2015年6月9日火曜日

『農業講座』第1講、コーベルヴィッツ、1924年6月7日(土曜日)

カイザーリンク伯爵への謝辞

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深い感謝と共に、カイザーリンク伯爵の言葉を振り返っています。 これはアントロポゾフィーから湧き上がりうる正当な感謝の気持ちというだけでなく、この困難な現代にあってアントロポゾフィーに関心を持つ人びとすべてが感謝を表明するはずであろう、アントロポゾフィーにおける真の感謝であり、また心の奥深くから感じることのできる感謝です。 そしてアントロポゾフィーの精神に基づき、ここで語られた言葉に心から感謝いたします。

■01-02

この農業講座をまさにカイザーリンク伯爵夫妻の館で催せますことに深い満足感を覚えます。 以前の訪問のときからわかっていますが、このコーベルヴィッツには霊的魂的な素晴らしい雰囲気があり、そしてまさにその霊的魂的な雰囲気が、これからお話しする事柄を素晴らしく準備してくれています。

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伯爵は、不都合を感じられる人もおられるかもしれないと言っておられました。これはオイリュトミーの女性たちを指すと思いますが、他の外からのお客さまも該当するかもしれません。しかし、私たちがここに集まった真の理由から見ればこう言う必要があります。今回の農業講座を開催するに当たって、これほど素晴らしいお手本のような農場に勝る場はないと。 アントロポゾフィーの世界で現われ出てくるものはすべて、それにふさわしい情感の雰囲気に浸ることを必ずその背景にしています。 その点から見れば、この場ではまさに農業にふさわしいものが現われ出ることができるはずです。

■01-04

これらいっさいを含めて、私はカイザーリンク伯爵家に心からの感謝を捧げます。また、この祝祭的かつ学びの日々をこの地で過ごすことができる点について、妻であるシュタイナー夫人もこの感謝に賛同するはずです。 私たちがこのコーベルヴィッツに集うことで、アントロポゾフィー運動と結びついた農業の精霊が、この祝祭の日々に力を発揮するであろうことに思いを\kana{馳}{は}せずにはいられません。 「来たるべき日」\footnote{社会三層化の理念によって設立された総合的企業体およびその出版社の名称。アントロポゾフィーの総合誌「ディー・ドライ」は最初ここから刊行された}から出発し、シュトゥットガルトで展開した農業運動の当初から、序言と実行と犠牲的な協力とによって支援してくださり、また農業と共に成長することによってその根底から培われた彼の精神を、農業関連分野で働かせたのは、このカイザーリンク伯爵でした。 それによって、私たちの運動の最も深いところから、ある力が働きました。その力が、伯爵が私たちを必要としたその瞬間に、このコーベルヴィッツにごく自然なかたちで私たちを引き寄せたのです。 一人ひとりがこの講座のためにコーベルヴィッツに来られたと私が確信できるのは、それゆえなのです。 こうした理由から、ここに来た私たちもまた同様に、カイザーリンク家の方からすでにご説明があったように、こうした活動をする私たちをこの数日間受け入れてくださることに喜んで感謝の意を表わさなくてはなりません。

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心の底からのこの感謝の念は、私自身も同様ですし、カイザーリンク家のみなさまにはこの感謝を受け止めていただくようお願いするばかりです。 何日もの間、このように手厚く、多くの訪問者を受け入れ、またそれができることが、どれほど大変かを私は承知していますので、この感謝にもそれ相応のニュアンスを込めたいと思います。また、都市から遠く離れたこのような館でこうした催しを行なうことの困難に巡らせた私の思いと共に、この感謝の言葉を受け取っていただけるよう、お願いいたします。 ここでの主催者であるカイザーリンク伯爵は、身内に向けてではなく外来のお客さまに向けての配慮から、さまざまなことが到らないと言われましたが、ここでのもてなしと接待に、どのような状況においても、私たち全員が満足してこの地を旅立つことを確信しています。

