2015年2月1日日曜日

『一般人間学』レーバー要約、第02講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 新たな心理学の必要性(1)

▲新たな心理学の必要性(1)

最初の大きな課題は、未来の教育の礎となる現実的な心理学を新たに基礎づけることである。なぜなら、意識魂の時代に入った現在において人間の魂を真に捉えられていないからである。伝統的な心理学の概念には内容がない。たとえば、表象や意志についての正しい概念を持っていない。その理由の一つは、人間を宇宙的な関連の元で見ていないからである。この関連を認識して初めて《人間本性そのものの理念》が得られる。

■ 表象と意志(2~6)

▲表象の特徴は像的であること…誕生前の鏡像(2~4)

表象の最も中心になる特徴は、それが像的であることである。たとえば私たちは、鼻や胃といった存在要素を持ち、それを自分のものと感じている。表象的把握では、対象と一体となるのではなく、まさに対象と距離を置くことでそれを捉えている。その意味でデカルトの「我思うゆえに我あり」つまり、認識が存在の証明になる、という発言は誤りである。

思考的活動もさまざまな像の動きである。表象によって空間内の物体の像が写し出される。それと同様に、表象には誕生前の体験が写し出される。誕生前から絶え間なく流れ込んでくる体験が人間の身体性にはじき返される。それゆえ、表象は誕生前に人間が存在したことの証明である。

▲意志の萌芽的性格ー死後を指し示すもの(5)

意志とは認識の終着点である。なぜなら、それ自身は何の内容も持っていないからである。(意志に内容を意識することはあっても、その内容は表象から来ている)。それは私にとっては萌芽として存在していて、死後に私たちの中で霊的・魂的現実になる。

▲表象と意志のまとめ(6)

表象と意志の対極性がまとめられている。像(表象)とは現実以下のものであり、萌芽とは現実以上のものである。そこには後に現実となるものの素地が含まれているのだから。ショーペンハウアーは意志の霊的性質を予感はしていた。

■ 魂の営みの対極性:意識されない反感と共感(7~15)

▲反感と共感ー魂界の鏡(7~9)

像的な表象と萌芽的な意志の間に、物質界の現在を生きる人間がいる。誕生前のものを跳ね返すことで像を作り出し、意志は完全に展開させず、萌芽にとどめている。こうしたことはどのようにて起きているのか?

魂界には反感と共感の働きがあり、そこから人間には意識されない反感と共感の力が働いている。私たちは地上界に降りてくるが、それによって霊的なものすべてに対して反感を発達させる。その反感によって誕生前のリアルを表象像にまで変容させる。意志活動は死後まで突き抜けていくが、これと私たちとを結びつけるのが共感である。この二つの力は意識されないし、またこの両者の交互作用が感情の原因である。

▲反感(10)

反感の中で人間は命や誕生前の世界すべてを跳ね返す。この成り行きには認識の特徴がある。認識は誕生前には密度の高い現実として存在している。そしてそれが反感と出会うと像にまで弱められる。今日肉体的な人間として私たちが表象をする際の力は誕生前からの余韻である。

▲反感の段階(11~12)

反感が強められると記憶像、記憶が生じる。つまり、人間は表象に対して一種の吐き気を催し、それを押し返し、それによってそこに現れさせる。像的表象、記憶への跳ね返し、像的なものの保持、というプロセスが行き着くところが概念である。

▲共感(13~15)

表象では反感が必要であるのに対し、死後の萌芽である意志では共感が必要である。その共感が高まるとファンタジーが生じる。これが人間全体に浸透して感覚にまで至ると日常的な意味でのイマジネーション、つまり知覚像的イマジネーションが生じる。抽象によって表象するのではない。たとえばチョークを見て《白》の知覚が生じるのは、意志の力、つまりファンタジーからイマジネーションへと至る共感的力をつかっているのである。一方、概念は記憶に由来する。

共感、反感との関連で上述の区別をしたときにはじめて、人間の魂を捉えることができる。死後の魂界ではこの両者があからさまに現れる。

■ 魂と身体形成とのつながり(16~20)

▲神経系(16)

人間の魂的様子は身体にも現れる。誕生前の魂的なものは反感、記憶、概念を経て人間身体にまで至り、そこで神経組織を形成する。また、知覚神経と運動神経の区別は「無意味」である。

▲血液(17)

