2015年2月1日日曜日

『一般人間学』レーバー要約、第01講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 基礎づけ:霊界とのつながりは新たな教育の前提条件(1~2)

▲《主知的・感情的とモラル的・霊的》-物質主義と霊学(1)

開校に当たっての祝祭的な言葉の後シュタイナーがまず語ったのは、これから成されようとしていることが、どれほど偉大な関連の中にあるのか、ということだった。そこでの課題は、単に《主知的・感情的》なものではなく、最高度の意味で《モラル的・霊的》なものである。つまり、共に活動している人間が単に物質界に生き、働いていると理解するのではなく、霊的諸力からの委託を受けた人々であると理解することを意味している。イマギナチオーン的、インスピラチオーン的、イントゥイチオーン的に個々人の背後に居るとされる霊的諸力とのつながりをつくる。(このあとシュタイナーは教師のためのマントラを与えた。シュタイナーの意向により、記載はされず、口伝されてきた。)

▲《世界秩序の祝祭的行為》(2)

学校設立とは《世界秩序の祝祭的行為》と見なされなくてはならない。これもまた善き霊がエミール・モルト氏に学校設立という考えを抱くようにすることで、霊的世界で準備された。ルドルフ・シュタイナーの謝辞はこの導きの時代霊に対して向けられていた。

■ 第五文化期の教育課題:物質主義とエゴイズムの克服(3~9)

▲時代の状況と時代からの要求(3~6)

序曲の後、教育的課題について検討される。そうした課題とは時代毎に異なっている。そして、現在の課題もしだいに意識の前に明らかになっている。意識魂の時代、第五文化期での課題は、それ以前の文化期の課題とは違うのである。未だに、過去のものが支配的ではあるにせよ。新たに必要とされる事柄に対して物質主義は目を曇らせる。その結果として、シュタイナー学校に通おうとする生徒であっても、間違った教育をすでに受けてしまっているのである。こうした場合、初めからバランスを取ること、改善することが問題になる。この目標に向かって、未来の教師は全員この新たな教育的課題と意識を持って取り組まなくてはならない。

▲現代の底流であるエゴイズム(7~8)

現代文化は精神生活に至るまでエゴイズムを基礎に築き上げられている。そのエゴイズムの一つとして、死後も自我を保ち続けようとする人間的衝動がある。宗教において人間の不死性ばかり偏って見ていて、誕生前のことを無視するとき、まさにこれは人間のエゴイズムにアピールしていることになる。生活のあらゆる部分でこうしたアピールと闘っていかなくてはならない。なぜなら、それは人類を後退させるものだからである。それができるのは、人間の誕生前に目を向けるときである。人間は誕生前に長い間、成長発達している。その結果、霊的な世界で〈死に〉別な存在形式を持たなくてはならない、という衝動を持つ地点にまで至る。つまり、さらにエーテル体と肉体を纏おうとする衝動である。このように、地上的人生とは、人間がそこから由来する霊的な営みの継続なのである。したがってこの地上での教育とは、誕生前に霊的存在が行っていたことの継続なのである。このように洞察することで、教育者に正しい雰囲気が生まれる。

▲誕生前教育?(9)

誕生前教育という問題は抽象的で何も掴むことができない。具体的に考えると、誕生前の人間はより高次の存在たちの庇護の元にあった。妊娠中の母親がモラル的にそして知的に《正しく》生活していると、そのこと自体が胎児に働きかける。教育は誕生後に始まる。つまり、産声と共に地上的世界の秩序の中に入ってきたときに、始まるのである。

■ 霊・魂と身体の結びつきとしての誕生(10~12)

▲霊・魂と身体との結合(10~12)

霊界から物質界に移るにあたって二組の三体が統合しなくてはならない。つまり:霊人、生命霊、霊我の側と意識魂、悟性・感情魂、知覚魂(感受魂)の側である。

誕生前の人間とはこのように形成された霊魂である。そして、生活の場である高次の領域から地上的存在へと向かって来る。そして、この霊魂は、地上でさらなる三体つまりアストラル体、エーテル体、肉体からなる身体と出会う。これらの霊・魂・体ははじめ母体内にあり、やがて物質界に生まれ鉱物、植物、動物の三界と結びつく。はじめはきちんと結びついていない霊魂と身体を調和させることが教育の課題になる。

■ 二つの教育的課題:呼吸を教えることと睡眠を教えること(13~18)

▲呼吸、および人間と外界の関係(13)

その課題をより具体的に言えば、外界との正しい関係を作り出すことであり、その中で最も重要なのが呼吸である。母体内での呼吸はまだ準備段階で、それは誕生と共に始まり、ただちに三層構造的人間全体とかかわる。

▲呼吸と代謝作用(14)

血液循環と呼吸は外界から取り込まれた物質を身体全体に運ぶ。つまり、呼吸は代謝系とも関係している。

▲呼吸と神経感覚系の営み(15)

一方で呼吸は神経感覚系とも密接に関連している。つまり、吸気では脳水が圧迫され、呼気では下に下がる。そのため、呼吸は人間と外界を仲介している。それでも、呼吸と神経感覚系の調和を作ることはその先の課題である。

▲呼吸の営みと発達(16)

子どもはまだ、神経感覚系の営みを維持していくような形で呼吸することはできない。別な言い方をすれば、呼吸と神経感覚系がきちんと調和したときに初めて、霊魂は子どもの地上的営みの中に入り込んでくることができるのである。したがって、教育の課題とは子どもが正しく呼吸できるように教えることなのである。

▲睡眠と覚醒の交代(17)

具体的課題の二つ目は睡眠と覚醒の交代と関係している。外的に見れば子どもはほぼすべての時間眠っている。しかし睡眠と覚醒の内側にあるものはまだきちんとできていません。つまり、地上界で体験した事柄を霊的世界に持ち込むことができない。大人の場合は地上での体験を霊界に持ち込むとそこでそれが変容され、さらにその結果が再び地上に持ち込まれる。私たちは子どものために霊界から何かを持ってきてやることはできない。地上界での体験を霊界に持ち込んでいかれるように助けてやることしかできない。そうしたときに初めて、霊界から力が流れ込んでくるのである。

▲呼吸と眠りについてのまとめ(18)

正しい呼吸を教えること、睡眠と覚醒の正しい交代を教えることが最も重要な課題である。教育者、授業者として行うことすべてについて、それが霊魂と身体の結びつきを促すものか抑えるものかを意識していなくてはならない。

■ 教師の自己教育(19)

▲教師の自己教育(19)

教師は、行ったことを通して子どもに働きかけるだけではなく、それよりはむしろ、彼がどんな人間であるかによって働きかける。つまり、人間性が問題なのであって、教育的手法に長けているか否かがそれ以上に重要なのではない。どのような人間もそうであるが、教師のあり方を決める主要因は、どのような考え方を育て、身につけているか、なのである。呼吸とか、睡眠覚醒の交代といった宇宙的な関連を考えている人はそうでない人とは違ってくる。なぜなら、そうした考えを持っていると、容易に陥りやすい単なる個人的霊性を抑えることができるからである。

こうした個人的霊性が解消したときにはじめて、生徒と教師の正しい関係が作り出される。経験的には、悪ふざけをしたり教師を笑いものにしたりなど、〈正しい関係〉と矛盾することがたくさんあるが、そんなものは気にかける必要はない。教師は、こうした抵抗にめげずに、生徒との望むべき関係を作り出さなくてはならない。そしてこれは、教師が自分自身の側から行うことによって成し遂げられる。自分自身をどのような種類の考えで満たしているか、と授業中に子どもの身体と魂で起こるべきことの関係を認識すると、霊魂と身体の正しい結びつきをもたらすように働きかけるようになる。
この第一講は大切な基本モチーフが現れる一種の序曲となっている。本来の意味での教育的人間学は次の講演から始まり、発展していく。

『一般人間学』レーバー要約、第02講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 新たな心理学の必要性(1)

▲新たな心理学の必要性(1)

最初の大きな課題は、未来の教育の礎となる現実的な心理学を新たに基礎づけることである。なぜなら、意識魂の時代に入った現在において人間の魂を真に捉えられていないからである。伝統的な心理学の概念には内容がない。たとえば、表象や意志についての正しい概念を持っていない。その理由の一つは、人間を宇宙的な関連の元で見ていないからである。この関連を認識して初めて《人間本性そのものの理念》が得られる。

■ 表象と意志(2~6)

▲表象の特徴は像的であること…誕生前の鏡像(2~4)

表象の最も中心になる特徴は、それが像的であることである。たとえば私たちは、鼻や胃といった存在要素を持ち、それを自分のものと感じている。表象的把握では、対象と一体となるのではなく、まさに対象と距離を置くことでそれを捉えている。その意味でデカルトの「我思うゆえに我あり」つまり、認識が存在の証明になる、という発言は誤りである。

思考的活動もさまざまな像の動きである。表象によって空間内の物体の像が写し出される。それと同様に、表象には誕生前の体験が写し出される。誕生前から絶え間なく流れ込んでくる体験が人間の身体性にはじき返される。それゆえ、表象は誕生前に人間が存在したことの証明である。

▲意志の萌芽的性格ー死後を指し示すもの(5)

意志とは認識の終着点である。なぜなら、それ自身は何の内容も持っていないからである。(意志に内容を意識することはあっても、その内容は表象から来ている)。それは私にとっては萌芽として存在していて、死後に私たちの中で霊的・魂的現実になる。

▲表象と意志のまとめ(6)

表象と意志の対極性がまとめられている。像(表象)とは現実以下のものであり、萌芽とは現実以上のものである。そこには後に現実となるものの素地が含まれているのだから。ショーペンハウアーは意志の霊的性質を予感はしていた。

■ 魂の営みの対極性:意識されない反感と共感(7~15)

▲反感と共感ー魂界の鏡(7~9)

像的な表象と萌芽的な意志の間に、物質界の現在を生きる人間がいる。誕生前のものを跳ね返すことで像を作り出し、意志は完全に展開させず、萌芽にとどめている。こうしたことはどのようにて起きているのか?

魂界には反感と共感の働きがあり、そこから人間には意識されない反感と共感の力が働いている。私たちは地上界に降りてくるが、それによって霊的なものすべてに対して反感を発達させる。その反感によって誕生前のリアルを表象像にまで変容させる。意志活動は死後まで突き抜けていくが、これと私たちとを結びつけるのが共感である。この二つの力は意識されないし、またこの両者の交互作用が感情の原因である。

▲反感(10)

反感の中で人間は命や誕生前の世界すべてを跳ね返す。この成り行きには認識の特徴がある。認識は誕生前には密度の高い現実として存在している。そしてそれが反感と出会うと像にまで弱められる。今日肉体的な人間として私たちが表象をする際の力は誕生前からの余韻である。

▲反感の段階(11~12)

反感が強められると記憶像、記憶が生じる。つまり、人間は表象に対して一種の吐き気を催し、それを押し返し、それによってそこに現れさせる。像的表象、記憶への跳ね返し、像的なものの保持、というプロセスが行き着くところが概念である。

▲共感(13~15)

表象では反感が必要であるのに対し、死後の萌芽である意志では共感が必要である。その共感が高まるとファンタジーが生じる。これが人間全体に浸透して感覚にまで至ると日常的な意味でのイマジネーション、つまり知覚像的イマジネーションが生じる。抽象によって表象するのではない。たとえばチョークを見て《白》の知覚が生じるのは、意志の力、つまりファンタジーからイマジネーションへと至る共感的力をつかっているのである。一方、概念は記憶に由来する。

共感、反感との関連で上述の区別をしたときにはじめて、人間の魂を捉えることができる。死後の魂界ではこの両者があからさまに現れる。

■ 魂と身体形成とのつながり(16~20)

▲神経系(16)

人間の魂的様子は身体にも現れる。誕生前の魂的なものは反感、記憶、概念を経て人間身体にまで至り、そこで神経組織を形成する。また、知覚神経と運動神経の区別は「無意味」である。

▲血液(17)

意志、共感、ファンタジー、イマジネーションは萌芽的なものに留まる。生じるそばから消滅していく。人間の身体においても、物質的にできあがってもただちに霊的状態に移行しようとするものがある。これは利己的な愛によってどうにか物質性を保つが、最後には破壊される。これは血液である。

▲「血はまったく特別な液体だ」(18)

血液には霊的なものへと舞い上がろうとする傾向がある。死に至るまで血液を体内に留めておくためには、絶え間ざる消滅と新生が必要である。その役割は吸気と呼気が担っている。

▲神経と血液の対極性(19)

つまり、私たちの内には両極のプロセスがある。血流に沿ってのプロセスは私たちの存在を霊化しようとし、(運動神経と言われているものは本来は血液の流れである)神経に沿っては、物質化しようとする。神経経路に沿って物質が分泌、排泄される。

▲神経を理解することの教育的な意味(20)

この基本原理を考慮すると、子どもを身体的にも魂的にも健康に教育することができる、つまり衛生的な授業ができる。(このテーマは後の講演でさらに検討される)。誤った教育がはびこっているのは、人間本性を認識できていないからである。例を挙げれば、感覚神経と運動神経の区別する認識は間違っている。特定の神経が傷つくと歩けなくなるといのは、《運動》神経が麻痺するからではなく、自分自身の脚を知覚できなくなっているからである。

■ 人間と宇宙の関連…身体におけるその三重の現れ(21~28)

▲共感と反感の身体における現れ(21~22)

人間本性は宇宙的なものとの関連を考えて初めて理解されうる。表象では宇宙的なものが誕生前から、意志では死後から働きかけている。私たちの中で無意識に広がっているものは、宇宙における高次の認識では非常に意識化されている。

共感と反感は体においては三重に表れている。つまり、神経活動が中断され飛躍があるところに三つの炉がある。頭部神経、脊髄、自律神経系の神経叢である。感覚神経から運動神経に受け渡されるのではなく、ある神経から別な神経に直線的に伝わっていく際に跳躍がある。それによって私たちは魂的に動かされるのである。

