に三角形の線を空間に描いているのです。 こうした運動は実在しますが、皆さんはそれを知覚しません。 ただ、背骨が垂直に立っているおかげでこの運動が行われる平面に居られるのです。


動物では脊髄の方向が違うので、この平面内には居ません。それゆえこの運動はできません。 人間の脊髄は真直に立っているので、こうした運動を行いうる平面内に居られるのです。 ただ、「私は絶えず三角形を踊っている」、と言えるほどには意識化されていません。 …しかし人間は三角形を描き、「これは三角形だ」と言うのです。 …これはコスモス内で人間が無意識に行った運動である、というのが真相です。
03-25
幾何学的図形を描いているときに皆さんは、こうした運動を固定していますが、この運動は地球と共に行っているのです。 地球は、コペルニクス的に動くだけではありません。全く違う、芸術的な運動も絶えず行っています。 より複雑な運動、たとえば、立方体、八面体、十二面体、二十面体等々の立体の線に沿った運動なども行われているのです。 これらの立体は発明されたものではありません。現実そのものですが、ただし意識されないのです。 これらを含むさまざまな立体には、人間に意識されない智の面影が不思議なかたちで存在しています。 皆さんがそうした智を取ってこられるのは、本質的な認識が骨格系に宿っているからなのです。ただ意識を保ったまま骨格系に降りていくことができないのです。 幾何学的認識についての意識は死滅してしまい、幾何学的像として映し出されるだけなのです。人間は幾何学を像として展開しているのです。 人間は実にしっかりとコスモスに組み込まれています。 そして、幾何学を構築することによって、自分自身がコスモスで行っていることを写し取るのです。

▲人間を通して生の力が自然界に流れ込んでいく(26~28)