■01-06

講座自体にも同じように満足してくださるかは、おそらく今後も議論される別の問題です。それでも、後日さまざまな議論によって内容の理解を深めるべく、この数日ですべてを出し切ろうと思います。 多方面から長期にわたってこうした講座が希望されていましたが、今回初めて、アントロポゾフィー的努力を背景にそうした講座を引き受けました。そのことを、皆様にはお考えになっていただきたいと思います。 こうした講座では、多くのことが必要とされます。農業への関心はあらゆる方面につながり、人間生活の広大な領域にまで広がり、農業に属さない生活領域など存在しないことが講座の中で自ずと明らかになるからです。 何らかの側面、何らかの片隅から出発しても、人間の生活のあらゆる関心が農業領域に位置づけられていきます。 もちろんここでは、農業の核心部分にしか触れることはできません。 ただ、この核心部分は自ずとさまざまに枝分かれしていくでしょう。その理由はおそらく、ここで語られる事柄が完全にアントロポゾフィーを基盤にしているからです。まさにその理由によって、必然的にすべてにつながるのです。 ここで先にお断りしておかなくてはなりませんが、今日、導入として述べることはやや中途半端かもしれません。農業特有の問題とのつながりが、必ずしも誰にでもわかるわけではないと思われる地点までしかお話しできないからです。 らで述べることは農業とはかけ離れているように見えますが、これは基礎なので、さらなる話もその上に積み上げざるをえないのです。

近代精神は農業の出発点とはならない


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まさに農業もまた、近代的精神生活全体によって致命的な打撃を受けています。 この近代的精神生活は特に経済面において破壊的なかたちをとってきましたが、この破壊的意味合いはほとんど誰も予感していません。 そのような状況に対抗しようと意図したのが、私たちのアントロポゾフィー運動に発する経済活動です。 こうした経済活動は、実業家や商業家によって生み出されました。しかし彼らだけでは、その本来の意図だったものをあらゆる方面で実現することはできませんでした。こうした事柄に対する正しい理解を広げるに当たって、現代ではあまりに多くの妨害的な力が存在しますし、それだけの根拠でもこれは十分に困難だったのです。 実効ある力存在に対しては、個々人はまったく無力です。そのために今日に到るまで、アントロポゾフィー運動から生まれたこの種の経済活動における最も根源的な問題、つまり最も本質的な事柄が議論すらされていません。 現実には何が問題だったのでしょうか。

■01-08

一般論ではなく具体的に話すために、農業を例に説明しようと思います。 現在では、たとえばいわゆる国民経済に関するさまざまな書物や講演集があり、これらには社会経済から見た農業経済が論じられた章があります。 社会経済的諸原則からどのように農業を構築するかを考えています。 つまり、農業をどのように構築するかという社会経済学的理念を取り扱った書物はあるのです。 国民経済学では、その講演も著作もすべて明らかに無意味です。 その無意味なことが今日、広く行なわれています。 まず農業的事柄の基盤、つまりビート栽培、ジャガイモ栽培、穀物栽培の何たるかを知って、たとえ農業を社会形態として語るにしろ、初めて農業について語りうるのです。 それなくしては、国民経済的諸原則についても語りえません。 物事は事柄から把握されるのであり、何らかの理論的考察からではありません。 大学で農業に関する多くの国民経済学の講義を聴いた人は、事柄など固定的でわかったように見えるので、今日こうした話を聞いても馬鹿げていると思うだけです。 しかし、実際はそうではありません。農業については、畑、森、家畜の飼育をもとにしか判断できません。 事柄自体から引き出されたものではない国民経済に関するものなど、すべて捨ててしまう方がよいのです。 根なしである国民経済との関連で語られることは単なる言葉の遊びです。それに気づかないうちは、農業分野を含むあらゆる分野で意味ある洞察は得られません。

■01-09

人は、事柄を理解せずとも、さまざまな視点から物事を語れると思い込んでいます。その根源は、個々の生活領域においてすらもその基盤に回帰できない点にあります。 ビートがビートに見え、こんな形をしていて、切り易いのか切り難いのか、何色で、どのような成分を含んでいるか、などはいくらでも語ることができます。 しかしこれでは、ビートそのものはまったく理解できていません。とりわけビートと耕地の関係、いつ実るかといった季節との関係などがわかっていません。そうではなく、次のことが明確でなくてはならないのです。

磁針は地球との関連で理解される


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別な生活領域でしたが、こうしたことをわかりやすくするために、私はよくある喩えをしました。 磁針を見て、一方の先端はほぼ北を向き、もう一方は南を向くことを発見します。 そしてなぜそうなるかを考え、原因を探し、磁針の一方が北を向きもう一方が南を向くのは、地球全体と関係していることを見つけます。 磁針がこのような向きを示すことの原因を磁針自体に求めるなら、それは無意味でしょう。 磁針の向きについては、磁針と地球全体との関係を知って、初めて理解できるからです。