▲頭部と四肢の対極性(23~25)

経験は私たちと宇宙を結びつけていて、行為は宇宙においても終わることなく継続する。逆に私たち自身は宇宙の共感と反感が展開した結果である。

私たちの身体は頭部、胸部、四肢というように分節化している。それでもこの3つの系は厳密な境界で分断されてはおらず、むしろ徐々に移行している。頭部は主たる頭部であり、他にも《二次的頭部》がある。胸部、腹部系についても同様なことが言える。たとえば、脳にいても栄養系があり、それが大脳に入り込んでいる。脳外皮(浅灰白層)は退化した栄養器官である。私たちの脳が動物より優秀なのは、栄養供給が動物の脳より優れているからである。認識そのものは脳によるのではなく、脳では単に認識が身体的に現れるのである。

四肢を含む下半身と頭部が対極をなしている。頭部系は宇宙からはき出されたものであり、頭部は宇宙からの反感によって形成されている。人間が内に持つものに対し宇宙が吐き気を催し、吐きだしたものが頭部である。頭部は宇宙の写しであり、自由にかかわる器官である。それに対し生殖器官を含む四肢は宇宙に組み込まれている。宇宙は四肢に対して共感を持っている。宇宙の反感と私たちの反感が共に働くことで感覚知覚が生じる。四肢系のあらゆる内的な営みは、宇宙が愛と共に私たちの四肢を揺らすことに拠っている。

▲教育に対する帰結(26~28)

意志と表象が対極として向かい合っているということは、教育にも関係する。表象形成の方だけに偏って働きかけると、人間全体を誕生前のものに向かわせることになり、意志がすでに役割を終えたものだけにかかわることになる。抽象的な概念ではなく、子どもに像を与えることでこうした偏りを和らげることができる。それはファンタジー、イマジネーション、共感から出てくる。抽象化は炭酸形成を促し、身体を固くする。像は酸素を保持させ、生成へとつながる。なぜなら、それによって子どもは絶えず未来に、死後に向けられるからである。…私たちは像によって教育することで誕生前の活動を受け継ぐし、その像は身体を活動させることで萌芽となりえるのである。つまり、像によって私たちは全人に働きかけている。

こうした考えを自らの感情に受け入れることで、教育において不可欠な神聖さがえられる。

一方に認識、反感、記憶、概念、もう一方に意志、共感、ファンタジー、イマジネーションがあり、この両方の概念系列を知ることは教育実践に非常に有効である。

『一般人間学』レーバー要約、第03講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 教師の意識と人類の至上の理念との関係(1)

▲教師の意識と人類の至上の理念との関係(1)

教師は、外には宇宙法則を、自らの魂内にはー特に低学年の教師はー人類の至上の理念との関連を、包括的に観ることができなくてはいけない。低学年の先生が高学年の先生よりも低く観られる、というのは学校にとって癌のようなものである。将来に至っては、すべての教師がその霊的素地において同じ価値と尊厳を持たなくてはいけない。すべての教師は、直接に生徒に教えるというのではないにしろ、背景に偉大な智を持っていなくてはならず、授業はそこから湧き上がってくるのである。

■ 人間を理解する上での二つの根本的障害:二元論とエネルギー保存の法則(2~6)

▲心理学が不完全である理由(2~3)

心理学的認識においては、869年のカトリック公会議の影響がいまだに残っている。このドグマによって、それ以前にあった人間の三分節(霊、魂、体)から二分節(魂、体)にしてしまった。これを前提にしてしまうと、人間の本性を理解することができなくなる。

▲エネルギー保存則から帰結される阻害(4~5)

人間を理解する上でもう一つ障害になるのが、エネルギー保存則である。つまり、宇宙全体のエネルギー量は一定である、という考え方である。(ユリウス、ロベルト、マイヤーはこの法則を1842年に定式化したが、エネルギー総量が同じである、と述べたのではなく、エネルギーはメタモルフォーゼすると述べていた)。心の人間存在であることの根本には、人間を通して絶えず新しい力が、それどころか新しい素材が作られる、というのである。

▲教師の課題:自然と文化の伝達(6)

生徒を、自然界を理解できるようにしてやることと、精神活動の考え方へと導いてやることが教師の課題である。この両者は、人間が社会的な営みに入って行かれるための条件である。

■ 世界への二通りの道筋と純粋思考の持つ意味(7~14)

▲自然に対する二重の関係―表象の側(7~8)

外的な自然は一方では私たちの表象および思考の側に向かって開かれている。(誕生前の鏡像である像的特徴)。もう一方で自然は私たちの意志の側に向かっても開かれている。(死後の営みに対する萌芽的性格)。こうした二重性から、人間の二層性という誤りが導かれた。―表象によって自然を捉える場合は常に、自然の死んでいく側面だけしか捉えられない。

▲知覚過程における自我ー意志の側(9)

私たちは十二感覚によって外界と結びつくが、これはまずは意志的なもので萌芽的である。プラトンは。人間が観るときには(超感覚的な、つまりエーテル的な)触手が物の方に伸びていくと言っている。頭部における眼の位置からして、動物と人間では世界との関係が異なっていることがわかる。動物とは異なるこうした点において、つまり眼の二本の超感覚的な触手の左右を超感覚的に触れさせることができるために自我、つまり自分自身を知覚できるのである。

感覚知覚にとっては、私たちが意志的に物に対して行う活動が決定的に重要である。高次の感覚に至るまですべての感覚器官は意志的である代謝と結びついている。

▲「なっていくこと」と「できあがっていること」(10~12)

最初に挙げられた自然との二重の関係がもう一度特徴づけられ、要約される。人間は悟性によって死んだ物を捉え、それを自然法則として定式化する。感覚器官にまで達して働いている意志によって人間は死を克服しうるもの、世界の未来となりうるものへと持ち上げる。このように述べてからシュタイナーは自然との生き生きとした関係を、光と色との関係を例にしながら、根本から述べ、誕生前と死後を新しい形で結びつけている。自然界では絶えず死に向かう方向と生成へと向かう方向が結びついている。

▲認識における、感覚に依拠しない純粋な思考(13~14)

もし人間が、ここに挙げた二つの力しか自らの内に呼び起こすことができなかったとしたら、人間は決して自由ではありえないだろう。悟性の側だけに結びついているとしたら、死んだものとした結びつかず、自分自身においても死んだ部分としか結びつかず、死んだもの、死していくものを自由にしようとするだけだろう。また意志の側だけであれば、人間はぼんやりとしてしまい単なる自然存在でしかなくなるだろう。ーこの対極的なもののなかに第三のもの、人間が誕生から死までの間担っているもの、つまり感覚に依拠しない純粋思考、そこで絶えず意志が働いている思考が加わる。この思考によって人間は自律的な存在となる。

■ 自然に対する人間の意味(15~21)

▲進化に対する人間の意味(15~17)

近代の学問では、自然現象の中での生成の流れと新生成の流れを分けて考えておくことができない。この分離ができるようになるためには、次の問いが現実に即したかたちで答えられなくてはならない。つまり、「もし人間が地球にいなかったら、自然はどのようになっていただろうか」という問いである。自然科学的な見地からは、その学問が前提としていることからの当然の帰結として、「耕作や科学技術によって変形を受ける前の自然が、人間だけがいない状態で鉱物界、植物界、動物界として成り立っていた、と考える。

霊学の観点からは逆の答が導かれる。進化において人間が存在しなかったとするなら、地球の自然界はまったく違った形で存在していただろう。

・・・とりわけ高等動物は、人間がさらに進化するために言わば沈殿物のように排泄されることで生じた。

・・・人間がいなかったとしたら、下等動物だけでなく、植物界、鉱物界もとうの昔に硬化し、生成発展の余地はなかっただろう。

▲地球の形成力にとっての人間死体の意味ー若さを保たせる働き(17~21)

火葬であれ土葬であれ、人間の死体は絶えず地球に還っていくし、それによってリアルなプロセスが働く。死体によって進化を支える力が補われる。それはちょうど酵母がなければパンが膨らまないのと同じようにである。死体の力が働いているので、今日もなお鉱物は結晶化できるし、植物や下等動物が成長できるのである。人間の死体は地球進化の酵素なのである。死によって人間は自然プロセスの一部になる。

人間死体に地球進化を支える力があるのは、地上生の間、人間の肉体に絶えず霊的・魂的な諸力が入り込むことよって肉体が変容し、死に際しては誕生のときとは違ったものになっているからである。人間は外界から得た素材や誕生時に受け取った諸力を新しいものにし、それらを死に際して変容させたかたちで地上的プロセスに受け渡す。それによって人間は超感覚的なものを絶えず感覚的・物質的なものに伝えている。人間は誕生から死までこの霊的・魂的な「滴」をが受け取り、死ぬと大地に渡す。この滴によって超感覚的な力が地球を絶えず実りあるものにしている。これがなかったとしたら、地球はとうの昔に死んでいただろう。

■ 人間に対する自然の力の働きかけと自然への人間の働きかけ(22~29)

▲死の力による骨と神経の形成(22~23)

自然界の二つの流れ、つまり死と新生は人間の中にどのように続いているだろうか?自然界に強く働いている死の力は人間においては骨格系と神経系にあたるものを与えてくれている。死をもたらす力を変容させずに人間に作用させたら、私たちは骸骨になってしまうだろう。それを弱めることで神経系ができあがる。神経とは絶えず骨になろうとする傾向を持っている。それを妨げているのは神経が血液や筋肉などに属する要素と結びついて変化しているからである。一方に神経・骨格系があり、もう一方に筋肉・血液系があり、その両者を正しく結びつけることは非常に重要である。(クル病では骨がしっかりと死ぬことが妨げられている)。眼では、まさにこの両極の力が正しく共働することで、意志的活動と表象的活動を相互に結びつける可能性が与えられている。

▲骨格系と幾何学(24~25)

昔の人は神経と同様に骨も考えることを知っていた。実際、あらゆる抽象的学問、たとえば幾何学などは、骨格系の能力に拠っている。人間が、具体的な生活の中では決して現れることのない抽象的な三角形を幾何学駅・数学的ファンタジーから作り出せる、というのは背骨が直立していて、平面上でたとえば三角形を動けることに拠っている。

幾何学的図形として固定された動きを人間は大地と共に行っている。地球の動きとはコペルニクスが述べた動きよりはるかに複雑である。たとえば、プラトン立体の直線の動きをしている。

私たちの骨格系の持っている認識を私たちは直接に意識はされないが、幾何学的な像として反映されている。幾何学をすることで、人間自身が宇宙で行っていることを再構成しているのである。

▲人間を通して生の力が自然界に流れ込んでいく(26~28)

死の力の反対側には血液・筋肉系の力がある。これは絶えず動き、変化し、生成し、萌芽的である。人間が居なければ地球上のすべてのプロセスに広がっていってしまうであろう死を人間だけが防ぐことができる。大きな結晶化から個々の結晶を引き離し、それを保たせている。こうして人間は地球の命を活性化し、さらなる発達の可能性を守っている。

自然科学やアメリカ的思考に基づく哲学では人間は宇宙における単なる観客でしかない、つまり宇宙は人間なしでも存続するのである。シュタイナーは、彼の初期の著作である「真理と学問」の中で人間を舞台として捉え、しかも人間的なことが起こる舞台ではなく、宇宙的な事柄が起こる舞台として捉えていることに触れている。こうした考え方をしなければ決して正しい教育者とはなれない。

人間の中の骨格・神経系と血液・筋肉系の共同作用によって絶えず素材や諸力が新しく作られている。そして、それによって地球も死から逃れている。霊的なものに向かっていく血液の新生と保存(第2講)という考え方とここでの考え方の両者を結びつけたものを基礎に考えが展開していく。無からは何も生まれえないが、一方が滅びもう一方が生じるという形で変容する、という《総合的》な考えによって初めて現実の人間を把握できる。

▲結末(29)


表象の営みにおける力によって宇宙法則を明文化する代わりに、私たちは《公準》を作った方がよいだろう。つまり、異なる領域をお互いに分けておくために概念を用いるのである。(これは、物体の相互不可侵性を例に示された)。定義をしそれにユニヴァーサルな有効性を認めることが重要なのではなく、物において観察され体験されることを記述することが大切なのである。

『一般人間学』レーバー要約、第04講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 未来の教育と意志についての認識(1~3)

未来の教育においては、意志の教育と感情の教育に特に重点を置く。そのためには意志についての洞察が必要である。意志について認識すれば、感情の一部も認識できる。つまり、感情とはせき止められた、弱めたれた意志である。-意志は地上生においては決して成就することはない。あらゆる意志の遂行においても必ず死語にも続いていく《残り》が存在する。人生全体を通じて、また幼児期においても、この残りを考慮しなくてはならない。

■ 体、魂、霊という人間本性の全体(4~8)

▲全体展望(4)

全体としてみると、人間は体、魂、霊からなっている。体は遺伝によって生じる。魂は以前の地上生に由来している。また現在の人間では意志はその萌芽だけが存在していて、未来になって初めて発展する。

▲霊的本性(5~7)

現在のところ萌芽として存在しているものの一つを霊我(マナス)と呼べる。昔の人々は、人間において死後にも残る部分をマーネンと呼んだ。ここで複数形を用いているのは正しい。なぜなら、地上では人間は個として単数的に存在しているが(マナス、個人的天使)、死後は複数的である大天使に受け止められるからである。また、生命霊、霊人は人間の中の最高次なものであるが、これは遠い将来に発達する。 この3つの霊的な部分が死後から次の誕生までの間、霊的存在の庇護の元に発達する。人間は地上において発達するだけではなく、死後も発達する。しかし、霊的存在からの臍の緒がついた状態である。

▲魂的本性(8)

今日の段階ですでに意識魂、悟性魂(情緒魂)、感受魂という人間の本来の魂的部分が体の中で生きている。

▲体的本性(8)

