2015年6月9日火曜日

『農業講座』第3講、コーベルヴィッツ、1924年6月11日

自然界の諸活動についての特別拡張講義:自然界における霊性の作用

■03-01

すでに述べましたように、農業という枠内で見れば、地球や宇宙における諸力は、地上の物質を介して作用しています。 明日以降、実践的な話に移るにあたって、今日は次の問いをきちんと考察することで話がつなげていきます。 「前に述べた宇宙的諸力や地上的諸力は、どのように地上の物質を介して作用するだろうか」。 ここで私たちは、自然の活動そのものにまで話を広げなくてはなりません。

■03-02

農業生産に関する最も重要な問いの一つが、農業生産全体に対する窒素の意味とその影響です。 そしてまさに今日、窒素作用の本質への問いがまったく混乱してしまっています。 窒素が働くあらゆる場において、人はその働きの枝葉末節、一番表面的なところしか見ていません。 窒素が作用する自然界全体の関連までは見ていませんし、自然領域内に留まるかぎり、それを見ることもできません。 それを見るためには、自然領域の彼方まで視界を広げ、宇宙における窒素の振る舞いに目を向けなくてはなりません。 ……これはこれからの話の中で取り上げますが……、 窒素それ自体としては植物の営みにさしたる役割は果たしていません。 しかし植物の営みを理解する上では、まず窒素の役割を知らなくてはなりません。

■03-03

窒素が自然存在に作用するに当たって、いわば四人の兄弟がいます。 いわゆる自然の営みにおける窒素の働きや意味を把握したいなら、同時にこの四兄弟の働きを知る必要があります。 この四兄弟は窒素と結びつき、外的自然科学にとっては意味を図りかねる仕方で動植物タンパク質に存在しています。 炭素、酸素、水素、イオウです。

■03-04

タンパク質の意味を完全に知るには、その最重要成分である水素、酸素、窒素、炭素を取り上げるだけでは十分ではなく、タンパク質に意味深い作用を及ぼす元素、つまりイオウも加えなければなりません。 なぜならイオウは、タンパク質内にあって、世界に遍在する霊的なもの、つまり霊による形成力と物質との仲介者だからです。 それゆえ物質界で霊の動きの痕跡をたどろうとするなら、イオウの活動を追わなければいけないとすら言えるでしょう。 他の元素も含めて、こうした活動は表には現われていませんが、イオウは最も重要な意味を持っています。 イオウという道筋を通って、霊が自然界の物質に作用するのです。 イオウはほとんど霊の担い手だからです。 イオウの古い名前はズルファー(サルファー)ですが、これはフォスファー(リン、光の担い手)と関係しています。 イオウが古代にこう呼ばれたのは、光の中に、広がっていく光の中に、太陽のような光の中に、広がりゆく霊を見たからです。 それゆえ、物体中に光が入り込み、作用する際に関係するこのイオウやリンという元素を「光の担い手」と呼んだのです。

■03-05

自然の収支におけるイオウの活動は非常に微細ですので、まずそれ以外の炭素、水素、窒素、酸素という四兄弟を観察し、それらを真に理解することによって、これらの元素の宇宙全体での位置づけを捉えるのが一番よいでしょう。 今日の化学者は、これらの元素について多くは知らないからです。 化学者は、実験室内でこれらの元素が表面的にどう見えるかは知っていますが、宇宙の活動全体における内的な意味はまったくわかっていません。 これらの元素について知られている知見は、喩えて言うなら、道を通り過ぎる人を写真に撮り、その写真を頼りに外見を思い出しているという程度でしかありません。 これらの元素についてはその本質を深く知る必要がありますが、今日の学問がやっていることは、シャッターを切る程度のものでしかありませんし、これらの元素についての専門書や講義の内容はたいしたことは言っていません。

■03-06:炭素

まず炭素から始めましょう。……植物への応用は自ずと明らかになります……。 この炭素は非常に高貴な地位にあったものが、近代になって大変に落ちぶれてしまいました。 ……恐ろしいことに、他の宇宙的存在も後には同様な道筋をたどりました……。 人は炭素を、ストーブにくべるもの、つまり石炭と見なしています。 鉛筆のグラファイトだと思っています。 炭素のある同素体は今でも高貴なものとされています。ダイヤモンドです。しかしなかなか買えませんから、高貴さをさほど感じてもいません。 現在、炭素について知られていることは、宇宙におけるもの凄い意味からすればきわめてわずかです。 この黒い奴は、数百年前まで、つまり比較的近年までは非常に高貴な名前で呼ばれていました。《賢者の石》と呼ばれたのです。

■03-07

「賢者の石とは何か」については、いろいろなおしゃべりがありました。 しかしこうしたおしゃべりからはたいしたものは得られていません。 かつての錬金術師やそれに類する人々が言う《賢者の石》とは、さまざまな現われ方をする炭素を意味していたからです。 何が賢者の石なのかを彼らが秘密にしたのは、そうしないと誰もが賢者の石を手に入れてしまうからでした。 しかし、これは炭素でした。 ではなぜ炭素が賢者の石だったのでしょうか。

■03-08

これについては古い観方から答えることができますが、これは今日でも炭素について知っておくべきことです。 自然界における炭素は、何らかの過程を経て石炭やグラファイトといった固まりになって姿を現わします。 しかし、そうしたことは無視し、その活き活きとした活動、つまり炭素が人間身体、動物身体をどのように通り抜けてきたか、さらには炭素が自分自身の諸関連からどのように植物体を作り上げてきたかなどを捉えますと、通常、人が炭素について思い浮かべる無形態状態は、自然界の営みにおける炭素のなれの果て、死体に見えるでしょう。