■01-11

磁針の場合にはただちに無意味とわかりますが、全体の関連を顧みずに有意味と見なされている事柄も多くあります。 ビートが地中で育っているとします。それをその狭い全体の中で、あるがままに捉えるでしょう。しかしその成長は、無数の状況に左右され、それどころか地球外の宇宙的な世界に存在するものにも左右されているとしたら、そうした考えは無意味でしょう。 今日の人びとは多くのことを、あたかもごく限られた範囲の物事だけに関係し、全宇宙からの作用とは無関係であると見なし、このように説明し、実生活でもそうした説明をしばしば取り入れています。 人間の個々の生活領域においてこうした状況に陥っていて、苦しんでいます。かつて人びとは学問ではなく本能を頼りに働いていましたが、そうした本能が残っていますから、近代の学問があってもそこまでひどくはなっていません。たとえばある男性が医師に、生理的に必要な肉やキャベツがそれぞれ何グラムと処方してもらいます。彼らの多くは傍らに秤を置き、これから食べるものを計量します。そうしたことも知っていなくてはいけないというのは確かですが、私はいつもこう考えざるをえません。つまり、食卓に盛られたものが足りないくらいで、腹八分目がよいという本能を持つ方がよいと思うのです。

実践では学問より本能の方が役立つことが多い


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このように本能とは人が為すべきことすべての根底にあり、学問より前にあります。 そしてこうした本能はしばしば非常に確実に役に立ちました。昔の農事暦や農事の決まりを読みますと、そこに記されたことが非常に賢く、わかり易いことに大変に驚くことでしょう。 それらが迷信的にならないのは、本能的に確実な人が居たからです。 種播や収穫については非常に意味深い格言が見られる一方で、生じうる愚行を避けるために、「鶏が堆肥の上で時を告げると、雨が降るか、あるいは天気が続く」といったものも見られます。 迷信に陥らないように、本能的なものの中にはいたるところにユーモアがあります。

■01-13

今、こうしたことがアントロポゾフィー的観点から語られますが、それはかつての本能に戻ることではありません。そうではなく、本能が与えてくれるものを、深い霊的な洞察から見い出そうとしているのです。また、本能が与えてくれるものは、ますます頼りなく、先細りになっています。 そのためには、植物や動物、さらには大地自体の生の営みの観察を強力に広げ、さらには宇宙的な側面にまで広げなくてはなりません。

■01-14

暴風と月の満ち欠けをありきたりなやり方で結びつけることはできませんし、それはまったく正しいのですが、別な面から見ますと、言い伝えられてきたことが正しい場合もあります。 別のグループにはよく話したことなのですが、かつてライプツィヒに二人の教授が居ました。一人はグスタフ・テオドール・フェヒナーで、精神的な事柄において確実な見識を持っていました。ですので、雨の降るとき降らないときが月の運行や月に関係することを、単なる外面的な観察を根拠としても、それを迷信と片づけることはできませんでした。 このことは統計的な研究から得られた必然でした。 しかし同僚である有名なシュライデン教授は、こうしたことから目を背ける時代に、学問的理性的根拠を持って、これらすべてを拒絶したのです。 ライプツィヒ大学のこの両教授には共に夫人が居ました。 グスタフ・テオドール・フェヒナーはユーモアのある人物でしたので、「これは妻たちに決めてもらうべきだ」と言いました。 さて、当時ライプツィヒではある習慣が残っていました。 洗濯のための水が簡単には手に入らなかったのです。 遠くから運んでこなければなりませんでした。 そこで\kana{瓶}{かめ}や桶を置いて雨水を溜めました。 これを両夫人ともがやっていました。 ところが場所が足りなかったので、桶を同時に並べることはできませんでした。 そこでフェヒナー教授はこう言いました。 「もし、尊敬する我が同僚の言うことが正しく、いつ桶を並べても差はないと言うのでしたら、シュライデン教授夫人は、私が月齢にしたがって調べた雨の少ないとする時期に桶を並べてください。そして私の妻は、私の計算で雨が降ると思われる時期に桶を並べさせてもらいます。 私の話がナンセンスだと言うなら、シュライデン教授夫人は喜んでそうしてくださるでしょう」。 その結果は、シュライデン教授夫人はこの申し出が気に入らず、自分の夫の言葉よりフェヒナー教授の計算にしたがって桶を並べたいと言いました。