そこに体的な構成部分、つまり感受体(アストラル体)、エーテル体、肉体を加えると人間全体になる。

■ 体的諸本性と意志(9~12)

▲肉体と本能(9)

動物の肉体はさまざまな意味で人間とは違った作りになっている。つまり、周囲の世界と叡智に満ちてつながっている。その動物が生きて行くに必要で、その動物に特有な行動様式が動物の身体のフォルムに根付いている。建築物をどのように作り上げたら良いかをがビーバーが身体組織で知っていることが例に挙げられている(人間が同じようなことをするためには、長期に渡る勉強が必要である)。身体のフォルムから来て行動を導く要素を本能と呼ぶことができるし、これは意志の最も低い次元である。動物のフォルムには自然そのものが本能のあり様を記している。

▲エーテル体と欲望(10)

目に見えない形でエーテル体が肉体に浸透し、それを形成しているように、肉体に現れている本能もまた掌握している。それによって本能は、内面化され、ひとまとまりになり、欲望になる。本能はあたかも外側から迫ってくるように見えるのに対し、欲望はより内側からやってくるように見える。

▲感受体と衝動(11)

感受体が欲望を捕らえるとこれはさらに内面化され衝動となり、同時に意識に上ってくる。衝動というのは動物において見られる意志の最高の形である。これは継続的で《特徴的な》魂の性質ではなく、生じては消えていくものである。

■ 魂的本性と意志-動機(12)

人間にも動物と共通な体的なものがあるし、それに伴って同種の意志も持っているが、それが三つの魂領域を内に担う自我においては変容され、動機が生じる。身体では3つの体がはっきりと区別されたが、3つの魂を明確に分けることはできない。それは現在の人間ではそれらが互いに入り込み合っているからである。(ヘルバルトは表象の側を強調し、ヴントは意志の側を強調している)。したがって、「ある人間の動機を知れば、その人間を知ることになる」と言える。しかし、それよりも《奥》に微かに響いているものがあり、それを考慮に入れなくてはならない。

■ 私たちの内なる第二の人間としての霊的本性、ならびに意志(13~18)

▲霊我と願望(13)

動機において微かに響いているものとは、願望である。しかし願望と言っても衝動から発じる願望ではなく、動機から生じた行為を後で振り返ったときの意識に現れるものを意味する。「あれはもっと上手くやれるはず、あるいは違った風にやれたはずだ」と言うときの願望である。行為に対して後悔するのは多くの場合単なるエゴイズムから来ている。つまり、よりよい人間であるために、もっとよくできたはずだ、と考えるのである。願望がエゴイズムではなくなるのは、「次のときにはこれと同じ行為をよりよくやろう」というように向かうときである。このような意味での願望とはすでに霊我に属しているし、この段階から、死後も継続する要素となる。

▲生命霊、意図と私たちの内なる第二の人間(14)

願望がはっきりとした形をとり、行為をより上手く実行するにはどうしたらよいか、という表象を形作ると、生命霊の働きによって意図が生じる。ここでは人間の中の意識されない部分が働いている。つまり第二の人間であり、-それは表象的にではなく意志的に-どのようにしたら未来における行為でよりよくできるか、という明確な像を作り上げる。

▲ドッペルゲンガー。アントロポゾフィーと分析心理学(15~16)

第二の人間については分析心理学でも言っている。第二の無意識に存在する人間の方が目覚めた人間よりも遙かに洗練されている点が、教科書的な例を引いて述べられている。言わばあらゆる人間の奥に居るもう一人の人間の中にはよりよい人間が居て、そこから今述べた意図が生じてくる。

▲霊人と決断(17)

死によって魂が身体から解放されるまでは、意図は萌芽である。意図は死後、霊人に属する決断になる。-つまり、願望、意図、決断は霊的人間の意志の形である。

▲死後における意志の発達(18)

願望、意図、決断や人間の奥なる本性からくるものは、死後の営みにおいて初めて発達する。誕生から死までの人間もこの意志の力を体験はしているものの、それは単に表象的であり、言い換えると像的である。-授業では、この意識されない魂の領域に秩序を与え整えるように働きかけなくてはならない。授業は、人間本性の深い部分で行われていることと共同しなくてはいけない。

■ 意志の教育(19~27)

▲反文化的なマルクス主義(19~23)

授業とは内なる人間を把握し、そこから形作られなくてはならない。マルクス的社会主義では通常の人間関係を元に授業を展開するという過ちを犯してしまっている。その意味でロシアのルネチャスク学校改革は文化の死を意味している。穏健社会主義からの要求もまた素人考えである。なぜなら、ボルシェビズムが(正当な)社会主義の中に悪魔的なものを持ち込んでいる点を認識していないからである。 教育が人間本性に対する深い洞察にしたがうときに初めて社会的前進も可能であること知る必要がある。大人同士の間で成り立っている関係を決して授業に持ち込んではいけない。なぜなら、それは子どもの本性にそぐわないからである。校長の廃止、子ども自身による自己教育、つまり反権威的教育といった多くのものは、確かに善き意志から来ているけれども、文化や未来にとって必要なものを全く見過ごしている。

▲繰り返しの行為による意志の育成(23~27)

授業や教育は魂の深い層、特に意志の本性に働きかけなくてはいけない。これを子どもに正しい仕方で行うにはどうしたらよいのか? 知的なものはすべて年老いた意志でしかない。それゆえ悟性に働きかける教示や警告は子どもに作用しない。要約すると、感情とは成就する前の意志であり、意志の中には人間全体の営み、つまり体的、魂的、霊的な営みがある。つまり、子どもであっても意識されない願望、意図、決断を勘定に入れる必要がある。意志への道は感情を経由している。正しいことへの感情を子どもの中に目覚めさせる何かに子どもの注意を向けさせ、これを子どもに繰り返しやらせることによって、行為が習慣になる。意識化されない習慣は感情を豊かにし、完全に意識化された繰り返しは意志衝動や決断力を強める。知的な営みでは一回だけそれを紹介して理解するものと考えている。感情や意志には繰り返し、つまり習慣にまでなった行為が作用する。 教育実践において、この原則は当たり前のこととして成り立つ。たとえば、毎日「父なる神よ」を祈る。今日の人間は一回だけのことに強制されている。それでも、意志の育成は意識的な繰り返しの上に成り立つ。子どもの頃に、今日も明日も同じことをする、という指示を受けることによって人間は強くなる。これは権威から行う。なぜなら、子どもは学校では一人が命令しなくてはならない、ということを理解するからである。 意志育成には芸術が特によく作用する。なぜなら、芸術とは繰り返しの上に成り立っているからであり、繰り返し喜びをもたらし、何回も楽しむことができるからである。それゆえ、あらゆる授業が芸術的な要素で満たされていることが望ましい。

『一般人間学』レーバー要約、第05講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 人間の魂の活動における意志と思考の関係(1~6)

これまで意志について見てきたわけだが、これは人間の他の部分の観方も豊かにしてくれるはずである。これまでは人間の認識活動、意志活動を中心に、それらを神経系や血液系と関連させて見てきた。ここで第三の魂的活動である感情を検討してみよう。感情について観ることによって、両極である思考と意志をさらに深く観ていくことになる。 魂の活動を完全にパターン化してすべてを分けて考えてはいけない。それらは互いに移行し合っている。自分自身を振り返ってみればすぐにわかるが、意志の中には表象の要素があるし、表象の中には意志の要素がある。意志の中には底流として対極の力である思考があるし、その逆も言える。

■ 魂的活動の身体における現れ(7~15)

魂的活動が互いに移行し合っていることは、こうした活動が現れる身体にも反映されている。眼には神経がつながっているが、血管も通っている。眼には、血管を通して意志的なものが、神経を通して認識的、表象的な要素が流れ込んでいる。こうした二重性はすべての感覚器官に見られるし、意志に関わる運動器官にも見られる。

▲視覚を例に示される感覚プロセスにおける認識活動と意志活動(7~9)

神経によって仲介される認識活動の特別な点は第2講で述べられていたが、その中に距離を取る働きである反感が生きていることだった。たとえば眼には共感的である血液も流れていて、そのおかげで対象を見て吐き気を催さないであるんでいるのだ。共感と反感のバランスを取ることによって、視覚という、客観的で対象に干渉しない活動が可能なのである。そして、共感と反感の相互作用は無意識下にとどまっている。  色彩を研究することで視覚の成り行きについて深く入り込んでいったゲーテは、この共感と反感の相互作用を認識していた。あらゆる感覚活動においてこうしたことが起こるし、それは表象・神経と意志・血液に由来している。

▲人間の眼と動物の眼(10)

#ref(animal_eyes-ok.png,center,nowrap,60%,{鳥の眼、トカゲの眼}) 人間の眼と動物の目の決定的な違いは、動物の場合には血液活動がずっと強い点にある。一部の動物では眼の中に特別な血液器官が存在するほどだ。つまりそれは、動物では視覚において周囲の世界に対し人間よりもずっと強い共感を持っていることを意味する。人間では感覚活動により多くの反感があり、それが高まると場合によって吐き気といった形で意識される。反感によって周囲の世界から分離できることが、私たちの個人としての意識に働きかけている。

▲意志における共感と反感(11~13)

意志発動にも表象活動と意志活動が流れ込んでいる。何かを意志するとき、その意志の対象に対して共感を展開する。しかし、反感によって行為から身を引き離すことができなかったなら、私たちの意志は完全に本能的なものにとどまる。欲する事柄に対する共感の方も、通常は意識上にあがってこない。もしも熱狂、献身、愛(これらは吐き気の対極の力)を実行するとき、そのときだけは共感を意識する。こうして意志によって私たちが客観的に世界と結びつくためには、意志に思考を注ぎ込まなくてはならない。ちなみにこの世界とは、人類全体であり、宇宙プロセス全体だ。意志的プロセス全体やそこに含まれている反感的なものを意識したとすると、それは耐え難いものであろう。たえず反感の雰囲気を感じてしまうはずである。

▲人間本性の秘儀―子どもの成長(14~15)

子どもとともに共感が世界に生まれ出るとき、その共感とは強い愛であり、強い意志だ。しかしそれはそのままで留まっていることはできない。表象によって照らされなくてはならないのだ。それは、本能にモラル的理念を組み入れることによってなされる。誕生時と同じような共感的な本能を持ったままだと、その影響によって動物的に育ってしまう。しかし、そこに反感を注ぎ込むことによって、それに対抗するのだ。それゆえモラル的発達というのは常にいくらか禁欲的だ。つまり動物的なものと闘うのだ。

■ 魂の真ん中に位置する感情活動(16~25)

▲思考と意志の中間―感情(16~17)

感情の活動は思考と意志の間にある。ある境を経て一方からは共感(意志)が、もう一方からは反感(思考)が流れてくる。ある一方が主となって発達するものの、もう一方の極も含まれるという意味で、人間は全体となる。感情は思考とも意志とも同族なのである。感情の中には思考的・意志的要素が共に流れ込んでいる。  ここでも自分のことを少し省みれば、語られたことの正当性がわかる。通常の生活でも、客観的な意志から熱狂や愛による意志に高まると、そこには主観的な感情が深く入り込んでくる。また、感覚知覚においても感情が入り込んでいる。

▲思考内での感情の活動―判断(18~20)

感覚知覚にだけでなく、思考にも感情の営みが入り込む。人間の判断の特徴とはどのようなものかという問いで、哲学的な論争が生じた。ジークヴァルトは、判断においては感情が決定の役割を果たす、と言い、もう一方のブレンターノはそれに反論し、感情とは主観的なものであり、判断とは客観的でなくてはならない、と言っている。しかし現実を見ると、ここでも魂的活動が相互に入り込み合っているのだ。つまり、判断の内容は客観的でなくてはならない。しかし、それによって魂の中で判断が正しいという説得力が生じるためには、感情がそこに共に働く必要がある。  この例からも、正確な概念をえることは、つまり現実から概念を形成するのは難しいことがわかる。

▲最初の対比表(21)

魂にあって、中間に位置する活動である感情は、その本性からして二つの方向に輝き出る。感情とはまだ完結していない認識であり、まだ完結していない意志、つまり押しとどめられた思考、意志だ。それゆえ感情は共感と反感が織り混ざっているのだ。こうしたことは認識や意志の中では隠れているが、感情においては明らかになっている。

▲身体構成における感情の営みの現れ(22)

身体の中で、神経と血液が出会うところでは感情が生じる。感覚器官の中ではこの両者は、感情がほとんど感じ取られないくらいに繊細であり、その感覚器官が他の器官から分離されていればいるほど感じ取られにくくなる。たとえば、視覚においては感情的な意味での共感や反感はほとんど感じ取られない。なぜなら、眼球が眼窩に収まっていて、骨によって隔てられているからだ。しかし、聴覚では感情的なものはそれほどまでには抑えられていない。なぜなら、耳は他の器官とより密につながっているからだ。これはさまざまな意味で、身体全体で行われていることの忠実な像と言えるであろう。

▲聴覚と感情の類似性(23)

聴覚において、単に認識的であるものと感情的であるものとを区別するのが難しいので、それがワーグナーの『マイスタージンガー』で勃発した論争の種になった。聴覚には認識的なものだけがあるとするベックメッサーも、感情的なものが勝っていると誇らしげに主張するヴァルターも、どちらも偏っている。ベックメッサーのモデルとなったのはエドワルド・ハンスリックで、『音楽的に美なるもの』の中でワーグナーの音楽の中にある感情的要素を激しく攻撃した。感情的なものではなく、音と音との客観的なつながりが音楽的なものの神経となっていると言ったのだ。

▲感覚一般論v.s.体験という現実(24~25)

