2015年2月1日日曜日

『一般人間学』レーバー要約、第07講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 方法論的前置き:一つの事柄を他の事柄と関連づける(1~3)

第7講は、これまでの論述の道筋を方法論的に振り返り、さらには現行の教育や心理学的概念を知る必要性を説くところから始まる。 ―そして再度、人間を魂的、霊的観点から重点的に見ていくと述べられる:魂的とは反感と共感の視点から、霊的とは(覚醒、夢、眠りという)意識状態の視点から見ることだ。 それに続き、認識方法の核心が述べられる:私たちが世界を理解するのは、ある事柄を他の事柄と関連付けるときだけである。観察には、感覚知覚による観察もあるし、魂的・霊的器官による観察もあるが、そうした観察だけでは十分ではないのである。観察対象を理解し把握するためには、その要素を他のものに結びつけなくてはならない。事柄を結びつけつつ人間の営みを見ていくことで、体、魂、霊の概念をしっかりと築き上げていく可能性が開ける。

■ 体・魂・霊の年齢における変化(4~9)

▲年齢による変化を身体的視点で見ると(4~6)

新生児の形姿、動き、生きている様子を見ると、人間身体についての一つの像が得られる。しかしこの像は完全ではなく、補完が必要だ。つまり、成人期、老年期も見ていく必要がある。そう見ると、中年期には人間はより魂的になり、老年期には精神的(霊的)になる。老年期に人が精神的になることの反例として、カントが晩年期に《ボケ》たことを挙げる人も居るかもしれないが、《ボケ》とは精神が衰えるのではなく、身体が衰え、精神界から送られてくるものを身体が受け取れなくなっているからである。実際には、老年期には人は賢くなり、精神性が豊かになる。 ここでミケレとツェラーという二人の教授が引き合いに出され、歳の取り方が人によっていかに異なるかが示される。

▲魂的観点からの年齢(7)

人生中期の人間では魂的な事柄が特に前面に出てくる。ただし、中年期の人の中には魂がなくなっているように見える人もいるが、これは魂的事柄を当人が自由に扱えることを示していると見ることができる。

▲子ども期における感情の意味(8~9)

子どもでは、感情が、思考ではなく意志と密接に結びついている。逆に老人では、成長の結果として、感情が思考的認識と一体となっていて、意志はそれらとは離れているように見える。感情を意志とのつながりから解き放ち、さらには思考と結びつけられるようにすることが教育や自己教育の課題なのである。 老人の魅力ある話とは、その人物のそれまでの生涯において個人的であった感性を、理念や概念と結びつけ、理念や概念に現実感が与えられ温かい響きを持ったものなのである。中年期の理念や概念は、理論的で抽象的であるが、そうではなくなったときである。

■ 感受の本質(10~19)

【訳注】感受と知覚:ドイツ語では empfinden(感受する)とwahrnehmen(知覚する)という語を区別している。たとえば、気づかずに漆に触れてかぶれた場合、皮膚で漆を感受してはいるが、知覚はしていない。この講でシュタイナーは「感受は意志的である」と言っているし、上のように考えれば不思議はないと思う。

▲第一の規定:意志する感情、感情する意志について(10~14)

例として、色彩、音、寒暖などを考えていただけばわかるが、私たちと外界との関係としてまず挙げられるのは感受である。しかし、心理学はこの知覚についてもわかってはいない。つまり、「外界の物理的な成り行きによって作り出された刺激が、完全に内面での営みである質としての感受になるのはどうしてか?」という問いを説明できないのである。しかし、ちょっとした自己観察によって、感受と最も近い関係にある魂的な力が、「意志する感情」あるいは「感情する意志」と類縁関係にあることを明確にすると、この問題を解決するためのヒントが得られる。感受と感情が近い関係にあることはごく少数の心理学者が認識していたし、一人がモーリッツ・ベネディクトである。彼の研究では、その基調は物質主義的で受け入れ難いものではあっても、個々の観察は素晴らしく非常に有意義である。

▲第二の規定:眠った夢、夢見る眠りについて(15~16)

身体表面は感覚領域とも言える。それについて魂的視点から述べれば、そこにあるものは(認識的な方向ではなく)感情する意志、意志する感情としての感受である。意識状態の視点から述べれば、感覚(感受)が営まれる身体表面では、夢見て眠り、眠って夢見ていると言える。(心理学などが)感受をきちんと捉えられないという事実と、目が覚めたときには夢をぼんやりとしか意識できないという事実の根拠は同じなのである。感覚知覚とは、悟性や思考的認識がそこにかかわる前は、私たちの身体表面における《夢》なのである。 ここで述べられていることを教育にまで応用するなら、子どもの知性だけを育てるのではなく、意志や感情も育てなくてはいけない、となる。人生を歩んでいく中で、感受はしだいに感情する思考(思考する感情)に近づき、そして晩年には感受が概念や理念と合流していくのである。

