2014年12月1日月曜日

『一般人間学』、第14講、シュツットガルト、1919年9月5日


目次

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■人間の身体形態の三層構造(01~09)

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▲身体の二つの形成原則(01)

14-01 真の意味での教育芸術を形り上げるべく人間を観てまいりましたが、そこで分かったのは、人間が、身体を含むさまざまな点において三層構造であることでした。 私たちは次の三つを明確に区別しなくてはいけません。つまり、頭部形成や頭部形態に関係するもの、胸部形成や胴部形成に関係するもの、そして四肢形成に関係するものです。ただし、四肢形成が普通に思われているよりははるかに複雑なことは、念頭に置かなくてはなりません。また、すでに見てきた通り、四肢に込められたものとは、本来、外から内に形成されていて、人間の内側に続くものだからです。ですから、人間の内から外に形成されるものと、外から内に、人間の身体に差し込まれるように形成されるものとを区別してきました。

▲頭部系(02~04)

14-02 人間身体の三層構造に注目しますと、人間の頭部が、諸動物の上に立つ、完全に人間化されたものであることが非常にはっきりと分かります。 14-03 頭部には、本来の意味での頭部があります。 頭部には胴部もあります。つまり鼻に関係する部分です。 さらに頭部には四肢部分もあり、これが体腔へとつながっています。これは口に関連するすべての部分です。 このように人間の頭部には、人間身体全体に見られるものがすべてあります。 ただ頭部における胸部は萎縮しています。 あまりに萎縮しているので、鼻に属するものが肺に関連することは、明確には認識できません。 しかし、鼻に属するものは、実際に肺に関係しています。 鼻とは、いわばメタモルフォーゼした肺なのです。 それゆえ鼻は、呼吸過程をより物質的な方向に変形しています。 もし鼻は肺より霊的と思われているなら、それは間違いです。 肺はより精巧に作られています。 肺は鼻よりも霊的、少なくとも魂的なのです。 事柄を現実的に捉えますと、鼻はあつかましくも顔の中央で外に張り出しています。それに対し肺は、鼻よりもずっと魂的であるにもかかわらず、ずっと慎ましく隠れています。 14-04 頭部における、消化や栄養摂取に属する代謝系、また人間の内へと続く四肢的な諸力とは、口に関連する器官です。口が栄養摂取や四肢系に関係することは紛れもない事実です。 このように頭部には人間全体がありますが、頭部的でないものは小さ目です。 頭部には胸部や下腹部的なものもありますが、それらは萎縮しています。

▲四肢系(05~06)

14-05 この対極にある四肢を観ますと、そこに目に見える形で存在するもの、目に見えて形成されたものは、本質的には上下の両顎が変形したものです。 口の上下を囲んでいるものとは、萎縮してはいますが、もともとは脚、足、腕、手なのです。 ただし、事柄を正しく秩序立てて考えなくてはいけません。 腕と手が上顎で、脚と足が下顎だと考えるなら、この上下の顎に相当するものはどちらを向いているのか、と問わなくてはならないはずです。 これはどちらを噛むのでしょうか。 口はどちら側なのでしょうか。 … すると、胴体に対する上腕の付着部と大腿部の付着部が口に当たる、と答えざるをえません。 (描きながら)これが人間の胴体だとしますと、外側のどこかに本来の頭部があると考えなくてはなりません。そして、この頭部が持つ口は上へも下へも開いています。ですから、この不可視な頭部の持つ奇妙な傾向をイメージできるかもしれません。つまり、その顎を皆さんの胸部と腹部に向かって開いているのです。

▲霊への献身の犠牲(06)


14-06 この不可視な頭部は何をするのでしょうか。 この頭は、その口を皆さんに向けて開き、絶えず皆さんを食べているのです。 この目に見える形態の中に、実相の一つのすばらしい像を見ることができます。 人間の本当の頭は肉体的・物質的な頭ですが、四肢に属する頭はその反対で、霊的な頭です。 しかしこの頭部は、ほんの一部だけが物質化していて、それによって人間を絶えず食い尽くすことができるようになっているのです。 そして死に当たって、この頭部が人間を完全に食い尽くします。 四肢が絶えず私たちを食い尽くそうとするのは、本当にすばらしいプロセスです。 霊性は開いた口を持っていて、私たちはその中に生体を絶えず入り込ませています。 霊的なものは、絶えず私たちの献身という犠牲を要求しています。 そして私たちの肉体形姿にも、この私たちの献身という犠牲が表現されています。 四肢と他の身体部分との関係に、この霊性への献身という犠牲が表現されていることを見ないなら、人間の形姿を理解することはできません。 そして、対極である頭部本性と四肢本性の中間に当たる胸胴部の本性とは、ある意味ではこの両者のバランスを保つことにある、と言えるでしょう。