これまで諸感覚についても述べてきたが、それらの相違があまり考慮されていないのは、現代の学問的な考え方があまりに荒んでしまっていることに原因がある。教育改革のためには、特に感覚論を包括した新しい心理学が必要である。しかし、眼、耳、鼻などの活動をまとめてしまうと、「感覚活動一般」という抽象理論以外の何も生じてこない。それよりも必要なのは、具体的に物事を観る能力を伴って、個々の感覚活動を研究することなのである。そうすれば、それらに非常に大きな違いを見出し、感覚生理学一般を研究したがることもないであろう。

■ 結論 : 現実への道(26~27)

魂を観察して洞察を得るには、『真理と学問』や『自由の哲学』で言われているように、人間は初めは現実全体を手にしてはおらず、徐々に世界の中に場を築き、まずそれを克服しなくてはならない、というところから始めなくてはならん。思考と観照(観ること)がお互いに入り込みあって初めて人間にとって真の現実になる。それに対してカント主義では初めから、「私たちの中には世界の単なる鏡像があるだけである」と頑固に規定している。しかし、現実は現象の中には存在せず、少しずつ浮かび上がってくるのだ。現実が完全に現れるのは、死の瞬間だ。  誤った概念を正しいものに置き換えていく努力をしなくてはならない。そうしたときに初めて正しい仕方で授業を行うことができる。

『一般人間学』レーバー要約、第06講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 前置きと進め方(1~2)

第1講から第5講までは人間を魂的観点から考察した。つまり、共感・反感の視点だ。このような順にしたのは、人間にとっては魂的領域が一番わかりやすいからだ。しかし、人間学全体を考えるには、さらに霊的観点や体的観点が加わる。体的な事柄は魂的なものの開示であるだけでなく霊的なものの開示でもある。だから、霊的な観点を抜きにしては理解できない。そこで、ここでは次に霊的観点を取り上げる。人間を考察する上で適切な視点は、思考的認識、感情、意志という魂的な分節で考えることだ。

■ 三つの意識状態: 意識的要素と無意識的要素(3~6)

▲思考的認識―これを霊的に考察すると(3)

思考的に認識するとき、イメージで語るなら、私たちは光の中、明るさの中に生きている。概念的な言い方をすれば、完全に意識化された活動の中にいる。何らかの判断を下す際に、道筋のどこかが見通せない、つまり無意識な部分があると、それは正当な判断にはならない。

▲意志―これを霊的に考察すると(4~5)

意志の場合には話が違う。最も単純な意志の遂行である「歩く」ということだけを取ってみても、筋肉の中、あるいは私たちの身体有機体の中で起きていることは全くわからない。「歩く」ということの表象の中では私たちは完全に目覚めている。意志には絶えず何らかの無意識なものが混ざり込んでいる。それは私たちの生体を観る場合だけでなく、意志を外界に作用させるときにも言えることだ。 例を挙げれば、この無意識の部分がわかりやすくなるであろう。二本の柱の上に一本の梁を渡す際には、見てそれに対して考えた事柄については完全に意識しているが、柱が梁をどうして支えられるのかはわからない。力の関係は闇の中なのである。ここでの成り行きを洞察できないし、それは身体内での意志の成り行きを見通すことができないのと同じだ。 (訳者注…シュタイナーは、「動き」は意識で捉えることができるが「力」は捉えることができない、と語っている。つまり、「力」は意志的だというのだ。これについては、私も完全に納得できているわけではないが、考える方向としてのヒントを付記しておく。)


▲感情―これを霊的に考察すると(6)

感情は、明るい認識と闇の意志の間にあり、意識と無意識の両方が入り込みあっている。

■ 三つの意識状態: 目覚め、眠り、夢(7~9)

▲認識(7)―意志(8)―感情(9)

これまでその特徴を述べてきた事実関係は、以下のような意識状態の違いとして認識される。 +思考的認識においてのみ、私たちは目覚めた意識状態にある。 +私たちが意志的存在であるとき、昼間起きているときでも、私たちは眠っている。意志的人間に思考的人間が寄り添っている。 +感情は思考と意志の中間に位置している。感情については、夢と同程度にしかわからない。 つまり、目覚めている状態であっても、相互に作用し合う三つの意識状態がある。これは通常の意味での目覚め、眠り、夢とは違う。昼目覚めているときでも、魂的存在としては、意志する存在は眠り、感情する存在は夢見、思考する存在は目覚めているという意味であるだ。

■ 教育的課題(10~11)

子どもの意識の目覚め度合いは個々に違う。感情的要素の強い子は夢見がちだ。強い感情によって明るい認識を目覚めさせることができる。なぜなら眠りとは、すべて目覚める傾向を持っているからである。 抱卵状態にいる子どもは強い意志の素地を持っている。学力テスト(知能検査)の結果が「非常に遅れている」という結果であっても、こうした子どもに対して性急に判断すると間違いを犯すことになる。ここでの教育のゴールは意志を目覚めさせることだ。子どもが胆汁質である場合、成長してからとりわけ行動力に満ちた人間になり得る。教育は意志に働きかけるものであって、認識に働きかけるものではない。それは、たとえば言葉一語一語を話しながら、一歩一歩、歩かせることによって可能である。それによって意志を少しずつ思考へと目覚めさせていくことができる。ここでも「どのような眠りであっても目覚める傾向がある」ということが成り立つ。

■ 意識状態ならびに身体との自我の関係(12~19)

▲基本諸力(12~14)

この三つの意識状態において、自我はどのように関係しているであろうか。答えを見つけるには、世界がさまざまな活動の総和であることを考える必要がある。つまり、さまざまな基本的営みの領域である。私たちの周りで働き、生命力とかかわる基本的な諸力としては、たとえば、熱や火の力がある。こうした力の働きが、たとえばSolfatara(南イタリアの火山地帯の名所)では目に見えて現れている。

▲思考的認識における自我と肉体の関係 : 世界を像に変える(15~17)

世界の諸力を私たちの自我は耐えることができない。現在の段階では、自我はその中に完全に入り込むことから守られていなくてはならない。それゆえ、完全に目覚めてはいるものの、現実の世界の中にではなく、像の世界にいるのである。思考的認識には世界の像だけがある(この点については、魂的視点からすでに述べてある)。  霊的観点からすれば、誕生から死までの間は身体がコスモスの像をつくりあげなくてはいけないことになる。  実際のことの成り行きを見極めることができないので、心理学者は身体と魂の関係を説明できずにいる。目覚めたときに自我は身体の物資的過程の中に入っていくのではない。そうではなく、身体が世界の成り行きから作り上げた像の世界に入っていくのである。それによって、自我に思考的認識が伝えられる。

▲感情における自我と肉体の関係:魂的に火傷をする―意識が夢段階に弱められる(1

8) 感情において自我は肉体にまで入っては行く。しかし、もし自我が目覚めたままであったら、魂的に火傷してしまうであろう。それゆえ、意識は夢状態にまでぼんやりさせられて、感情に伴って身体で生じることに耐えられるのである。

▲意志における自我と肉体の関係: 耐え難い痛み―意識が睡眠段階まで麻痺させら

れる(19) 意志において身体に生じていることを―たとえば、歩行の際にどのような力が用いられているか―私たちがそれに耐えることができるのは、意識状態が眠りの段階にまで落ちているからである。そうして、大変な痛みに耐えているのである。

■ 高次の意識状態 : イマギナチオーン、インスピラチオーン、イントゥイチオーン(20~25)

▲像の中での営み(20)

普通に昼間起きているときに、自我は三通りの営みをしている。完全な目覚め、夢見た目覚め、眠った目覚めである。身体の中で自我が目覚めているのは思考的認識においてのみであるが、そのときには実体の中に生きるのではなく、単に像の中に生きているだけである。そこで人間は意識を高める特別な修行をすることができる。


▲インスピラチオーンにおける営み(21~22)
自我が身体内に入り込むと、感情を左右する諸過程に目覚める。そのとき私たちは、無意識なるインスピラチオーン的イメージの中で、夢見ている。こうしたものが、特に芸術家の場合、目覚めた意識の方に上ってきて、それが像(イメージ)になるのである。 エソテリックな修行の中でインスピラチオーンと言われているものは、誰でもが感情の営みにおいて無意識のうちに持っているインスピラチオーン的な諸力が、明るい意識の元にもたらされたものなのである。無意識なインスピラチオーンでは―思考の像についても同じであるが―もしそれを意識的に体験したならば自我が火傷してしまう、あるいは窒息してしまうような世界過程が写し出されている。悪夢とは、こうした窒息感の初期状態を表現している。つまり、こうした悪夢では、周りの空気が身体に入り込んでくる過程が表象の営みに影響しているのである。呼吸を完全に意識して体験したなら、とても苦しいものになるであろう。したがって、それは夢見的意識である感情に弱められているのである。

▲イントゥイチオーンにおける営み(23~25)

意志の遂行に伴って生じる身体過程を完全に目覚めて知覚したとすると、それは非常な痛みになる。それで、意識は眠り状態まで弱められる。そのようにして体験されるのが、無意識なイントゥイチオーンなのである。こうしたイントゥイチオーンは絶えず生じているが、それが境界を越えて意識化されるのは幸運な場合だけである。そこで人間は、ぼんやりと混沌とした状態、あるいは無意識に秩序だった形で、霊的世界を共体験する。 人間の営みの中で一見偶然に見えるようなものの中に、深い法則を見出しうることがある。その一つの例が、『ファウスト』第二部の詩句が生まれた状況である。これらは晩年のゲーテが、部屋をあちこち歩き回りながら口述筆記させることで得られたものである。つまり、意志による行動によって無意識なイントゥイチオーンが意識上に上ってきたのである。

■ まとめ並びに人間の身体形態についての展望(26~27)

これまでに述べられたことを次のような図式でまとめることができる。 +目覚め―像的な認識 +夢―インスピラチオーン的感情 +眠り―イントゥイチオーン的意志 これでは、イントゥイチオーンがインスピラチオーンより容易に日常的な像的認識に上ってくる理由が理解できない。したがって、よりわかりやすくすべく、この図式を書き換えなくてはならない。像的認識は身体に沈み込むことでインスピラチオーンに達し、イントゥイチオーンからまた像的認識に上ってくる。感情から意志に向かってのこうした道筋は通常見逃されている。人間が動き始めたり、行為を始めたりすると、人間は表面的にまずその意志を見るのであって、そこでの感情には注意を向けない。だから、イントゥイチオーンはインスピラチオーンよりも容易に像的認識に上ってくるのである。 


こうしたことから、人間の身体的形姿の特徴が理解できる。もし脚が頭部に直接ついていて、頭が歩く状態だとするなら、考察が意志とが一体化してぼんやりしたものになってしまいる。つまり、眠りながらしか世界を歩けないのである。頭部が胴部の上に静かに乗っていることによって、思考的認識の器官でありうるのである。もし頭部がそれ自身で動かなくてはならなかったら、その動きに必要な意志があるために、眠った意識状態でなければならない。本来の意味での意志は身体が遂行している。頭部は身体という馬車に乗って前進するのである。そうであるからこそ人間は目覚めて行為できる。つまり、無意識に留まる意志に目覚めた意識を沿わせることができるのである。

『一般人間学』レーバー要約、第07講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 方法論的前置き:一つの事柄を他の事柄と関連づける(1~3)

第7講は、これまでの論述の道筋を方法論的に振り返り、さらには現行の教育や心理学的概念を知る必要性を説くところから始まる。 ―そして再度、人間を魂的、霊的観点から重点的に見ていくと述べられる:魂的とは反感と共感の視点から、霊的とは(覚醒、夢、眠りという)意識状態の視点から見ることだ。 それに続き、認識方法の核心が述べられる:私たちが世界を理解するのは、ある事柄を他の事柄と関連付けるときだけである。観察には、感覚知覚による観察もあるし、魂的・霊的器官による観察もあるが、そうした観察だけでは十分ではないのである。観察対象を理解し把握するためには、その要素を他のものに結びつけなくてはならない。事柄を結びつけつつ人間の営みを見ていくことで、体、魂、霊の概念をしっかりと築き上げていく可能性が開ける。

■ 体・魂・霊の年齢における変化(4~9)

▲年齢による変化を身体的視点で見ると(4~6)

新生児の形姿、動き、生きている様子を見ると、人間身体についての一つの像が得られる。しかしこの像は完全ではなく、補完が必要だ。つまり、成人期、老年期も見ていく必要がある。そう見ると、中年期には人間はより魂的になり、老年期には精神的(霊的)になる。老年期に人が精神的になることの反例として、カントが晩年期に《ボケ》たことを挙げる人も居るかもしれないが、《ボケ》とは精神が衰えるのではなく、身体が衰え、精神界から送られてくるものを身体が受け取れなくなっているからである。実際には、老年期には人は賢くなり、精神性が豊かになる。 ここでミケレとツェラーという二人の教授が引き合いに出され、歳の取り方が人によっていかに異なるかが示される。

▲魂的観点からの年齢(7)

人生中期の人間では魂的な事柄が特に前面に出てくる。ただし、中年期の人の中には魂がなくなっているように見える人もいるが、これは魂的事柄を当人が自由に扱えることを示していると見ることができる。

▲子ども期における感情の意味(8~9)

子どもでは、感情が、思考ではなく意志と密接に結びついている。逆に老人では、成長の結果として、感情が思考的認識と一体となっていて、意志はそれらとは離れているように見える。感情を意志とのつながりから解き放ち、さらには思考と結びつけられるようにすることが教育や自己教育の課題なのである。 老人の魅力ある話とは、その人物のそれまでの生涯において個人的であった感性を、理念や概念と結びつけ、理念や概念に現実感が与えられ温かい響きを持ったものなのである。中年期の理念や概念は、理論的で抽象的であるが、そうではなくなったときである。

■ 感受の本質(10~19)

【訳注】感受と知覚:ドイツ語では empfinden(感受する)とwahrnehmen(知覚する)という語を区別している。たとえば、気づかずに漆に触れてかぶれた場合、皮膚で漆を感受してはいるが、知覚はしていない。この講でシュタイナーは「感受は意志的である」と言っているし、上のように考えれば不思議はないと思う。