■01-15

こんな話があったのです。 学問は正しい場合もありますが、実践にはこうした正しい学問の入り込む余地はないのです。 こうした話はやめにして、誠実に話をすすめましょう。 それでも、地上での物質的生活を可能にする唯一のもの、つまりそれは農業ですが、それをしっかりと見ようとするなら、今日の普通の視点よりもさらに深い視点を採らなくてはいけないという点に注意を喚起するために、このように言ったのです。

■01-16

今日アントロポゾフィーの立場から語ることが、あらゆる分野について満足しうるものであるかは私にはわかりません。 それでも農業に対し、アントロポゾフィーの立場から何らかを与えうるかを模索してみなくてはなりません。

宇宙リズムから人間はある程度解放されている


■01-17
以上を踏まえ、私たちの地上存在における農業にとって重要な話を始めたいと思います。 何かについて語るにしても、今日では多くの場合、化学的・物理学的成分を最重要視する傾向があります。 しかしここでは、化学的・物理学的成分から始めるのではなく、植物や動物の生活(生命)にとって非常に重要な意味を持ち、化学的・物理的成分の背後にあるものから出発したいと思います。 人間や動物の生活(生命)を観察しますと、それらは外界から非常に自立していると言えるでしょう。 人間に近くなればなるほど、より強く自立していると言えます。 人間や動物の営みの中には、地球外、あるいは地球を直接に取り巻く大気圏などの影響をまったく受けていないように見える現象もあります。 これはそう見えるだけではなく、特に人間の営みの多くにおいては、そうあることがまさに正しいのです。 大気的な影響によって、特定の病気が悪化することは知られています。 人間のある種の病気やその他の生命現象が、外的自然現象が示す時間的流れと類似した成り行きを見せることも、わずかではありますが知られています。 ただそのように一致していても、始点と終点はずれています。 最も重要な生理現象の一つである月経は、時間的には月の満ち欠けを再現していますが、始点と終点は一致していません。 男性女性の両性の生体には、自然リズムを再現している微妙な現象が数多くあります。

■01-18

物事により密接にかかわるならば、たとえば太陽黒点の周期をきちんと理解したなら、社会生活上の事柄もよりよく理解できるはずです。 しかし、社会生活上の事柄が太陽黒点の周期に対応するにしろ、太陽黒点の始点や終点からは独立していて一致しないので、人はこうした事柄になかなか目を向けません。 両者は同じ周期、同じリズムですが、時間的には一致しません。 社会生活上の事柄では自然現象の周期やリズムが内的に保たれているにしろ、自律化しているのです。 ある人に向かって「人間の営みはミクロコスモスで、マクロコスモスに従っている」と言いますと、「それはナンセンスだ」と反論するかもしれません。 「ある種の病気では、発熱周期が七日である」と主張しますと、その人は「そうだとするなら、発熱と同時に何らかの外的現象が生じ、両者が並行し、外的現象が消えると同時に発熱も終わるはずだ」と反論するかもしれません。 ……こうした発熱はこの反論のように振る舞うことはないにしろ、始点と終点が外的現象と同期していないにしろ、内的リズムは保持しています。

植物は宇宙リズムと結びついている


■01-19
宇宙において、人間ではこうした解放がほぼ完全に終わっています。 動物は人間ほどには解放されておらず、植物では地上の外的な自然も含め自然界全般の中に完全に組み込まれています。 それゆえ、「地上界の存在はすべて宇宙的出来事の残照である」という知見を考慮しませんと、植物の営みはまったく理解できないでしょう。 人間では宇宙からある程度解放されているので、宇宙的出来事が真似されるだけなのです。 人間には内的リズムがあるからです。 植物の場合は、徹底的に宇宙的出来事を写し出しています。 この点には、今日の序論で触れておきたいと思います。

ケイ素は宇宙とつながる


■01-20
さて、宇宙空間において地球はまず月に囲まれ、太陽系の諸惑星に取り囲まれています。 古代の本能的な学問では太陽も惑星に数えていましたので、その順は月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星でした。 さて、ここでは天文学的な論考はせず、惑星的営みの中で地上と関連する事柄に触れたいと思います。 地上的営みを巨視的に見るなら、考えうるものの中で最大の役割を地上的に果たしている事柄があります。私はそれを、世界におけるケイ素性物質の営みと呼びたいと思います。 ケイ素性物質は、角柱と角錐で囲まれた石英という美しい形態として現われます。 ケイ素性物質は水晶の結晶では酸素と結びついていますが、その酸素を除外して考えますと、それがいわゆるシリカ(ケイ素)です。 今日の化学においては酸素、窒素、水素、イオウといった元素がありますが、この物質、つまり酸素と結びついたシリカ、言い換えるとケイ素(Kiesel)は一つの化学元素です。 石英中でシリカとして活動しているものが、地球表層の27~28%を占めることを忘れてはいけません。 酸素は47~48%を占めますが、他の元素はこれよりは少ないのです。 つまりシリカは、非常に多量に存在しています。