▲「言語的説明」は望ましくない(17~19)

感受は、年齢と共に意志的なものから悟性的・知的なものへと変容していく。これと関連して、概念もまた生きていて、変容していくものであることがわかる。概念とは本来、諸事実として示されるべきであるが、概念が生きていることを忘れてしまいると、概念を言語的に説明してしまい、現実から離れたものにしてしまいる。言語的説明ではなく、事物の精神に近付こうとすること、言い換えると事実同士の関係を探求すること、それが現実に根ざして認識するための基本条件なのである。 子ども、老人のそれぞれの場合で、身体とどのように関連しているかを述べ、「リアルな概念を得るためには、諸事実を相互に関連させること」という方法論的な基本原則に再度触れている。

■ 身体の各部位における意識状態 ―意識状態の空間分布(20~22)

▲神経系と思考(20~22)




頭部も夜には眠り夢見るが、それと似た意味で、人間は身体表面で眠り夢見ている。また、その度合いは、筋肉や血液系など、奥に行くにしたがってより深くなっていく。 霊的観点から、人間の身体地図における睡眠と覚醒を見ていく。まず、表面と内部器官において人間は眠っている。そして、誕生から死までの間では、両者の中間領域においてのみ人間は目覚めた状態を獲得することができる。その中間領域には神経系があり、それは体表や身体深部に向かって、神経線維を伸ばしている。この中間領域にあるのが、脳、脊髄、太陽神経叢である。 神経系は絶えず朽ち果て、鉱物化する傾向を持っている。ところが、腺、筋肉、血液系がこれを死なないように守っているのである。他の身体領域は霊的・魂的なものと直接関わっているが、神経にはそうした直接の関わりはない。思考の妨げにならない、つまり、魂的・霊的なものを持たない空の空間が確保されているので、その空の空間に人間の魂的・霊的なものが入り込めるのである。―生理学者や心理学者は神経の役割について諸説を出しているが、神経系はそのような活動は行っていない。もしそうした活動があるとしたら、私たちは神経系においても眠り込んでしまうことになる。 神経系は思考のための生体器官ではない。人間が認識能力を持つことができるのは、脳が人間の生体から切り離されているからなのである。

▲神経において人間精神と外界精神が出合う(23~24)

知覚過程は、人体周辺部で営まれているリアルなものであり、外界の出来事の一端でもある。そしてそれは、人間の身体内部、つまり、外界と同様に物質的・化学的なプロセスが進行している筋肉・血液領域にも入り込んでいく。中間領域は神経器官がそこを空に保ち、光や色彩の本性はその中間領域に流れ込んでいく。つまり、神経がこの領域を空にしてくれていて、そのおかげで、そこにおいて外界に存するものと営みを共にすることができるのである。この意味において、私たちは自分自身が光、色彩、音になるのである。 外側と内側の中間領域のおいてのみ、私たちは完全に目覚めていることができる。

■ 記憶と忘却(25~27)

霊的観点から人間を観るにあたっては、時間的関係も考えなくてはならない。たとえば、他者に意識を向けると、完全に目覚めた意識の中で表象が作り上げられるが、これが時間と共にどのように変化するかが取り上げられる。そして次のことがわかる。忘却とは表象複合体の入眠であり、想起とは表象複合体の目覚めだということがわかるのである。こう見ることによって、一連の魂的活動が―単なる用語説明ではなく―生活のリアルな出来事と関連づけられるのである。

■ 結語:社会三層構造についてのコメント(28~30)

最後に、講演全体の中心モチーフ、つまり霊的・精神的に世界を捉えるための基本条件とは現実を相互に関連付けることである、ということが繰り返される。 現実から生きた概念を得ることの例として、社会有機体の三層構造についても触れられる。この考えはなかなか理解されないが、その理由は、大多数の人間が単なる表面的な言葉で議論することに慣れてしまっているからである。 この考えがなかなか理解されないという困難も、時代の流れを表している。そうした困難も含めて、教育者はこの時代を掴んでいなくてはならない。なぜなら教師は、そうした時代から教えるべき子どもたちを委ねられているからである。

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