▲第一の規定:意志する感情、感情する意志について(10~14)

例として、色彩、音、寒暖などを考えていただけばわかるが、私たちと外界との関係としてまず挙げられるのは感受である。しかし、心理学はこの知覚についてもわかってはいない。つまり、「外界の物理的な成り行きによって作り出された刺激が、完全に内面での営みである質としての感受になるのはどうしてか?」という問いを説明できないのである。しかし、ちょっとした自己観察によって、感受と最も近い関係にある魂的な力が、「意志する感情」あるいは「感情する意志」と類縁関係にあることを明確にすると、この問題を解決するためのヒントが得られる。感受と感情が近い関係にあることはごく少数の心理学者が認識していたし、一人がモーリッツ・ベネディクトである。彼の研究では、その基調は物質主義的で受け入れ難いものではあっても、個々の観察は素晴らしく非常に有意義である。

▲第二の規定:眠った夢、夢見る眠りについて(15~16)

身体表面は感覚領域とも言える。それについて魂的視点から述べれば、そこにあるものは(認識的な方向ではなく)感情する意志、意志する感情としての感受である。意識状態の視点から述べれば、感覚(感受)が営まれる身体表面では、夢見て眠り、眠って夢見ていると言える。(心理学などが)感受をきちんと捉えられないという事実と、目が覚めたときには夢をぼんやりとしか意識できないという事実の根拠は同じなのである。感覚知覚とは、悟性や思考的認識がそこにかかわる前は、私たちの身体表面における《夢》なのである。 ここで述べられていることを教育にまで応用するなら、子どもの知性だけを育てるのではなく、意志や感情も育てなくてはいけない、となる。人生を歩んでいく中で、感受はしだいに感情する思考(思考する感情)に近づき、そして晩年には感受が概念や理念と合流していくのである。

▲「言語的説明」は望ましくない(17~19)

感受は、年齢と共に意志的なものから悟性的・知的なものへと変容していく。これと関連して、概念もまた生きていて、変容していくものであることがわかる。概念とは本来、諸事実として示されるべきであるが、概念が生きていることを忘れてしまいると、概念を言語的に説明してしまい、現実から離れたものにしてしまいる。言語的説明ではなく、事物の精神に近付こうとすること、言い換えると事実同士の関係を探求すること、それが現実に根ざして認識するための基本条件なのである。 子ども、老人のそれぞれの場合で、身体とどのように関連しているかを述べ、「リアルな概念を得るためには、諸事実を相互に関連させること」という方法論的な基本原則に再度触れている。

■ 身体の各部位における意識状態 ―意識状態の空間分布(20~22)

▲神経系と思考(20~22)




頭部も夜には眠り夢見るが、それと似た意味で、人間は身体表面で眠り夢見ている。また、その度合いは、筋肉や血液系など、奥に行くにしたがってより深くなっていく。 霊的観点から、人間の身体地図における睡眠と覚醒を見ていく。まず、表面と内部器官において人間は眠っている。そして、誕生から死までの間では、両者の中間領域においてのみ人間は目覚めた状態を獲得することができる。その中間領域には神経系があり、それは体表や身体深部に向かって、神経線維を伸ばしている。この中間領域にあるのが、脳、脊髄、太陽神経叢である。 神経系は絶えず朽ち果て、鉱物化する傾向を持っている。ところが、腺、筋肉、血液系がこれを死なないように守っているのである。他の身体領域は霊的・魂的なものと直接関わっているが、神経にはそうした直接の関わりはない。思考の妨げにならない、つまり、魂的・霊的なものを持たない空の空間が確保されているので、その空の空間に人間の魂的・霊的なものが入り込めるのである。―生理学者や心理学者は神経の役割について諸説を出しているが、神経系はそのような活動は行っていない。もしそうした活動があるとしたら、私たちは神経系においても眠り込んでしまうことになる。 神経系は思考のための生体器官ではない。人間が認識能力を持つことができるのは、脳が人間の生体から切り離されているからなのである。

▲神経において人間精神と外界精神が出合う(23~24)

知覚過程は、人体周辺部で営まれているリアルなものであり、外界の出来事の一端でもある。そしてそれは、人間の身体内部、つまり、外界と同様に物質的・化学的なプロセスが進行している筋肉・血液領域にも入り込んでいく。中間領域は神経器官がそこを空に保ち、光や色彩の本性はその中間領域に流れ込んでいく。つまり、神経がこの領域を空にしてくれていて、そのおかげで、そこにおいて外界に存するものと営みを共にすることができるのである。この意味において、私たちは自分自身が光、色彩、音になるのである。 外側と内側の中間領域のおいてのみ、私たちは完全に目覚めていることができる。

■ 記憶と忘却(25~27)

霊的観点から人間を観るにあたっては、時間的関係も考えなくてはならない。たとえば、他者に意識を向けると、完全に目覚めた意識の中で表象が作り上げられるが、これが時間と共にどのように変化するかが取り上げられる。そして次のことがわかる。忘却とは表象複合体の入眠であり、想起とは表象複合体の目覚めだということがわかるのである。こう見ることによって、一連の魂的活動が―単なる用語説明ではなく―生活のリアルな出来事と関連づけられるのである。

■ 結語:社会三層構造についてのコメント(28~30)

最後に、講演全体の中心モチーフ、つまり霊的・精神的に世界を捉えるための基本条件とは現実を相互に関連付けることである、ということが繰り返される。 現実から生きた概念を得ることの例として、社会有機体の三層構造についても触れられる。この考えはなかなか理解されないが、その理由は、大多数の人間が単なる表面的な言葉で議論することに慣れてしまっているからである。 この考えがなかなか理解されないという困難も、時代の流れを表している。そうした困難も含めて、教育者はこの時代を掴んでいなくてはならない。なぜなら教師は、そうした時代から教えるべき子どもたちを委ねられているからである。

『一般人間学』レーバー要約、第08講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 忘却と想起(1~5)

▲方法論的なコメント(1)

シュタイナーは第7講で触れた記憶の問題を再び取り上げる。そこでは生きた現象を相互に関連させる、という方法論的な原則が述べられた。今度はそれが、未知のものを既知のものに結びつける、という原則として理念にまで形成される。ここでは想起と忘却(未知)を覚醒と睡眠(既知)に結びつける。

▲不眠、自我意識、記憶(2)

まず、「睡眠と覚醒の方が忘却と想起よりも正体がわからない」という反論を丁寧な観察で退ける。「忘却が想起に対して正常な関係にない場合に何が起きるか」を、睡眠妨害の影響を例に明らかにする。睡眠が妨げられると自我意識の《力が弱く》なり、外界からの刺激から身を守ることができず、知覚過敏になる。

▲一生《ぼんやり》を防ぐ。積極的魂形成による助け(3~4)

忘却と想起を随意的にコントロールできないと、自我意識の弱体化に対応する現象が起きる。一生《ぼんやり》した人間ではそれが起きている。彼らは一方で外界からの印象にきちんと結びつくことができず、一過的につながるだけであるし、もう一方で記憶の中から何となく浮かび上がってくるイメージの中で漂っている。本来なら、そうしたイメージはきちんと秩序づけられ、よりよく理解するために使われなくてはならないものである。 これは特に子ども時代の課題であるが、人間は忘却と想起を随意的に扱えるように学ばなくてはならない。教師は、この過程に覚醒と睡眠があることを知っていなくてはならない。想起とは、無意識の領域にあるイメージを意志が掴み取り、それを意識の元に引き上げることだ。自我やアストラル体が睡眠中は肉体とエーテル体を再生させるべく力を蓄えるように、忘却と想起という記憶過程によって眠った状態の意志力に働きかけるのである。 教育によって眠った状態の意志力に直接に働きかけることはできない。人間を全人的に、身体的習慣、魂的習慣、精神的習慣へと教育する必要がある。こうした習慣を身につけていると、後には個々人が自ら意志をより洗練していく可能性の土台になる。

▲教育的な例:生き生きとした関心と記憶(5)

述べたことを、例を挙げて明確にしている。授業全体を上手に組み立てて、子どもたちの中に、たとえば動物に対する生き生きとした関心を育てれば、意志の中に、その場その場で必要な動物のイメージを忘却領域から引き上げる能力が育つ。教師が子どもの習慣にかかわる部分に働きかけると、子どもの記憶能力を秩序だったものにできる。集中的な関心が記憶を強めるのである。

■ 方法論的考察:一体であるものの細分化(6~9)

外界の現象は個々にばらばらであるが、それでも相互に作用し合っている。人間の魂的な部分を捉えるためには、それを思考、感情、意志に分ける必要がある。しかし実際の営みでは、これらの三つは相互に関連し合って一つのまとまりになっている。こうした原則が人間のあらゆる構成要素について働いている。 人間の頭は主に頭部であるが、頭部的なものは身体全体にある。こうしたことは胸部、四肢についても言える。つまり、身体のどの部分も、他の身体要素を持っているのである。 現実を捉えようとするなら、分節化された部分のどれも一つのまとまりと考えられなくてはならない。分節化しなければ世界はぼんやりとしたものにとどまる。闇夜のカラス状態である。しかし反対に、分離だけで互いに関係づけないと、現実が無数の個別体に散らばってしまいる。 頭部人間、胸部人間、四肢人間として語られたことは、魂的活動についても成り立つ。思考的認識というのは主として認識なのであって、そこには同時に感情や意志も入り込んでいる。感情や意志にもこれと相当することが言える。異なった活動を相互に関連させ、一体なものとして観ることができないと、以下の(感覚に関する)論述が、前回の講演内容と非常に矛盾しているように思えてしまうであろう。しかし、現実とは矛盾によって成り立っているのである。

■ 感覚存在としての人間(10~22)

▲感覚生理学が抱える全般的な困難・展望(10)

「一体であるものを分節化し、さらに逆に分離したものを再び一体のものとして捉える」という方法論的原則は、人間の感覚知覚を理解しようとする場合には非常に重要である。通常の感覚生理学、並びに感覚心理学は、多くの問題を抱えている。たとえば触覚と熱感覚を一緒くたにしてしまっている。つまり、十分に明確に分けていないのである。感覚について観察するにあたっては、自我感覚が鍵になる。

▲自我感覚(11~13)

体験したことの総和を自我とするのか、目の前の他人を一つの自我とするのかは、魂的霊的活動として観れば全く別である。前者では完全に私の内面だけで事が完結している。それに対し後者では、他者と私との間で相互作用が起きている。他者の自我を知覚すること、つまり《自我る》ことの基盤は自我感覚にあるし、これは見ることが視覚に拠っているのと同じだ。自我感覚の器官は繊細な素材として全身に広がっている。他者と向かい合ってその自我を知覚することは、認識に類似した出来事であるし、自分自身の自我体験は意志的な出来事である。 それでは、他者の自我を知覚する基盤は何であろうか?一般には次のように言われている。他者が示す外的な現象を自分自身と比較することによって、つまりアナロジーによって目の前に自我を持った人間がいると結論する、というのだ。しかし、自我感覚を働かせている際に生じる関係とはそうしたものではない。それは自分と他者との相互作用であり、他者に入り込んでいくことと自分を他者から守ることの絶えざる交代、つまり共感と反感の関係なのである。『自由の哲学』の第一の補足では、この関係について述べられている。 これは共感と反感の急激な交代であるが、言い換えると他者の中に眠り込んでいくことと、そこから目覚めることの交代でもある。眠りの中で他者がその様子を明かし、それが目覚めにおいて認識、つまり神経系に伝えられる。他者の自我を知覚するというのは、実際、認識過程でありながら、意志活動の一つのメタモルフォーゼと言えるのである。

▲思考感覚、言語感覚(14)

思考感覚とは、他者の思考を知覚する感覚である。これは言語感覚とは明らかに別である。なぜなら、考えを伝える媒体は音声に限らず空間的な仕草― たとえばオイリュトミー ―もあるからである。

▲聴覚から生命感覚まで(15)

さらに他の感覚も挙げ、それらの特徴も簡単に述べている。聴覚、熱感覚、視覚、味覚、嗅覚、平衡感覚、運動感覚、生命感覚である。平衡感覚によって私たちは(前後左右の)空間内で転ばずに動くことができる。また運動感覚によって自分が動いているか静止しているかを区別する。生命感覚では身体の状態、身体のバランスが取れているかを知覚する。

▲十二感覚の表(16)




▲意志感覚―感情感覚―認識感覚(17~22)

さらに、感覚全体を別な形で分けている。 +触覚、生命感覚、運動感覚、平衡感覚には主に意志活動が入り込んでいる。それゆえ、これらは最も見過ごされている。 +嗅覚、味覚、視覚、熱感覚は主に感情感覚である。これらが感情と類縁であることは、嗅覚と味覚で最もわかりやすいであるが、視覚においても体験することができる。この点については、ゲーテの色彩論に多くの例がある。色彩が感情と関連する点がほとんど忘れられている理由は次のとおりである。つまり、色を見るとき、私たちは常に同時に線や形も知覚している。つまり、視覚の活動に、それよりさらに無意識的である運動感覚の活動が入り込んでいるのである。形は身体全体を通して取り込まれ、つまり宇宙の幾何学が認識されることによって初めて知覚される。そしてそのフォルムが色彩と結びつく。運動感覚という回り道において人間全体が視覚行為にも入り込んでいるのである。色のついた形を認識するという例からもわかるが、人間は一体なる存在であるがゆえに、視覚と運動感覚という二つの全く異なる活動を再び一つにまとめることができるのである。こうした統合化によって判断が生まれる。諸感覚によって世界は十二の部分に分かれて分析された形で人間に迫ってくる。そして人間はこれらを結びつける。「なぜなら、個別なるものは個別なままにとどまろうとはしないから」である。~ 十二感覚があるおかげで、個別化されたものを結びつけるという意味で、私たちには多くの可能性が与えられている。また、十二感覚によって、私たちは事物と営みを共にすることができる。教育にとっては、諸感覚をバランスよく育て、意識的にそれらを関連づけていくことが特に重要である。 +自我感覚、思考感覚、聴覚、言語感覚は認識的感覚で、そこに眠った意志が出入りしている。