意志、共感、ファンタジー、イマジネーションは萌芽的なものに留まる。生じるそばから消滅していく。人間の身体においても、物質的にできあがってもただちに霊的状態に移行しようとするものがある。これは利己的な愛によってどうにか物質性を保つが、最後には破壊される。これは血液である。

▲「血はまったく特別な液体だ」(18)

血液には霊的なものへと舞い上がろうとする傾向がある。死に至るまで血液を体内に留めておくためには、絶え間ざる消滅と新生が必要である。その役割は吸気と呼気が担っている。

▲神経と血液の対極性(19)

つまり、私たちの内には両極のプロセスがある。血流に沿ってのプロセスは私たちの存在を霊化しようとし、(運動神経と言われているものは本来は血液の流れである)神経に沿っては、物質化しようとする。神経経路に沿って物質が分泌、排泄される。

▲神経を理解することの教育的な意味(20)

この基本原理を考慮すると、子どもを身体的にも魂的にも健康に教育することができる、つまり衛生的な授業ができる。(このテーマは後の講演でさらに検討される)。誤った教育がはびこっているのは、人間本性を認識できていないからである。例を挙げれば、感覚神経と運動神経の区別する認識は間違っている。特定の神経が傷つくと歩けなくなるといのは、《運動》神経が麻痺するからではなく、自分自身の脚を知覚できなくなっているからである。

■ 人間と宇宙の関連…身体におけるその三重の現れ(21~28)

▲共感と反感の身体における現れ(21~22)

人間本性は宇宙的なものとの関連を考えて初めて理解されうる。表象では宇宙的なものが誕生前から、意志では死後から働きかけている。私たちの中で無意識に広がっているものは、宇宙における高次の認識では非常に意識化されている。

共感と反感は体においては三重に表れている。つまり、神経活動が中断され飛躍があるところに三つの炉がある。頭部神経、脊髄、自律神経系の神経叢である。感覚神経から運動神経に受け渡されるのではなく、ある神経から別な神経に直線的に伝わっていく際に跳躍がある。それによって私たちは魂的に動かされるのである。

▲頭部と四肢の対極性(23~25)

経験は私たちと宇宙を結びつけていて、行為は宇宙においても終わることなく継続する。逆に私たち自身は宇宙の共感と反感が展開した結果である。

私たちの身体は頭部、胸部、四肢というように分節化している。それでもこの3つの系は厳密な境界で分断されてはおらず、むしろ徐々に移行している。頭部は主たる頭部であり、他にも《二次的頭部》がある。胸部、腹部系についても同様なことが言える。たとえば、脳にいても栄養系があり、それが大脳に入り込んでいる。脳外皮(浅灰白層)は退化した栄養器官である。私たちの脳が動物より優秀なのは、栄養供給が動物の脳より優れているからである。認識そのものは脳によるのではなく、脳では単に認識が身体的に現れるのである。

四肢を含む下半身と頭部が対極をなしている。頭部系は宇宙からはき出されたものであり、頭部は宇宙からの反感によって形成されている。人間が内に持つものに対し宇宙が吐き気を催し、吐きだしたものが頭部である。頭部は宇宙の写しであり、自由にかかわる器官である。それに対し生殖器官を含む四肢は宇宙に組み込まれている。宇宙は四肢に対して共感を持っている。宇宙の反感と私たちの反感が共に働くことで感覚知覚が生じる。四肢系のあらゆる内的な営みは、宇宙が愛と共に私たちの四肢を揺らすことに拠っている。

▲教育に対する帰結(26~28)

意志と表象が対極として向かい合っているということは、教育にも関係する。表象形成の方だけに偏って働きかけると、人間全体を誕生前のものに向かわせることになり、意志がすでに役割を終えたものだけにかかわることになる。抽象的な概念ではなく、子どもに像を与えることでこうした偏りを和らげることができる。それはファンタジー、イマジネーション、共感から出てくる。抽象化は炭酸形成を促し、身体を固くする。像は酸素を保持させ、生成へとつながる。なぜなら、それによって子どもは絶えず未来に、死後に向けられるからである。…私たちは像によって教育することで誕生前の活動を受け継ぐし、その像は身体を活動させることで萌芽となりえるのである。つまり、像によって私たちは全人に働きかけている。

こうした考えを自らの感情に受け入れることで、教育において不可欠な神聖さがえられる。

一方に認識、反感、記憶、概念、もう一方に意志、共感、ファンタジー、イマジネーションがあり、この両方の概念系列を知ることは教育実践に非常に有効である。

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