03-26
このように私たちは、一方で私たちをも包括する、絶えず死んでいく世界をのぞき込んでいます。 もう一方では、血液・筋肉系の諸力に入り込んでくるものを見ています。これは絶えず運動し、絶えず激動し、絶えず生成、発生するものであり、完全に萌芽状態で死とは無縁です。 私たちは死のプロセスを抑止します。そして、私たち人間だけがそれを抑止することができ、死の中に生成を持ち込むのです。 もし人間が地上に存在しなかったら、とうに死が地球プロセスに広がり、地球は全体としてものすごい結晶化へと向かったはずでしょう。 しかし、それぞれの結晶は、その姿を止めておくことはできなかったでしょう。 人間進化に必要であるがために、私たちはものすごい結晶化から、個々の結晶を切り離すのです。 しかし、それによって私たちは地球の生命をも活発に保つのです。 つまり私たち人間が地球の生命を活発に保つのであり、地球の営みから人間を取り除くことはできないのです。 悲観論者であるエドゥアルト・フォン・ハルトマンは、いつかは人間全員が自殺するくらいに人類が成熟することを望みましたが、これを本気で考えていました。 ハルトマンは狭い自然科学的世界観を持っていましたから、人間すべてが自殺するだけでは充分とせず、地球自体も大規模な装置で木っ端微塵にすることを望んだのですが、本来、それを付け加える必要はありませんでした。 彼はそこまでする必要はなかったのです。 彼は人類すべての自決の日を決めるだけでよく、そうすれば地球は自ずから徐々に宙に解消したはずなのです。 なぜなら、人間が地球に植え付けるものがなくなれば、地球進化は止まるからです。 この認識から出発して、私たちはこれを感情でも突き詰めなくてはいけません。 現代ではこうしたことがまず理解される必要があります。
03-27
皆さんが覚えていらっしゃるかはわかりませんが、私は最初期の著作で、常にある考えに立ち戻りました。それは、その考えを元に、現在の認識基盤とはまったく違う基盤から認識そのものを構築しようとしたからです。 米英的思考法から来ている外的哲学では、人間は単なる世界の傍観者にすぎません。内面で魂的プロセスを営みつつも、世界の傍観者に過ぎないのです。 人間が存在しなくとも、あるいは外界の出来事を魂内で再体験することがなくても、すべては何の変わりもなくそのままであり続ける、と言うのです。 先ほど述べたように、これは事柄に対する自然科学的な考え方ですが、哲学も同様に考えます。 今日の哲学では、自分が世界の傍観者であることを心地よく感じていますし、つまりそれは認識の死へと向かう要素の中に居るに過ぎません。 私は認識を、この死へと向かう要素から救い出したかったのです。 それゆえ私は、「人間は世界の単なる傍観者ではなく、世界の舞台であり、その上では偉大なる宇宙的な出来事が絶えず演じられている」、と繰り返し言ったのです。 「魂の営みを持つ人間とは、そこで宇宙的出来事が行われる舞台なのだ」と繰り返しました。 このように哲学的・抽象的に表現できるでしょう。 拙著『真理と学問』の最終章では自由について述べていますが、とりわけその部分をお読みになれば、この考えが強調されていることがおわかりになるでしょう。「人間の中で行われることとは、人間以外の自然で行われるものと同じではない。そうではなく、まず自然は人間の中にせり上がり入りこんで来るし、人間内で行われることとは、同時に宇宙的な過程であり、人間の魂とはそこで宇宙的な過程が行われる舞台であり、単に人間のものではない。」と。 当然ながら今日では、一部の人たちはこうした考えをなかなか理解できないでしょう。 しかし、こうした見方を染みこませていなければ、真の教育者になることはできません。
03-28
人間の構成要素では事実として何が起こるのでしょうか? 一方には骨格・神経的本性があり、もう一方には血液・筋肉的本性があります。 この両者の共同作用によって、絶えず素材と諸力が新しく生み出されます。 素材や諸力が人間の中で新たに創造されることで、地球は死滅から守られています。 今私は、血液が神経と接触することで素材と諸力が新たに創造される、と言いました。また以前の講演では、血液は絶えず霊化の過程にあり、それが止められている、とも言いました。ここで、その二つをまとめることができるはずです。 この二回の講演で得られた考えを結びつけ、そこにさらに積み上げていきます。 一般に言われるエネルギーや物質の保存法則が誤りであることは、すでにご理解いただけたと思います。 なぜなら、人間本性内で起きていることがそれを否定していますし、それは人間本性を真に捉える障害にしかなりません。 無からは何も生じ得ませんが、何かが消えることで何かが生じる、という変容可能性を含めた総合的な考え方を取り、エネルギーや物質の保存法則を捨てるなら、学問の発展にふさわしい条件が得られるのです。

▲結末(29)


03-29
私たちの思考において、何が間違った方向に行ってしまっているかが、お分かりでしょう。 たとえばエネルギーと物質の保存法則といったものを打ち立て、これを宇宙法則と宣言しています。 この根底には、表象、というよりは魂の営みそのものが持つある種の性癖があります。 本来でしたら、表象内で作り上げたものを元に、前提となるものを確立するのが望ましいにもかかわらずです。 たとえば物理学の教科書には物体の相互不可入性の法則が公理として定立されています。 「空間内において、ある物体が占有する場に同時に他の物体が存在することはできない」と。 …これが物体の一般的性質として設定されているのです。 しかし本来はこう言う方が望ましいでしょう。 「空間でそれが占有する場に、同時に、同じ性質を持つものが存在しえない物体ないし存在は、相互不可入性を有する」と。 …ある特定の領域を他の領域と区別するためだけに概念を用いる方がよいでしょうし、定義付けは避け、単に前提となる事柄だけを置くだけにする方がよいでしょう。定義は、普遍的なものとして安易に適応範囲を拡張させてしまいがちです。 ですから、エネルギーと物質の保存則といった法則を立てるのは望ましくなく、どのような存在に対してこの法則が意味を持つのかを探求するのがよいのです。 一つの法則を打ち立て、「これはすべてに妥当する」と言うのがまさに十九世紀的な努力でした。…本来なら、物に近づくために、そこでの私たちの体験を観察するために、私たちの魂の活動を用いるべきなのです。

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