■ 霊的視点、魂的視点のまとめ。身体の形態学に向けての展望(23)

この講演の最後でシュタイナーは再び、霊的視点では覚醒、睡眠、夢という意識状態が、魂的視点では共感と反感が決定的な意味を持っている点を述べている。このように繰り返されていることからも、人間を見る視点としてこれらがいかに重要であるかがわかる。さらに、球形、月形、線形の三つの形状を取り上げ、身体的な考察を予告している。

『一般人間学』レーバー要約、第09講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ よい教育のための条件: 事実世界の認識(1~3)

▲《教育的本能》(1)と話の進め方(2)

子どもを真に事実認識すると、それが教育的本能を目覚めさせる基礎になる。 これまで人間を霊的な視点から捉えるにあたり、意識状態の違いを問題にしてきた。ここからの話は、霊から魂、体へと進み、成長過程にある子どもの健康管理の話へとつながる。

▲二十歳までの三段階(3)

教育に関して言えば、成長を三つの段階に分けることができ、それぞれに特徴がある。交歯までの子どもは、模倣存在である、という特徴を持つ。交歯から性的成熟までの子どもは、内面本性の奥底から権威を求めている。そして性的成熟を迎えると、自らの判断で周囲の世界と結びつき始める。

■ 認識的思考と論理(4~6)

▲論理的思考の発達(4)

地上に生まれた人間の思考は、本来、論理的である。また論理とは学問的なものでもあり、教師はそれを自在に操れなくてはならない。しかし、子どもに論理を教えるにあたっては、教師はまずそれを自分自身の行動で示す必要がある。

▲結論(結びつけること)、判断、概念の三ステップ(5)

 論理的活動、つまり思考的認識的な活動は、結論(結びつけること)、判断、概念の三段階のステップを踏んで行われる。この順はまず言語と結びついている。つまり、話をするときには、絶えず何かと結びつけている。それだけでなく、この順は、あらゆる営みと関連している。《動物園のライオン》というのがよい例になるであろう。 -ライオンを見た知覚を意識にもたらし、それを全体の知覚の中に位置づける。これができるのは、その知覚をその他の体験の中に統合できるからである。《ライオンとは、ここでは結びである》 -《ライオン》という知覚全体を、過去に出会ったもの、動物園で見たものに結びつけることで私たちは判断を下する。『ライオンは動物である』―《ライオンは判断である》 -この判断が前提となって、一般概念である《動物界》から《ライオン》という特殊概念を導くのである。《ライオンは概念である》 結びつけ、判断し、絶えず概念形成していなければ、私たちは意識的な営みはできないし、言語を介して他人と相互理解をすることもできない。

▲《つまり、カーユスは死すべき存在である》(6)

《カーユス》を例に再度認識のステップが示される。通常の論理学と異なるのは、最初に結論(結び)が来る点である。通常の論理学の教科書的な例では、「カーユスは死すべき存在である」というのが、結論(conclusio)として思考の流れの最後に置かれている。

■ 人間の魂と霊の中での論理の進み方(7~14)

▲結びつけについて(7~9)

結びは、完全に目覚めた意識の中で行われるときに健全である。この認識は授業構成を考える上で根本的で重要な意味を持つ。できあがった結びつけ(結論)を子どもの記憶に押し込むと、子どもの魂を荒廃させてしまいる。こうしたやり方で訓練されてしまった子どもに対しては、できあがった結びつけ(結論)を《下位に》置き、今、その場での結びつけ(結論)を育てるように努めるといいであろう。

▲判断について(10~11)

判断は、当然のことながら完全に目覚めた営みに属する。しかし、判断は魂の夢想的領域、つまり感情の領域に属する。感情で判断を下しながら進んでいるのである。こうして、判断は―良きにつけ悪しきにつけ―習慣になる。日常的には判断は文章として表現される。つまり、教師が語る一つひとつの文章が子どもの魂の習慣になっていく。

▲概念の形成(12)

形成された概念は、魂の眠りの領域にまで降りていく。つまり、身体を作り出している魂の領域である。特に人相は、人生を送る中で次第に形成される(目覚めた魂は身体には働きかけない。また、夢見る魂は、しぐさとして表現される)。だから人間の顔には、その人がどのような概念を作り上げてきたかが現れている。また、子ども時代に注ぎ込まれた概念も現れる。このように《教育の力》が働く。

▲時代現象としての画一性(13~14)

シュタイナーの同時代人であるヘルマン・バールは、次のようなコメントを語っている。人間の人相がますます没個性的になっていて、人間を互いに区別できなくなっている、と。このような画一性が見られるということは、教育の著しく損なわれていることを示しているし、教育のどこから手をつける必要があるかが現れている。

■ 生きた概念(15~19)

結論、判断、概念はそれぞれ異なった意識状態にルーツがあるが、そのことを踏まえると、教育の中でそれらの扱いが異なるべきであるとわかる。結論は話し合いの中で培われなくてはならないし、身につくのは概念にまで実ったものだけである。 そのためには、生徒たちに死んだ概念《概念の死体》を植え付けるのではなく、生きた概念、つまり人間が成長し変容していくのと同じように、発展可能な概念を与えなくてはならない。死んだ概念の見本は定義である。定義の代わりに、対象をできるだけ多くの視点から見てその様子を記述すること、つまり特徴づけを行わなくてはならない。こうしたやり方は自然学の中で典型的に行うことができる。たとえば、いろいろな動物を別々に扱うのではなく、それら同士の相互関係や人間との関係で見ていくのである。 人間は、教育を受けても生き生きとしていなくてはならない。しかしながら、生きて動きのある概念の他に、いわば《魂の骨格》となるような一生変化しない概念にも正当な場がある。そのような骨格概念とは、人間の理念である。個々の生き物や世界についての生きた概念は、成長に伴って、人間と発展を共にできる。そしてそこに、ゆっくりと形成されていく人間という多面的な概念、そのまま残ってもよい概念が付け加わる。このようにして、世界の個別な事柄が人間と結びけられていく。あらゆる生きた物には、変化するという傾向がある。子どもの中に生き生きと植え付けられた畏敬、尊敬、祈りの雰囲気といったものは、年を経て晩年に至ると、祝福の能力に変容する。子どものころにきちんと祈ったことのない人には、歳を経ても祝福の力は現れないのである。

■ 誕生から成人までの三つの年代(20~24)

講演の始めに、誕生から青年期までを三つに分けることができ、またそれぞれに模倣、権威、自立した判断といった特徴がある点が述べられた。今度は人生の時間軸におけるそれらの現れ方が考察される。

▲第1・七年期と父なる世界: 世界は善きもの(21)

誕生前に霊界において、人は対象に没入する力を育んできたが、交歯までの子どもはまだその力に満たされている。その没入する能力の表れが模倣なのである。この第1・七年期での魂の基本的雰囲気では―全員がそうではないが―ほとんどの場合、無意識の前提がある。世界はすべてモラルに満ちている、と。こうした前提を教育に利用することができる。たとえば、モラル的な特徴づけである。-模倣の中には誕生前の営みへの方向性が息づいていた。この事実は、子どもには魂的・霊的な過去があることを示している。

▲第2・七年期 : 世界は美しい(22)

権威に浸る第2・七年期では、子どもは主にその瞬間に関心がある。動物的にではなく人間的に周囲の世界を楽しみつつ、現在を生きることができる。―それは授業においても同じだ。―ともすると教条主義的になりかねない授業であるが、芸術との生き生きとした関係でそれを避けることができる。子どもの持つ基本感情は「世界は美しい」である。授業は芸術に《浸され通して》いなくてはならない。たとえば、授業で対象をよく観るときにも、有用性の原則が中心になってはいけない。そうではなく、美的な要素を中心に据える。

▲第3・七年期 : 世界は正しい(23)

性的成熟を迎えてからは、「世界は正しい」が人間の無意識な前提になる。

『一般人間学』レーバー要約、第10講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 導入 : 話の流れ、復習と予習(1)

▲問題点(1)

人間についての魂的、霊的、体的な視点を相互に結びつけていく。こうした全体的な展望から、身体の外的側面を語ることができる。

■ 頭部、胸部、四肢の構造と形態(2~4)

▲球形がすべての形態モチーフの中心になる(2)

人間についての体的考察も三分節から始める。それらのフォルム原則の基本は球形で、それが各器官で異なった現れ方をしている。

▲頭部と太陽との関連(2)

頭部は、体的には球形に見える。頭部形態は物質的には閉じた形であり、太陽に対応する。

▲胸部と月の関連(2~3)

人間の構成体の中央部分である胸部は、球の一部である。一部分は見えていても、《多くの部分》が隠れ、これは月に対応する。胸部では背中側は体的であり、前方に向かって魂的なものに移行する。

▲四肢(4)

四肢は胸部に《差し込まれて》いる。つまり、球の内側にある半径として、中心と表面をつないでいる。




▲《頭部にも四肢がある》―比較(5)

顎部分は―いわば退化した―四肢として頭蓋骨に差しこまれている。腕や脚といった四肢では筋肉や血管が骨を取り巻いていて、そちらが本質的であるのに対し、頭部では骨が主体である。生体のこの様子には《宇宙の意志》が表現されている。一方《宇宙の叡智》は、頭部の骨格として表現されている。外的なフォルムとは、いかなるときも内的なものの表現である。

■ フォルム諸原則の相互関係: メタモルフォーゼと裏返り(6~8)

▲難しい章(6)

各タイプの骨格が相互に変容していることを理解するのは、人間学の中でも最も難しい。教師が日常的な事柄からかけ離れた内容についても概念を持っていることが望ましい。

▲背骨と頭蓋骨 : メタモルフォーゼ(7)

ゲーテは脊椎骨説というメタモルフォーゼの考えを、人間形姿にも応用した。ゲーテはヒツジの頭蓋骨を観て、頭部の骨はすべて変形した脊椎骨であると考えた。




▲四肢骨と脊椎骨、さらには頭蓋骨: 裏返り(8)

四肢の骨を、脊椎骨や頭蓋骨のメタモルフォーゼ、あるいは逆に器状の頭蓋骨が四肢の管状骨のメタモルフォーゼと捉えるのはさらに難しい。これを理解するためには、手袋の裏表が逆になるような裏返りを考えなくてはならない。

■ 《球》と身体の系(8~12)

▲中心と周囲(8~10)

骨格のメタモルフォーゼを考えるに当たっては、それぞれの部位で中心と周辺の関係が、それぞれに異なっている点を考慮する必要がある。中心は、頭部では内部に集約され、胸部では《遙か彼方》にあり、四肢系では周囲全体に球面状の部分が中心に当たる。 別な表現:頭部からは外に放射する動きが始まっている。それに対し四肢では、外から向かってくる流れがまとまり、密になり、四肢として目に見えるようになっている。四肢では身体的な部分は暗示に過ぎず、そこには同時に魂的なもの、霊的なものも働いている。

▲三つの《球》(11)

人間の身体は宇宙から作り出されているので、三つの球が相互に入り込んだものとして考えるとわかりやすい。 +宇宙全体を包括する最も大きな球を考え、その周辺部分から放射する線がやってきて、その最後の部分だけが身体として目に見えるようになっている。四肢系。 +二番目の球では大部分は見えず一部分だけが見えている。胸部系。 +最も小さな球があり、そこだけはすべてが見えている。頭部系。

▲頭部系と四肢系が胸部において合一する(12)

頭部には閉じようとする力があり、四肢系では自分を開こうとする力があるが、中央部の系ではその両者が交錯している。こうした力の対立は、肋骨の形態に見て取れる。肋骨の後方は背骨に向かって閉じ、また前方でも上部は内部空間を作る力が強く、胸郭が閉じている。それに対し、下方に向かっては広がる力が主になり、肋骨も一番下では左右が閉じていない。

■ 人間の身体と《宇宙の動き》(13~17)

▲エジプトとギリシャの彫刻芸術(13)

エジプト人やギリシャ人は、ここで三つの球として表現した人間とマクロコスモスとの関連に対して意識を持っていた。そのことは彼らの彫刻に現れている。エジプトではやや抽象的に表現され、ギリシャでは美しい調和として表現されている。

▲頭部と四肢:人間に向かう傾向と宇宙に向かう傾向(14)

頭部はそれぞれの人間の方に向かう傾向を持っている。それに対し四肢は、その中で人間が動き、事をなす、宇宙に向かっている。私たちはこのように宇宙と向かい合うとき《四肢的人間》である。

▲鉄道の乗客(15)

肩の上に静止している頭部は、宇宙の動きを静止にもたらすのが課題である。それは列車に乗客が静かに乗っているのと同じように、魂が頭部で静止している。頭部は―本当の意味で静止しているとは言えないが―四肢によって運ばれている。そして胸部は、動きと静止を仲介している。

▲ダンスと音楽 : 宇宙の動きの模倣(16~17)

惑星、星、地球自身の動きを四肢によって真似ることで、私たちはダンスをしている。この動きは胸を経て頭部に向かう途上で堰き止められる。肩の上で静止している頭部は静止的であり、動きが魂にまで入り込むのを防いでいる。その結果、魂で起きることと四肢のダンスとは関連する。不規則な動きでは魂は《文句を言い》、規則正しい動きでは《つぶやき》始め、調和的な宇宙の動きでは《歌い》始める。

■ 動きから静止へ、感覚知覚の根源と諸芸術の根源(18~19)

▲感覚知覚と芸術の根源(18~19)

