2015年2月1日日曜日

『一般人間学』レーバー要約、第09講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ よい教育のための条件: 事実世界の認識(1~3)

▲《教育的本能》(1)と話の進め方(2)

子どもを真に事実認識すると、それが教育的本能を目覚めさせる基礎になる。 これまで人間を霊的な視点から捉えるにあたり、意識状態の違いを問題にしてきた。ここからの話は、霊から魂、体へと進み、成長過程にある子どもの健康管理の話へとつながる。

▲二十歳までの三段階(3)

教育に関して言えば、成長を三つの段階に分けることができ、それぞれに特徴がある。交歯までの子どもは、模倣存在である、という特徴を持つ。交歯から性的成熟までの子どもは、内面本性の奥底から権威を求めている。そして性的成熟を迎えると、自らの判断で周囲の世界と結びつき始める。

■ 認識的思考と論理(4~6)

▲論理的思考の発達(4)

地上に生まれた人間の思考は、本来、論理的である。また論理とは学問的なものでもあり、教師はそれを自在に操れなくてはならない。しかし、子どもに論理を教えるにあたっては、教師はまずそれを自分自身の行動で示す必要がある。

▲結論(結びつけること)、判断、概念の三ステップ(5)

 論理的活動、つまり思考的認識的な活動は、結論(結びつけること)、判断、概念の三段階のステップを踏んで行われる。この順はまず言語と結びついている。つまり、話をするときには、絶えず何かと結びつけている。それだけでなく、この順は、あらゆる営みと関連している。《動物園のライオン》というのがよい例になるであろう。 -ライオンを見た知覚を意識にもたらし、それを全体の知覚の中に位置づける。これができるのは、その知覚をその他の体験の中に統合できるからである。《ライオンとは、ここでは結びである》 -《ライオン》という知覚全体を、過去に出会ったもの、動物園で見たものに結びつけることで私たちは判断を下する。『ライオンは動物である』―《ライオンは判断である》 -この判断が前提となって、一般概念である《動物界》から《ライオン》という特殊概念を導くのである。《ライオンは概念である》 結びつけ、判断し、絶えず概念形成していなければ、私たちは意識的な営みはできないし、言語を介して他人と相互理解をすることもできない。

▲《つまり、カーユスは死すべき存在である》(6)

《カーユス》を例に再度認識のステップが示される。通常の論理学と異なるのは、最初に結論(結び)が来る点である。通常の論理学の教科書的な例では、「カーユスは死すべき存在である」というのが、結論(conclusio)として思考の流れの最後に置かれている。

■ 人間の魂と霊の中での論理の進み方(7~14)

▲結びつけについて(7~9)

結びは、完全に目覚めた意識の中で行われるときに健全である。この認識は授業構成を考える上で根本的で重要な意味を持つ。できあがった結びつけ(結論)を子どもの記憶に押し込むと、子どもの魂を荒廃させてしまいる。こうしたやり方で訓練されてしまった子どもに対しては、できあがった結びつけ(結論)を《下位に》置き、今、その場での結びつけ(結論)を育てるように努めるといいであろう。

▲判断について(10~11)

判断は、当然のことながら完全に目覚めた営みに属する。しかし、判断は魂の夢想的領域、つまり感情の領域に属する。感情で判断を下しながら進んでいるのである。こうして、判断は―良きにつけ悪しきにつけ―習慣になる。日常的には判断は文章として表現される。つまり、教師が語る一つひとつの文章が子どもの魂の習慣になっていく。

▲概念の形成(12)

形成された概念は、魂の眠りの領域にまで降りていく。つまり、身体を作り出している魂の領域である。特に人相は、人生を送る中で次第に形成される(目覚めた魂は身体には働きかけない。また、夢見る魂は、しぐさとして表現される)。だから人間の顔には、その人がどのような概念を作り上げてきたかが現れている。また、子ども時代に注ぎ込まれた概念も現れる。このように《教育の力》が働く。

▲時代現象としての画一性(13~14)

シュタイナーの同時代人であるヘルマン・バールは、次のようなコメントを語っている。人間の人相がますます没個性的になっていて、人間を互いに区別できなくなっている、と。このような画一性が見られるということは、教育の著しく損なわれていることを示しているし、教育のどこから手をつける必要があるかが現れている。

■ 生きた概念(15~19)

結論、判断、概念はそれぞれ異なった意識状態にルーツがあるが、そのことを踏まえると、教育の中でそれらの扱いが異なるべきであるとわかる。結論は話し合いの中で培われなくてはならないし、身につくのは概念にまで実ったものだけである。 そのためには、生徒たちに死んだ概念《概念の死体》を植え付けるのではなく、生きた概念、つまり人間が成長し変容していくのと同じように、発展可能な概念を与えなくてはならない。死んだ概念の見本は定義である。定義の代わりに、対象をできるだけ多くの視点から見てその様子を記述すること、つまり特徴づけを行わなくてはならない。こうしたやり方は自然学の中で典型的に行うことができる。たとえば、いろいろな動物を別々に扱うのではなく、それら同士の相互関係や人間との関係で見ていくのである。 人間は、教育を受けても生き生きとしていなくてはならない。しかしながら、生きて動きのある概念の他に、いわば《魂の骨格》となるような一生変化しない概念にも正当な場がある。そのような骨格概念とは、人間の理念である。個々の生き物や世界についての生きた概念は、成長に伴って、人間と発展を共にできる。そしてそこに、ゆっくりと形成されていく人間という多面的な概念、そのまま残ってもよい概念が付け加わる。このようにして、世界の個別な事柄が人間と結びけられていく。あらゆる生きた物には、変化するという傾向がある。子どもの中に生き生きと植え付けられた畏敬、尊敬、祈りの雰囲気といったものは、年を経て晩年に至ると、祝福の能力に変容する。子どものころにきちんと祈ったことのない人には、歳を経ても祝福の力は現れないのである。

■ 誕生から成人までの三つの年代(20~24)

講演の始めに、誕生から青年期までを三つに分けることができ、またそれぞれに模倣、権威、自立した判断といった特徴がある点が述べられた。今度は人生の時間軸におけるそれらの現れ方が考察される。

▲第1・七年期と父なる世界: 世界は善きもの(21)

誕生前に霊界において、人は対象に没入する力を育んできたが、交歯までの子どもはまだその力に満たされている。その没入する能力の表れが模倣なのである。この第1・七年期での魂の基本的雰囲気では―全員がそうではないが―ほとんどの場合、無意識の前提がある。世界はすべてモラルに満ちている、と。こうした前提を教育に利用することができる。たとえば、モラル的な特徴づけである。-模倣の中には誕生前の営みへの方向性が息づいていた。この事実は、子どもには魂的・霊的な過去があることを示している。

▲第2・七年期 : 世界は美しい(22)

権威に浸る第2・七年期では、子どもは主にその瞬間に関心がある。動物的にではなく人間的に周囲の世界を楽しみつつ、現在を生きることができる。―それは授業においても同じだ。―ともすると教条主義的になりかねない授業であるが、芸術との生き生きとした関係でそれを避けることができる。子どもの持つ基本感情は「世界は美しい」である。授業は芸術に《浸され通して》いなくてはならない。たとえば、授業で対象をよく観るときにも、有用性の原則が中心になってはいけない。そうではなく、美的な要素を中心に据える。

▲第3・七年期 : 世界は正しい(23)

性的成熟を迎えてからは、「世界は正しい」が人間の無意識な前提になる。

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