■01-21

さて、このシリカは石英といった石の中に存在していて、外的物質、つまり土壌を植物の成長との関連で考察する際には……土壌のことを人はよく忘れています……、大きな意味を持たないかたちで現われます。 つまり、それは水に溶けないのです。 水は素通りしてしまいます。 つまり、表面的で月並みで一般的な見方では、たいした役割を果たしていないように見えます。 しかしスギナ(Equisetum)を見ますと、その成分中には石英中と同じケイ酸が90%(灰分中)、非常に繊細に分布しています。 こうしたことから、ケイ素ないしシリカが非常に重要であるに違いないことがわかると思います。 地上で出会うもののほぼ半数が、ケイ素成分なのです。

■01-22

さて奇妙なことがあります。このケイ素はほとんど注目されていませんし、ケイ素が非常に有効に作用しうる場でも、今日もなお完全に無視されています。 アントロポゾフィーから生まれた医学では、ケイ素性物質は多くの医薬品にとって重要な成分です。 多くの病気に対して内服あるいは浴用としてケイ素が処方されます。なぜなら症例の中で感覚の異常状態を示すもの、内部感覚内の異常ではないものの、諸器官内で痛みを呼び起こすもののほとんどが、まさにこのシリカによる影響だからです。 ……古くからの言い回しで……《自然界のやりくり》において、ケイ酸は非常に大きな役割を担ってきました。 それは、ケイ素がご承知のように石英などの岩石中に見られるだけでなく、非常に微細に大気中にも分布しているからです。つまりケイ素はいたるところに存在しています。 土として私たちに与えられているものの約半分、48%はケイ酸なのです(注)。 このケイ素の働きをご存知でしょうか。 仮説的にまさにこう問わなくてはなりません。
(注:内容)現在、地殻中の二酸化ケイ素含有率は59.8%とされる。その半分がケイ素の重量である。

■01-23

もし地球上に現在の半分しかケイ素がなかったら、すべての植物が多少なりとも角錐状のフォルムを取るでしょう。 花はすべて萎縮し、ほとんどの植物がサボテンのような異様なフォルムになるでしょう。 穀類は非常に変なフォルムになります。茎は下にいくにしたがって太くなり、肉質にすらなるのに対し、穂は萎縮し、完全な穂はほとんどなくなるでしょう。

植物と石灰質の関係


■01-24
これが一方の面です。 もう一方では、カルシウム性物質やその類縁、つまりカリウム、ナトリウムなどが、ケイ素性物質ほど広範ではないにしろ、地球上のいたるところに存在しています。 もしこれらが現状より少量しか存在しなかったら、きわめて茎の細い植物ばかりで、そのほとんどが茎を絡み合わせたツル植物ばかりになるでしょう。 花は周囲にばらばらに広がっていくでしょうが、結実せず、また何の栄養もないでしょう。 この二つの力が均衡し協調することによって、……二つの物質を代表として取り上げるなら……石灰性物質とケイ素性物質が協調することで、植物は私たちが目にするような現在のフォルムで繁栄できるのです。

■01-25

さてさらに先に進みましょう。 ケイ素性物質の内に生きるものは、すべて地球からの力ではなく、火星、木星、土星という外惑星に由来する力です。 これらの諸惑星から発するものが、ケイ素質やその類縁物質を経由して植物的営みに作用しています。 これに対し、月、水星、金星といった地球に近い惑星に由来する力は、石灰的なものを経由して地球上の植物や動物の営みに作用します。 ですからあらゆる耕地に対し、「この中にはケイ素質と石灰質とが作用している。 ケイ素質には土星、木星、火星の作用が、石灰質には月、金星、水星の作用がある」と言えるのです。