音の知覚を例に、知覚全般の根源を説明している。頭部、つまり感覚器官は外的な動きを共に行うことはなく、動きを胸部に跳ね返し、それによって感覚知覚が生じる。四肢は、外からは見えない非常に繊細な動きによって外界の動きを真似している。そして、それが静止させられることで、内面において対応する音や色などを知覚している。 外に向かって彫刻や建築芸術であるものが、内から外への反射によって音楽的な芸術になる。―色彩とは静止に達した動きである。

■ 人間の霊的本性の喪失。《霊の否定》の結果としての自然科学的物質主義(20~22


▲時代の中でおろそかにされたこと(20)

裏返してみなければ、手袋について半分しかわからないのと同じように、外側に現れた部分のみを見ていては、人間について半分しか理解できない。

▲《全体的》人間の喪失―宇宙とのつながりの喪失(21)

人間の四肢部分では霊的、魂的、体的人間という人間全体が(大きな球として)現れている。また、胸部人間では魂と体が(中くらいの球として)現れ、頭部人間は単に身体(最小の球)として現れている。一八六九年のコンスタンチノーブル公教会会議において、人間が持つ最大の球、すなわち霊について知ることが禁止された。それによって人間と宇宙との関係に翳りが生じ始めた。一人ひとりの人間では、ますますエゴイズムに沈み込み、宗教自身もエゴイスティックになっていった。

▲それぞれの身体系での発達の相違。物質主義的進化論(22)

自然科学における物質主義の主因は、前述のカトリック公教会会議における《霊性の否定》、つまり人間の四肢本性の隠蔽にある。そこから進化に対して誤った結論が導き出された。 人間の身体で最も古い部分である頭部について言えば、それは動物界に由来している。胸部は後になって頭部に付加されたので、頭部ほどには動物的ではない。四肢はさらに後になって付け加えられたのであるから、その意味で最も非動物的で、最も人間的な器官系である。―四肢の真の本性が意識から消されてしまったために、人間を考えるに当たってますます頭部を中心に考えるようになり、そこから物質的進化論という大きな誤りが生じた。つまり、頭部が動物から生じたというだけでなく、人間全体が動物に由来すると考えられるようになった。

■ 授業の《神聖化》(23)

この講義のテーマは人間の体的考察であるが、実は「物質主義の原因は何か」という問いが主要テーマであることがわかる。教師が文化的事実に対して、根拠のある見識を持つことは重要である。なぜなら、それがあってはじめて、教師は《人間形姿》への正しい敬意を持つことができるからである。子どもの中に、これから少しは進化すべき小さな《家畜》を見るのではなく、宇宙全体につながりをもつ中心点としての人間を見るのである。 こうした感情は授業を神聖なものにするし、子どもとの地下のつながりを作りあげる。ちなみに、電信は一本の電線で可能であるが、それは大地の地下のつながりがあるからである。 教育とは一つの芸術、偉大な命の芸術でなくてはならない。それに対して必要な感情が、広大な宇宙について、さらにはその宇宙と人間との関係について考察することで実るのである。

『一般人間学』レーバー要約、第11講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 序論 : 話の進め方について(1~2)

人間身体の本性を霊的・魂的側から観察すると、肉体の構成や発達を理解する助けになる。最も基本的な観方は頭部、胴部、四肢という人間の三層構造であり、これらはそれぞれ魂的、霊的に異なったありようをしている。

■ 個々の器官系における体魂霊の相互関係(3~9)

▲人間の頭部形成(3)

頭部は主に体であり、胸部は《体的》で魂的、四肢は《体的》、魂的・霊的である、という第10講の内容を振り返る。それでも実際には頭部も魂的・霊的ではあるが、その様子が胸部や四肢と異なっている。―頭部は胚発生においても最初期に形成されてくるが、人間全般に対応するものが最もはっきりと現れてくる(頭部の胸部的な部分=鼻部 頭部の四肢的な部分=顎)。頭部がすべての部分を最も完備しているのは、動物界全体を貫きすべての進化段階を経て人間に至っているからである。―そこにある意識状態を見ると、頭部では体的に最も完成しているがゆえに、魂的なものは夢見、霊的なものは眠っている。

▲頭部人間における体魂霊(4)

頭部では、魂的なものは夢見、霊的なものは眠っている、という点については、人間成長全体から総合的に見ていこう。七歳までの子どもが周囲の世界を愛し、それと完全に一体になる模倣の存在であるのは、子どもの霊(および魂)が頭部の外側にあるおかげである。交歯によって誕生からの数年間続いていた頭部の発達は終結する。

▲交歯(5)

交歯によって肉体のフォルム形成は終わる。また外界との最初の関わりも終わる。

▲胸部形成(6)

胸部器官は誕生時にすでに体的・魂的であるのに対し、霊は夢見つつ外の周囲の世界に漂っている。頭部と比べるなら、胸部は初めからより目覚めていて、生き生きとしている。

▲四肢形成(7)

四肢には霊、魂、体が初めから入り込んでいる。新生児であるら四肢は目覚めているが、未発達、未形成である。

▲教育にとっての帰結(8~9)

初期に教育を行うことができるのは、四肢人間に対してだけであり、そこから少しだけ胸部人間に作用を広げることができる。なぜなら、四肢や胸部は頭部人間を目覚めさせるという課題を持っているからである。子どもの(頭部の)霊と魂は、教育者の前にいる段階ですでに非常に完成されている。したがって、霊と魂の不完全な部分だけを育てなくてはいけない。 そうであるからこそ、教育が可能なのである。そうでなかったら、教師は育ちゆく子どもの常に先を行っていなくてはならず、生徒も教師と同じくらいにしか賢くなれないし、同じくらいにしか天才的でありえない。―知的なものに関しては、教師は生徒に先行している必要はない。しかし、モラル的なもの感情的なもの―つまり、教育にとっての唯一の目標と言ってもよい意志と感情の育成については、自分に可能なあらゆる努力と自己教育を行う必要がある。

■ 言語を介した魂的な教育(10~11)

これまで述べてきたものの他にも《教師》が存在する。それは言語の叡智であり、これは私たち自身よりもずっと賢い。言語は子どもの意志に働きかけ、そこから眠った頭部を目覚めさせる働きがある。

■ 自然から与えられた教育手段…母乳(11~13)

▲問題(11)

本来、眠った頭部の霊性を目覚めさせるために、誕生したらすぐに意志の教育が必要である。手足をばたつかせるだけのこの時期には、赤ん坊に体操やオイリュトミーをさせることも、音楽やその他の芸術的活動をさせることもできない。そうなると、言語が働きかけ始める少し後の時期と、この誕生の時との間に大きな隙間が生じてしまう可能性がある。もし、その隙間を埋める何かを自然の叡智が用意してくれなかったとしたら。

▲母乳(12)

この隙間を埋めてくれる叡智とは母乳である。母親の四肢器官から生じ、その四肢的力を内に秘めたこの素材の役割とは、子どもの中に眠っている人間霊を目覚めさせることにある。―世界に存するあらゆるものは、人間との関係を持っている。

▲魂的、そして自然的教育。まとめ(13)

誕生直後から、自然なる教育手段である母乳によって行われてきた教育を、模倣を通して自ら何かを行うことや、言語によって、教育者は正しく引き継ぐことができる。その際に常に注意しなくてはならないことは、教育を頭部に向けて、決して障害を与えてしまわないようにすることである。なぜなら、頭部は誕生してきた時に、すでに発展させるべきものすべてを持ってきているからである。

■ 文明諸技術(14~15)

▲霊的世界と地上的世界(14)

霊的世界、地上的世界は、それぞれに独自の法則に従っており、それらを決して混同してはいけない。この数千年の間に発達し、さらにはこれからも伝統や因習として受け継がれて行くであろうあらゆる文明諸技術は地上的世界のものである。霊的存在たちは人間の言葉を話すこともなければ書くこともない。―読み書きを《胸部や四肢》を介して学ばせることができれば、それが子どもにはよい。

▲芸術の要素からの読み書きの授業(15)

七歳児に対して、通常のやり方で読み書きを学ばせることはできる。頭部の霊性がこの年齢でもある程度は目覚めているからである。しかし、そうすると頭部の霊性に傷を負わせることになる。それゆえ、読み書きの授業は線描、絵画、音楽的要素で行う必要がある。文字のフォルムを線描から導き出すと、子どもを四肢人間から頭部人間へという流れで教育することができる。知的なものが意志を調教するのではなく、意志が芸術的な道を介して知的なものを目覚めさせるのである。

■ 《子どもは成長しなくてはいけない》(16~20)

▲魂的手段による成長の助長と抑制(16)

子どもの最も重要な活動は成長である。教育や授業はこの成長を阻害するのではなく、それに付随するものでなくてはならない。交歯までは頭部から発するフォルム形成が主であるが、第二・七年期では命の発達、つまり胸部からの成長が主となる。―教師は自然の働きを助ける役割を果たさなくてはならない。それができるためには、どのような魂的な教材が子どもの成長をゆっくりにしたり、加速したりするかを知っている必要がある。ある程度までは、子どもを《のっぽ》に引っ張り上げたり、小柄にとどめたりすることができるのである。

▲ファンタジーと記憶が成長に及ぼす影響(17~20)

子どもの記憶力にあまりに強く働きかけると、子どもは細く上に伸びる。またファンタジーに強く働きかけると、子どもの成長を押しとどめることになる。このように、記憶とファンタジーは成長発展力において不思議な関係を持っている。 成長を偏らせないという努力において、子どもの身体的成長を繰り返し観察し、その間に授業で行ってきた内容との関係を吟味することが非常に助けになる。それをきっかけに、その後の授業でファンタジーと記憶のバランスを取り、生じうる偏りを補正していくことができる。 こうした手段が講じられうるには、教師が何年も担任をすることが前提になる。それによって初めて教師は生徒を知ることができる。―授業内容の影響ではなく―ファンタジータイプ、記憶タイプの子どもがいることがわかるし、子ども自身が持っている成長傾向も認識できる。そして、状況によっては授業でそれらを調和させることもできる。こうした現象において、体と魂の関連は非常に具体的に見て取ることができる。 現実の世界ではすべてが相互に関連しあっている。そうした関連を認識するためには、《正しい》定義を得ようとしてはいけない。定義とは、諸現象を常に分離し、孤立化させる。そうではなく、私たちの理解力を、生き生きとした概念という意味で、動きのあるものに保たなくてはならない。

■ まとめ(21)

霊的・魂的なものからは、自然に体的なものへとつながる。中心となる教育手段は、子どもの成長年齢によって異なる。最も初期には自然の叡智が母乳を与えてくれているし、その次には言語と行為によって魂的に成長する。第二・七年期の子どもではあらゆる教育が芸術的でなくてはならない。そして、小学校を終える頃には、第三・七年期の教育において特徴的なものが輝きと共に入り込んでくる。自立した判断力、個としての感情、自立した意志衝動である。

『一般人間学』レーバー要約、第12講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 課題 : 世界の中における人間身体の位置づけ(1~2)

人間の肉体は、周囲の物質的・感覚的世界との関係で見なければならない。人間はその周囲の世界と相互に関係し、それに養われている。また人間は、鉱物界、植物界、動物界とも類縁関係にある。しかし、そうした類縁性が見えるようになるのは、自然界の深い領域に入っていったときである。 人体の体的・物質的なものとは、骨格、筋肉、血液循環、呼吸、栄養摂取系、貯蔵器官、内臓、脳と神経、感覚器官である。ここで述べられるのは、これらの器官や機能と外界との関係性である。

■ 頭部器官とそれの動物界との関係―エーテル体(3~6)

▲進化における人間の位置(3)

そこに神経系も組み込まれている脳・神経系は、とりあえずは人間において最も完成したものであり、時間的に最も長い発達を遂げてきている。これは動物界のさまざまな形態を凌駕しており、最も人間的な系である。

▲頭部の形態形成的な役割(4)

第1・七年期では、頭部からの働きかけで絶えず胸・胴部系、四肢系の肉体的フォルムが形作られている。こうした働きは交歯と共にある種の終点を迎える。それでも頭部は魂に満たされ、霊に満たされつつ、その後も身体の諸形態を保っていく。

▲形成と超感覚的な動物形態の克服(5)

頭部から生じる諸力は、本来の人間的形姿を目標にしていない。むしろ頭部は、自然界に見られるさまざまな動物形態を形成しようとしている。胴部や四肢は、こうした諸フォルムが実現しないように働いている。つまり胴部・四肢系が絶えず動物フォルムを克服し、それを人間フォルムに変容させようとしている。

▲対動物界としての思考(6)

人間の思考に超感覚的に対応するものとは、絶えずメタモルフォーゼしつつ、頭部から下へと流れる動物的なものである。考えとは変容した動物界である。―頭部があまりに多くの動物形姿を発生させると、それを受け入れる他の諸器官が反抗し、たとえば偏頭痛が生じる。

■ 胴体系および植物界との関係―アストラル体(7~11)

▲人間の呼吸と植物の同化作用(7~8)

血液循環、呼吸、栄養摂取などを伴う胴部・胸部系は、植物界と相互作用を行っている。もし人間が呼吸によって生じる二酸化炭素を体内に止めて、酸素を放出し、体内の炭素へと変化させると、人間の中に《完全に植物的な成長》が生じる。なぜなら、それはまさに植物が行っているプロセスだからである。植物は酸素を放出し、炭素からデンプンや糖などを作り、それを元に身体を作り上げる。植物界とはメタモルフォーゼした炭素である。人間の呼吸の裏返しとして、植物ではそれとは逆な炭酸同化プロセスが対応する。

▲植物的プロセスの克服、反植物的なものの領域(9~10)

人間が突然に植物界に溶け込んでしまわないのは、頭部や四肢がそれに対して抵抗しているからである。それは、人間が二酸化炭素を体外に排泄し、植物界が外なる自然界で発生できるようにしているからである。こうしたやり方で人間は体内に《植物的なものの反対王国》《植物界の負像的なもの》《逆植物界》を作っている。

▲胴体系から発する疾病的傾向(11)