▲胸部における上方への形成的傾向(07)

14-07 人間の胸部には、実際、頭部的性質と四肢的性質が同等にあります。 胸部的本性の中で四肢的本性と頭部的本性が相互に混じり合うのです。 胸部には、上に向かうにしたがって頭部になろうとする素地があり、下に行くにしたがって四肢的本性を持とうとする素地があります。つまり、外界に沿って自分を組織化し、外界に適応しつつ、こちらに向かって伸びてくるものに、つまり四肢になろうとする素地があるのです。 胸の上部は絶えず頭部化する傾向を持ち、下部は絶えず四肢になる傾向を持っています。 このように胸の上部は絶えず頭部となろうとしますが、それができないでいます。 あのもう一つの頭部がそうなることを妨げているのです。 それゆえ胸部は、いつでも頭部の似姿を生み出すにとどまっていて、いわば頭部形成の始まり部分だけを行っているのです。 胸部形成の上部分に、頭部形成の兆しをはっきりと認識できるでしょうか。 できます。そこには喉頭があり、これは言語的にも素朴に喉《頭》と呼ばれます。 人間の喉頭は実際、萎縮した頭部であり、完全な頭部にはなり切れず、その頭部的本性を言語の中で発揮しているのです。 言語とは、喉頭が絶えず空中で行なっている頭部化の試みなのです。 喉頭が頭部の最上部になろうと試みますと、人間本性を最も強く保った音が現れます。 喉頭が鼻になろうと試みても、実際に存在する鼻がこれを妨げますので、鼻にはなることができません。 しかし喉頭は、鼻になろうとする試みを鼻音の形で空中に生み出します。 生まれ出ようとする空気の鼻を現実の鼻が堰き止め、鼻音が生じます。 人間は話すことで、空気中で頭部の一部を生み出そうと試み、この頭部の一部が波状の運動となって先に伝わり、肉体として形成された頭部によって堰き止められているのです。そしてこれには深い意味があります。 これこそが、まさに人間の言語なのです。

▲言語の骨格系としての文法(08)

14-08 交歯が始まる7歳頃には頭部が肉体的にある程度完成しますが、それと並行して咽頭が生み出す魂的な頭部(言語)に一種の骨格系が入り込むとしても、そんなに不思議ではないでしょう。 これは、魂的な意味だけを持つ骨格系であるはずです。 単に模倣を介して言語を育てるのではなく、文法を介して育てますと、この骨格を育てることができます。 親愛なる皆さん、小学校入学と共に、永久歯を作るための肉体的活動に類する魂的活動を行わせるべきだ、という意識を持とうではないですか。 文法を理性的なやり方で導入しますと、言語の育成を、魂的な意味においてだけですが、確実なものにできます。この文法とは、まさに口語から読み書きへと作用するものなのです。 人間が形成する単語には、実際、頭部になろうとする傾向がある、と知れば、話し言葉に対して正しい感性が得られるでしょう。

▲胸部における下方への形成的傾向(09)

14-09 さて胸部は上に向かって頭になる傾向がありますが、それと同様に、下に向かっては四肢になる傾向があります。 より繊細な頭部、まだ空気的な状態にとどまっている頭部である言語が喉頭から生まれてくるのと同じように、胸から下に向かって出発し、四肢に向かって組織化されたものは、粗雑化した四肢の本性を持っています。 密になり、粗雑化した四肢の本性とは、外界が人間内に押し込んだものです。 手足、腕や脚が外に向かって出て行く、というのではなく、粗大化し人間のより内に押し込まれていることの神秘を、いつの日か自然科学が解明したなら、性の謎が明らかになるでしょう。 そうなったときに初めて、こうした事柄を正しく語れるのです。 性的な事柄をどのように啓蒙していくべきか、といった今日の論議が、どれも的外れなのも不思議ではありません。 なぜなら、自分が理解していないことを、人には説明できないからです。 私は今、ここで四肢を胴体との関係でおおまかに性格づけましたが、現代の学問はこれをまったく理解していません。 七歳以前に歯の本性の中に入り込んできたものが、小学校低学年では、いわば魂的に入り込んできました。また、性的成熟後になってはじめて、四肢の本性に由来するものが完全な形で現れて来ますが、小学校高学年では、それが子どもの魂に入り込んで来ます。