植物の自己保存と食用性という二重性



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さて次に、植物そのものを観察してみましょう。 植物の営みには二通りのことが観察されるはずです。 第一は、個々の植物種を含めたすべての植物が自己保存能力、つまり生殖力を持ち、自分と同じものを生み出しうる点です。 これが一つです。 もう一つは、植物が自然界の低次段階にあって、より高次段階の生命に栄養を提供している点です。 植物生育におけるこの二つの流れは、当面ほとんど何の相互関係もありません。 自然界の形成力は植物が次代、次々代へと発達していく経過に関連していますが、そうした自然界の形成力にしてみれば、私たちがその植物を食べると栄養になるかなどはどうでもよいからです。 ここに見られるのは二つのまったく異なる関心事です。自然における諸力の関連で見れば、内的再生産力や成長に関係するもの、植物の世代から世代へとつながっていくもの、それらは、月、金星、水星に由来し、石灰質を経由してやって来た宇宙から地球への作用です。 これを理解するためには、食用とはせず、単に世代を重ねていく植物で表面に現われていることを単純に観察してみましょう。すると水星、金星、月からの諸力による宇宙的作用だけに着目しているかのようであるとわかります。それらの諸力は地球上の植物存在の再生産に関与しています。

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しかし、植物が真の意味で食用になる場合、つまり植物内に動物や人間にとっての栄養素が作り出される場合には、火星、木星、土星がケイ素質を経由してかかわっています。 ケイ素質は植物存在を大宇宙にまで開かせ、植物の諸感覚を目覚めさせ、宇宙空間から発し、地球から遠い諸天体が形成したものを受け取らせます。これには火星、木星、土星が関与しています。 それに対し、月、水星、金星の領域からは植物を生殖可能にする能力が与えられます。 当面これらは単なる知識に思えるでしょう。 しかし、いくらか広い観点から得られたこうした事柄は、自ずから実践につながっていきます。

惑星的作用を仲介するもの



■01-28

月、水星、金星からの諸力が地球に入り込み、植物の営みで作用を及ぼします。このとき、何がこれを促進し、また何が多少なりとも抑制するでしょうか。 植物の営みに対する月や土星からの作用は、何が促進し、何が抑制するのでしょうか。こう問わなくてはならないことがおわかりでしょう。 \mysubsection{月は水を介して}

■01-29

一年の流れの中では雨の日と雨の降らない日があります。 現代の物理学者が行なう雨の研究では、雨天時には非雨天時より地上に多くの水が落ちるというだけです。 彼らは水を、水素と酸素からなる、抽象的な物質と捉えています。単に水素と酸素からなる物質なのです。 水を電気分解しますと、二つの物質に分離し、それぞれが独自の活性を示します。 しかしそれだけでは水の持つすべてを語り尽くしてはいません。 化学的には酸素と水素ですが、水はそれ以上のものを秘めています。 たとえば、月からの諸力に地球上での道筋をつけるためには水が最も適していて、水が地球圏において月の諸力を分配しています。 地球上の水と月とには、ある種の関係があります。 何日かの雨が終わって、その後で満月になると仮定します。 満月の時に月からやって来る諸力によって、地上ではある偉大なことが生じます。 植物成長全体にこの諸力が差し込むのです。 もし満月以前に雨の日がなかったら、この月からの諸力は植物に差し込むことができません。 「何らかの関連で雨が降り、それを満月が照らした後で種子を播くことには意味があるのだろうか、それとも何も考えずにいつでも種子を播いてよいのだろうか」。これは取り上げなくてはならないテーマです。 確かに芽は出すでしょうが、「雨と満月光の後での播種は適切か」という問いは吟味してみる必要があります。なぜなら、ある種の植物では、満月からの作用とされるものが、雨の日の後では豊かで強く、太陽が照らした後ではわずかで弱々しいからです。 古くからの農民のしきたりにはこうした事柄がありました。 言い伝えによって何をすべきかがわかりました。 言い伝えは今日では迷信とされ、こうした事柄についての満足のいく学問はまだありませんし、ここで立ち止まってはいけません。 \mysubsection{土星は熱を介して}