頭部・四肢系が弱いために生体内に生じる植物界を抑えることができなくなると、人間は病気になる。したがって、外の植物界には私たちの病態の像を見ることができる。色彩豊かな植物界で働いているものは、それが人間の内部で形成されると病気の原因になる。個々の病気について、それに並行する植物界と事柄を見つけることが医学の課題である。それとともに、毒草の問題が提起されている。

■ 胴体系 : 燃焼プロセスと栄養(12~15)

▲人間内の燃焼プロセス: 自然プロセスの中間部分(12)

呼吸の場合と同じように栄養摂取においても、人間は周囲の世界から物質を取り込み、それを―呼吸で得られた酸素の助けを借りて―変容させる。しかし、その際に生じる燃焼プロセスでは、最初の部分と最後の部分が欠け、中間部分だけである。未熟な果実や腐敗した果実を食べると、燃焼の最初の部分や最後の部分が体内に生じ、病気になる。

▲自然プロセスの中間部に、呼吸に魂を与える: 魂と体の結合(13)

呼吸と栄養摂取との結びつきとは、魂(非植物界)と体(自然プロセスの中間部)との関係の基盤である。人間は呼吸プロセスによって、自然プロセスの中間部に魂をつなげる。

▲未来の医学をスケッチ(14~15)

ここで論述から、未来の医学をスケッチできる。外界の植物的プロセスにおける熱、風、水などに人間がさらされたとき、それらはどのように人間に働きかけるかを研究する必要がある。病気の原因をバクテリアやウィルスに求める代わりに、どうして人間の体内に、バクテリアが《好ましい滞在場所として嗅ぎつけ》てくる、ある種の植物的プロセスが生じ始めるのか、という問いに注意を向けるのである。

■ 骨格・筋肉系および鉱物界との関係―自我機構(16~21)

▲私たちの身体の機械部分(16~18)

人間が動く時には、身体の機械部分全部を動かす。そこでは力学的な力、特にテコの原理が働いている。もしそうした力だけを写真に撮ることができたら、たとえば歩いている様子を帯状の影として捉えることができる―物質の中にではなく、それによって身体を動かしているこうした力の中に自我は生きている。可視的な身体はそれに引きずられているだけである。

▲四肢系の力による結晶形成と抑制(19)

前述の力からなる身体の役割は、栄養物と共に摂取された無機成分がその本来の結晶形になるのを妨げることにある。つまり、地上的な結晶形成に対抗することである。

▲糖尿病と痛風: 体内の病的な結晶化(20)

四肢による溶解作用が弱すぎる場合、たとえば糖尿病や痛風といった病気が生じる。こうした病態への対抗物質としては、感覚器官、脳、神経器官に生じる《仮像物質》―崩壊的物質として―を用いることができる。

▲まとめ(21)

この第十二講で語られたアントロポゾフィー的・人間学的内容は、新しい教育実践の基本となる。

『一般人間学』レーバー要約、第13講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 導入:洞察を活動に応用する(1)

これまでの講演で、人間と外界との関係について洞察され、得られたことは実践に応用されるべきであろう。

■ 人間の中の霊的・魂的な流れ(2)

頭部と四肢のつくりは違っている。 :頭部は内側から押し広げるように、四肢は外から内に向けて押しつけるように形成される。しかし、どちらの場合も根底にあるのは、人間全体を貫く霊的・魂的な流れである。そうした流れは手のひらや足の裏を通して身体の外から中へ入り込み、額の部分を内から外に押しているし、それは《内的人間的なもの》として現れている。

■ 霊的・魂的なもの:内側でせき止められ-外から吸う(3~9)

▲身体は霊的・魂的なもののせき止め装置、そしてそれに吸い取られる(3)

霊的・魂的なものは本来何の抵抗もなく人間を通り抜けようとするが、人間はあたかも堤防の役割を果たし、それをせき止めている。また、霊的・魂的なものは外的肉体的な人間を絶えず吸い取っている。

▲破壊と構築。胸部・腹部系の持つバランスを取る役割(4)

霊的・魂的なものが外側から人間を吸い込み、破壊しようとしている。外側に向けて出続ける垢はその結果である。胸部・腹部系は身体構築の役割を果たし、人間を物質的に満たす。そしてそれによって破壊との間のバランスを保つことができる。それがなかったら、四肢は物質的に存在することができない。四肢は本来、霊的特性を持つ。四肢を動かすと、外界の霊が身体的にそれを食い潰していくので、それに対し常に物質的にバランスを取る必要があるのである。

▲過剰な物質としての脂肪(4~5)

胸部・腹部系が四肢で物質素材を多く作りすぎそれが壊されないと、霊的・魂的なものを含まない物質である脂肪が蓄積される。脂肪は霊的・魂的なものにとっては障害物となり、頭部への流れに負担がかかることになる。そして頭部が空になる。それ故、特に子どもでは強すぎる脂肪プロセスを防ぐことが重要である。そうでないと、宇宙的プロセスの活動が少なくなってしてしまう。

▲神経の発生と血液の運搬機能(6)

人間の頭部では霊的・魂的なものがせき止められ、そこで跳ね返される。それによって脳に物質が沈殿する。それゆえ生きた組織である神経に死んだ物質が生じる。霊的・魂的なものは神経系に沿って人間内を通っていくが、それは崩壊していく物質が必要だからである。

▲霊的・魂的なものが人間内でどのように働くか。三通りの霊概念(7~9)

霊的・魂的なものは人間中では三通りに働いている。そして、生きた生体に対する関係と、物質的な死んだものに対する関係は異なる。生きたものは霊的・魂的なものにとって密で不透明なもので、それを止めてしまう。死んだものは、光にとっての透明ガラスのようにそれを通す。血液と神経の対極性はこのように特徴づけられる。-命ある生体的なものをきっかけに霊が働き、それによってフォルムができ、生体が形を持つ。

■ 身体的労働と霊的労働(10~17)

▲外からの霊、内からの霊-ある逆説(10)

肉体的に働くとき、人間は完全に霊の中で泳いでいる。精神的(霊的)労働の場合は逆に、内側で霊とかかわり、身体はこの活動の道具になっている。そのことは身体での諸プロセスに現れている。こうして一つの逆説が生じる。肉体的労働は人間にとって霊的であり、霊的(精神的)労働は人間内で体的である。

▲肉体的労働、疲労と眠り(11)

過度な肉体労働によって、人間は、外からやって来る霊に洗われ、その霊とあまりに強く類縁関係を持つようになる。人間は霊に圧倒され、それに服従せざるをえず、長く眠る。また眠りすぎると胸部・腹部系が強く刺激されすぎ、人間は熱くなる。

▲意味のない行為と意味のある行為。体操とオイリュトミー(12~13)

怠け者であっても、一日中手足を何らかの形で活動させている。しかし、行為に意味がなく、それゆえ意味のある行為よりも多くの眠りをそそることになる。意味のある行為では、私たちは霊を内に取り込む。その霊と意識を持った状態で協働し、睡眠中の無意識的作用をあまり必要としなくなる。 意味のない活動では、動きが身体の要求にしたがっているだけである。意味のある活動とは、周囲の求めに応じた行為である。この相違は教育的に重要である。こうした違いは、たとえば純粋に生理学的な体操(スポーツ)とオイリュトミーの違いとして見られる。しかし、一方だけが正しいと言っているのではなく、両者のリズミカルな振れが望ましい。 過度なスポーツ活動は、実践的なダーウィニズムである。これによって人間を家畜的な感じ方をする存在へと引き落とそうとしている。 この事柄は、これだけラジカルな言い方をする必要があり、また教師はこの関係性を理解している必要がある。なぜなら、社会的にも働きかけなくてはならないからである。

▲霊(精神)的活動と眠り(14)

精神的な仕事では、必ず生命的物質の破壊が伴う。しかし、それが行き過ぎると眠りを妨げる。しかし、読書や講座でも、内容を本当に考え、感じ取りながらたどろうとしても、それが非常に不慣れで大きな努力を必要とするような思考作業だと私たちは眠り込む。

▲《すべてを関連の中で考えなくてはならない》(15~17)

内的な死滅プロセスに対抗するひとつの可能性がある。対象に意識を向け、関心を持つことで、それをよく観ることや考えることの中に感情が付け加わり、それによって胸部が生き生きと活動するようになり、物質が命あるものに保たれ、睡眠に対する影響も少なくなる。 試験の準備では対象に関心を持たずに多くの事柄を覚え込まなくてはならない。これによって内的営みが無秩序になっていく。それゆえ、子どもに対する試験は止める方が望ましい。これは一つの理想なので、急ぎすぎないこと。社会状況を変えるためには、人間が別様な考え方を身につけたときである。 命の諸現象を考察するときには、関連性を忘れてはいけない。教育的、社会的、衛生学的な革新を目指す標語は以下である。外に向かっては仕事を霊化し、内に向かっては知的仕事に血を通わせること!

『一般人間学』レーバー要約、第14講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 人間の身体形態の三層構造(1~9)

▲身体の二つの形成原則(1)

人間の魂は三層構造であるが、身体の外観も三層に見える。これは主に、表象と意志が対極であるのと同じく、頭部と四肢での形成力が対極的であることから来ている。頭部では内から外に向けての力、四肢では外から内に向けての力である。(胸部・胴部形成はその両者の中間をなしている)。

▲頭部系(2~4)

頭部は動物段階を一通り通り抜け、それを超えた存在であり、人間の全体を表現している。鼻関係は、-形は矮小化してはいるものの-胸部を代表し、肺のメタモルフォーゼである。また顎を含む口の領域は代謝や四肢と関連している。

▲四肢系(5~6)

四肢の外形は、基本的に顎部分の変形である。腕や手は上顎、脚や足は下顎に相当する。このように四肢を顎と見た場合、物を《噛む》場所は、上腕部や大腿部の身体付着部分である。それに付随する頭部は、巨大で不可視で《外側のどこか》にある。その巨大な人間は、人間に口を向け、-死によって完全に消耗するまで-絶えず人間を消耗させている。この霊的な頭部は、人間を食い尽くすために、その極わずかな一部だけが物質的なのである。

▲霊への献身の犠牲(6)

《私たちの生体は、差し込まれた口である霊性に絶えず吸い込まれている》。このような霊に対する献身・供犠が、四肢と他の身体部分との関係に表れているのである。

▲胸部における上方への形成的傾向(7)

胸部では頭部的本性と四肢的本性が混ざり合っている。胸部は上に向かうにしたがって頭部になろうとする傾向を持ち、下に向かっては四肢になろうとする傾向を持つ。胸部は上に向かって頭部の写しとなるものを作り出している。それは咽頭で、言葉の中には頭部的な要素が生きている。言語は、空気中に頭部の欠片を作り出す誘惑から始まり、それが波として伝わり、身体的形となった頭部でせき止められることで生じている。

▲言語の骨格系としての文法(8)

交歯の前後で頭部が身体として完成する。そうしたら、言語を一種の魂的骨格として理解する方向に、授業を進めることができる。具体的には、文法的要素を育てる。《言語に由来し、読み書きに働きかける要素》である。

▲胸部における下方への形成的傾向(9)

胸部において下方へは、密になり、物質化した四肢的本性が組織されている。これが男女の性の根本である。この四肢的本性に由来する力が完全に現れるのは性的成熟期になってからであるが、小学校高学年頃には、魂的営みの中に入り込んでいる。

■ 教師のための三つの《定言的命令》(10~19)

▲授業の中で子どもたちのファンタジーを刺激すること(10~12)

12歳から15歳にかけては、とりわけ内的な温かさや魂的な愛に満たされた活動が現れてくる。それがファンタジーである。この世代を教えるに当たっては、生徒のファンタジーをかき立て、その後に生まれてくる判断力の下地として浸透するように、すべての教材を準備しなくてはならない。歴史、地理、物理といった科目がこれに該当するが、-シュタイナーはレンズ、眼、暗室を結びつけることを例に出している-代数や幾何にも当てはまる。ピタゴラスの定理を教えるにあたっても、単に悟性に働きかけるだけでなく、ファンタジーに訴えることもできる。

▲《おまえのファンタジーを生き生きと保て》(13~15)

教師と生徒との関係が《合っている》と、生徒の中に実際にファンタジーが生まれ、それを育てることができる。そのためには、教師自身が教材をファンタジー豊かに作り上げる必要がある。教師は教材を《感情を伴った意志》で完全に満たし、それも常に新しく満たす必要がある。なぜなら、新鮮なものがあって初めてファンタジーは生き生きと保たれるからである。単なる繰り返しは、作り上げられたものであっても、悟性的なものとして凍り付いていく。 教師は決してぼけてはならず、教条主義に陥ってもいけない。したがって教師のための第一の《定言的命令》は、「おまえのファンタジーを生き生きと保て」である。-これは、授業の内的なモラルを言っている。

▲内的な熱(16~17)

-これまでの講義内容-基礎的な人間認識があってはじめて、教育的モラルを内的な熱で満たす内的な力が作り出される。

▲《真実への勇気! 魂的な責任感!》(18~19)

内的な熱やファンタジーといったものは知的詰め込みや、怠慢へ向かう傾向の正反対である。物質主義的思考はこの傾向を助長する。それに対し、主知的なものが霊から得られた考えによって《味付け》られると、ファンタジーという道筋を経て、そこに翼が生えるのである。 十九世紀中盤に、授業、および人間の認識活動からファンタジーを徹底的に排除する傾向が起こった。(教育の中に生き生きとした精神を持ち込んでいた最後の人物がシェリングである。)その根底には、ファンタジーは非真実に堕する、という恐怖である。しかしそこには、自由に自立的に考える勇気が欠けている。したがって教師のための第二の《定言的命令》は「真理に向かっての勇気を持て!」である。-それは、個々人に対し、真理に対しての強い責任感情を育てることを要求する。「真理に対して強い責任を持て」、というのが三つ目の《定言的命令》である。