■教師のための三つの《定言的命令》(10~19)

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▲授業の中で子どものファンタジーを刺激すること(10~12)

14-10 小学校低学年で、読み書きを覚える能力、つまり魂的な歯とも言うべきものが生じますが、それと同様に、小学校卒業の十二歳から十五歳くらいには、魂でのファンタジー活動や内的な熱に満たされたものが発達してきます。 この時期には、魂的諸能力の中でも特に、内的魂的な愛が完全に浸透しているもの、つまりファンタジーの力が現れ出て来ます。 ですから小学校高学年の授業では、特にこのファンタジーの力に訴えかける必要があります。 小学校入学の七歳児に読み書きを教え込んで、知育を無理強いするのもひどいですが、これから現れて来る判断力…判断力は十二歳頃からゆっくりと伸びてきます…その判断力の中に、ファンタジーを送り込み続けるのを怠るよりはまだましでしょう。 この年代に学ぶべきすべての事柄を、子どものファンタジーを刺激しつつ教えなくてはいけません。そうしたやり方で歴史や地理の授業をしなくてはならないのです。 14-11 たとえば、次のように語りかければ、子どものファンタジーにアピールすることができます。「レンズを知っているよね、光を集める凸レンズだ。それと同じようなレンズが君の眼の中にもあるんだ。」 「外の物を写し取るカメラを知っているね。君の眼はそういうカメラなんだ。」 …外の世界が感覚器官を通して身体に組み込まれる様子を示すときにも、子どものファンタジーの力にアピールするのです。 なぜなら、身体に組み込まれたものを身体から取り出してしまったら、外的な死んだ姿しか見られません。生きた身体ではそれを見ることができないからです。 14-12 同じように、幾何学、さらには代数までをも含めたすべての授業で、ファンタジーに訴えなくてはなりません。 実践としての教授法の講習でも試みましたが、平面を単に悟性的に理解させるだけでなく、平面の本性を真に把握できるようにファンタジーにアピールし、幾何学や代数の中でもファンタジーを応用しなければいけないようにするのです。 ですから私は、どうしてピタゴラスの定理をこんな風に説明するのを誰も思いつかないのかが不思議だと言ったのです。 三人の子どもがいるとします。 一人はこの一つの正方形を覆うだけの塵を吹きかけなければならず、もう一人は二つ目の正方形、三人目は小さな正方形を覆うだけの塵を吹きかけるとします。 そして、次のように言いますと、子どものファンタジーを助けることになります。 この大きな面を覆うために必要な塵は、一番小さい面と少し大きい面とを覆うに必要な塵を合わせたものと同じだけの量になります、と。 これは数学的に厳密だとは言えませんが、ファンタジー豊かにイメージを作ることで、吹き飛ばされる塵に子どもの理解力を向けさせることができます。 子どもはファンタジーと共に平面をたどっていくのです。 塵をきちんと正方形に飛ばすことで…これはもちろん現実に行うことはできませんから、ファンタジーを奮い起こさなくてはなりません…、子どもはピタゴラスの定理をファンタジーと共に理解するでしょう。

▲《おまえのファンタジーを生き生きと保て》(13~15)