■01-30

次に、地球は大気圏に囲まれています。 この大気圏は気体的である他に、温かくなったり冷たくなったりします。 特定の時期には大気がかなりの熱を集積し、その緊張が過度になりますと、嵐によってそれを放出します。 さて、熱によって何がどうなるでしょうか。 霊的に観察しますと、水はケイ素に対しかかわりを持ちようがありませんでしたが、熱はケイ素に対し非常に強い結びつきを持つことがわかります。そしてケイ素的なものを介して作用しうるまさにこの諸力は、ある特別な作用を及ぼしますし、この諸力こそ土星、木星、火星に由来する諸力なのです。 土星、木星、火星から発せられるこの諸力を見るにあたっては、月の諸力を見るときとはまったく違う観察法で見なくてはなりません。 なぜなら「土星の公転周期は約30年で、月齢の周期は30日、あるいは28日である」という点を考慮しなくてはならないからです。 つまり、土星は15年間しか見えません。 土星と植物の成長との関連はまったく異なっています。 土星は、地球を上から照らしているときだけでなく、その光が地球を通り抜けざるをえないときでも作用します。

■01-31

土星が30年かけてゆっくり周回しているのですから、この図のように、ここに土星の軌道があり、土星がここにあるときには地球上のある点を直接に照らし、ここではまた地球上のこの地点に地球を通して作用しています。

土星が30年かけてゆっくり周回しているのですから、この図のように、ここに土星の軌道があり、土星がここにあるときには地球上のある点を直接に照らし、ここではまた地球上のこの地点に地球を通して作用しています。 ここで、土星的諸力が地球上の植物の営みにどれくらい強く作用しうるかは、常に大気の熱状態に影響されます。 冷気では土星の諸力は届かず、暖気では届きます。 この土星の諸力が行なっていることは、植物の営みのどこに見られるのでしょうか。 土星が地上の熱の力を借りて行なう作用は、一年のうちに芽生え、枯れ、種子を残す一年生植物の生育においてではなく、多年生植物において見られます。 この熱を介して植物に入る諸力やその作用は、樹木の樹皮に見られますし、多年生植物を多年生植物たらしめているものすべての内に見られます。

多年生植物と外惑星の関係

■01-32

植物の一年だけの命や植物の短い寿命は、短い公転周期の諸惑星と関連しているからです。 それに対し、こうした現われては消える状態から脱却させ、樹々を樹皮で包み、それらを多年化する作用は、たとえば30年の土星、12年の木星といった長い公転周期の惑星の諸力が、寒暖を仲介にやってきています。 したがってアイヒェ(ヨーロッパミズナラ)を植える際には、火星周期をよく知っていることが意味を持ちます。 アイヒェを火星が相応の位置にあるときに植えますと、何も考えず自分の都合で植えた場合とは成長が違ってくるからです。 あるいは皆様が針葉樹林をお持ちなら、土星の諸力が大きな役割を果たしますから、いわゆる土星上昇期での植林と、別な時期での植林ではまったく違った結果になります。 こうした事柄を見通している人なら、植物が成長したがっているか否かを見て、植林の際にこうした諸力を理解していたか否かを正確に言い当てられます。 一般には明白ではない事柄も、生の営みを深く理解した人には白日の下にさらされるからです。

農業は宇宙とのつながりを再考する必要がある

■01-33

例としてこう仮定してみましょう。宇宙の運行を理解せずに植えられた木を薪にして燃やしたとしましょう。すると、正しい理解と共に植えられた木を燃やした場合のような健康な暖かさは得られません。 日常生活と密接にかかわる事柄の中にこうした事柄が入り込んでいるのです。まさにこうした点にそうした事柄が非常に大きな意味を持ちます。しかし、今日人びとはほとんど何の考えもなく生活しています。 こうした事柄を考えないですむことを人びとは喜んですらいます。 相応の装置を作り、ネジを巻いて動くのと同じに、あらゆる事柄が機械のように進行するはずと思っています。 こうした物質主義のやり方にしたがって、自然界すべてが運行していると考えているのです。 しかしこれによって人びとは、実生活において重大な事柄にすでに足を踏み入れてしまったのです。 こうして重大な謎にぶつかりました。 私が幼少期に食べたようなジャガイモを、今日ではなぜ食べられなくなったのでしょうか。 私はあちこちで試しましたが、実際、そうなのです。 昔、私がそれを食べた場所へ行っても、もはやそうしたジャガイモは食べられません。 時の流れと共に、多くのものにおいて内的栄養力が著しく衰えています。 ここ数十年、これは非常に顕著です。 その理由は、私が今日、導入としてご紹介した道筋で再び見い出されなくてはならない、宇宙における親密な作用を、人がまったく理解していないからなのです。 私は、今日では見当も付かないような問いを提示しました。 私たちは、これをさらに考察するだけではなく、深化させ、実践に適用するのです。

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