14-13 教師が生徒に伝える事柄が子どもの内にファンタジーを生みますから、特にこの年代の子どもでは、それを刺激しつつ育てることに絶えず配慮しなくてはなりません。 教師は教材を自分の内で生き生きとしたものに保ち、教材をファンタジーで満たさなくてはいけません。 そのためには、感情豊かな意志で教材を満たす以外には方法はありません。 これはしばしば、何年か後にも不思議な作用を見せます。 小学校高学年では、さらに密にしなければならない、特別に重要なことがあります。それは、教師と生徒が共に生きることであり、両者の営みが完全に調和していることです。 それゆえ、教材すべてを絶えずファンタジー豊かに作り上げ、絶えず新しく教材を練り上げなければ、よき小学校教師にはなれないのです。 一度ファンタジー豊かに作り上げたとしても、何年後かにそれを再現しますと、凍り付いた理屈になってしまうのが現実だからです。 ファンタジーは、絶えず生き生きと保たれていなくてはなりませんし、そうでないと凍り付いた理屈になってしまいます。 14-14 これは、教師自身がどうあるべきか、に光を投げかけてくれます。 教師は、生活のいかなる瞬間にも腐ってはいけません。 命が豊かに展開するなら、互いに決して相容れない概念があります。それは教師という職業と教条主義です。 教諭職と教条主義が実際に一緒になりますと、これは生の営みの中で生じうる最悪の禍になるでしょう。 皆さん、私はこのようなことはありえないと思っています。 人生において教諭職と教条主義が一体になる、などという馬鹿げたことが認められることは! 14-15 ご覧の通り、授業をすることには、内的倫理や内的義務があります。 教師には、真の職業的定言命令があります。 そして、この教師にとっての職業的定言命令とは、 お前のファンタジーを生き生きと保て、です。 そして、もし自分が教条的に陥っていると感じたら、こう言いなさい。 「教条主義とは、普通の人にとってはそれを嫌うだけだが、私にとっては反道徳的で最悪の事柄だ」、と。 教師たる者はこれを信条としなければなりません。 ですから皆さん、これを教師の信条にできないのなら、教職のために身につけた技能を、徐々に別な職業に転用する道を探した方がよいでしょう。 もちろんこうしたことは、実践では完全に理想的に行い切ることはできませんが、それでも理想は知っていなくてはなりません。

▲内的な熱(16~17)

14-16 しかし、前にも述べた基礎がきちんと染み込んでいませんと、この教育上の倫理を真の情熱を持って受け入れることができません。 つまり、「頭部はそれ自体で人間全体であり、ただそこでは四肢と胸部は萎縮しているにすぎない。四肢も人間全体であるがそこでの頭部は全く萎縮してしまっている。さらに、胸部では頭部と四肢が均衡を保っている。」という認識です。 この基礎を応用しますと、これが源泉となり、皆さんの教育的モラルが、必要とされる情熱と感動で満たされるのです。 14-17 人間が知的に築き上げたものには、怠惰で無為に堕ちる傾向があります。 物質主義的な考え方ばかりを身につけていますと、怠惰の極みにまで堕ちます。 しかし、霊性から得られたイメージで養われますと、飛翔の翼が与えられます。 魂は、こうした霊性からのイメージを、ファンタジーという廻り道を通ってのみ、受け取ることができるのです。

▲《真実への勇気! 魂的な責任感!》(18~19)

14-18 十九世紀後半には、授業をファンタジーで満たすことに何と多くの抵抗があったことでしょう。 十九世紀前半には、たとえばシェリングのように、教育も健全に考えていた輝かしい人物か居ました。 学問的研究方法についての、シェリングの示唆に富む素晴らしい文をお読みになってください。…小学校用ではなく上級学校用のものですが…そこには、十九世紀前半の教育精神が息づいています。 十九世紀後半になりますと、この精神は大々的ではないにしろ、中傷を受けました。 ファンタジーという廻り道で魂に入り込まんとするものすべてが、当時、馬鹿にされたのです。 わずかでもファンタジーに取り付かれると、真理から見放される、と人々が思い込み、魂の営みにおいて臆病になってしまったのがその理由です。 自立すること、思考の中で自由であること、さらに不真実ではなく真実と婚姻を結ぶこと、それをする勇気がなかったのです。 思考の中で自由に動き回ると、すぐに真実から逸れてしまう、と人々は信じ、それゆえ自由な思考を恐れてしまいました。 したがって、私が今申し上げたこと、教材をファンタジーで満たすことに加えて、教師は真実への勇気を持たなくてはなりません。 真理へのこの勇気なしには、特に上級学年生の授業では、十分ではないのです。 真理への勇気を育てる場合には、もう一つ、真理への強い責任感情が加わらなくてはなりません。 14-19 「ファンタジーの希求」と「真理感覚」と「責任感情」とは教育の根幹をなす三つの力です。 そして教育を引き受けようとする者は、その教育に対し次の言葉をモットーとして掲げてください。
  • 自らをファンタジーの能力で満たせ、
  • 真理への勇気を持て、
  • 魂的責任への感情を磨け。

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