■03-09

つまり炭素とは、自然界における形態形成プロセスの担い手なのです。 比較的短時間しか存続しない植物の形態にしても、あるいは永遠の流転に組み込まれた動物の肉体の形態にしても、何かが形態化する際には、炭素は偉大な造形家として働きます。 この偉大な造形家は、単なる黒色の物体ではなく、 内的運動と共に完全な活動状態にあるときには、形態形成する宇宙像、自然界における形成の素となる偉大なる宇宙像に満たされています。 そして自然界で形成されるすべてが、こうした宇宙像から必然的に現われ出て来るのです。 炭素の中には隠れた造形家が活動していて、この隠れた造形家は自然界で作り出されるべきさまざまなフォルムを形成する際に、イオウを使います。 自然界において炭素を正しい意味で観ようとするなら次のように見なくてはなりません。 宇宙における霊の活動が、イオウによっていわば潤いを与えられつつ造形家として働き、炭素の助けにややしっかりとした植物のフォルムを作りあげ、さらには発生と共に崩壊が始まる人間フォルムを作りあげていく様子を見るのです。 そしてまた人間は、植物とは違い、炭素を酸素と結びつけ炭酸にして排出することによって、発生しつつあるフォルムをただちに無化できるので、人間でありうるのです。 炭素は、人間の身体をちょうど椰子のように硬く作ろうとするので、……炭素は私たちをそれくらい固めようとしています……、そこですぐに呼吸がそれを崩します。この炭素を固化から引きはがし、酸素と結びつけ外へと導きます。 これによって私たちは人間として不可欠な可動性を伴って形成されるのです。

■03-10

しかし植物内での炭素は、特定の方法で形態保持作用をしていて、一年生植物の場合ですら植物体をある程度しっかりさせます。 古い格言では人間について「血液はじつに特別な液体だ」と言っていますが、それは確かに正しく、人間の自我は血液の中で脈打っていて、自我は血液において肉体的なかたちでも表現されています。 しかし、より正確に述べるなら、このイオウによって潤された道筋に置かれ、波打ち、力を振るい、自らを形成し、その形態を再び解消していく炭素は、人間の血液内で活動する霊的なもの、自我と呼ばれるものと同じなのです。 人間自我が人間の本来の霊性として炭素の中に生きているのと同じように、いわば宇宙霊における宇宙自我と言えるものが、イオウという回り道をして、自らを形成しさらに解消していく炭素の中に生きているのです。

■03-11

地球進化のかなり初期の段階では、炭素とは唯一分離されたものでした。 たとえば石灰的なものが加わったのは、後の時代になってからで、その石灰を人間は、硬いものを作り上げるための下地として、しっかりとした骨格を作り上げるために利用したのです。 これによって炭素内に生きるものを動かすことができるようになり、人間は石灰質の骨格として、土台となる固なるものを作りあげました。 これは、少なくとも高等動物では同じことが言えます。 これによって人間は、石灰形成から抜け出し、動きのある炭素形成に上昇したのです。 ちなみに石灰形成とは、単に鉱物的で固まったものであり、地球にも存在し、硬い《地》的なものを内に持つために人間もまた自身に組み込んだものです。 骨格形成における石灰において人間は、自らの内にしっかりとした《地》を持つのです。

■03-12

すべての生き物の根底には、多少なりとも固まっているか、多少なりとも流動的かの炭素的骨組みがありますから、これが作られる経路では宇宙からの霊性が活動していることがおわかりでしょう。 事柄をわかりやすくするために、完全にシェーマとして図を描かせてください。 霊性がイオウを助けに作り上げた骨組みをこの青で描きます。 これは絶えず交代する炭素か、固定化した炭素の骨組みです。 交代する炭素の中には大変な希釈度で活動するイオウが含まれていますし、炭素の骨組みでは、植物でそうであるように、他の元素や添加物が混ざり、多少なりとも固化しています。

■03-13

人間、あるいは何らかの生命あるもの観ますと、……これは私たちの集まりではしばしば取り上げていますが……この生命あるものには、生命の本来の担い手であるエーテル的なものが浸透していなくてはなりません。 ここで生命あるものにおける炭素的骨組みには、さらにエーテル的なもので貫かれていなくてはなりません。その結果、この梁状の骨組みにエーテル的なものがより静かにしっかりとつくか、あるいは多少なりとも流動的なものとしてそこで動いています。 これをはっきり捉えるために、き農業を設かにする諸条件わめて図式的に描いてみることをお許しください。 しかし、エーテル的なものは骨組みの全体に広がっていなくてはなりません(図の緑)。 つまり、この骨組みがあるところには必ずエーテル的なものがなくてはならないと言えます。

■03-14

さて、このエーテル的なものをもしそれだけとして取り出しても、そのものとしては物質的地上では存在しえません。 もしこの物質的な担い手が居なかったら、いわば無になってすべてを通り抜けてしまい、物質的地上界においてそれを捕まえなくてはならないはずのものも、掴むことができないでしょう。 地上に存在するものすべてについて言えることは、霊的なものは常に物質的な担い手をもたざるをえないという点です。 ここで物質主義者はこの物質的担い手のみに注目し、霊的なものを忘れています。 私たちがまず出会うのはこの物質的担い手ですので、彼らはけっして間違っていません。 しかし彼らは、霊的なものがいつでも物質的担い手を持たざるをえない点を見落としています。 このエーテル内で作用する霊的なものの物質的担い手は……エーテル内には低次の霊的なものが作用していると言えます……物質的担い手はエーテルに浸透されていますが、エーテルも言わばイオウに潤され物質的なものの中へ導かれます。 そして、その物質的なものに、形態形成や骨組み構築ではなく、この構造体に永遠の動きや生命をもたらします。 イオウの助けによってエーテルから命の作用をもたらす物質的担い手、それが酸素なのです。 これを酸素において、また物質的側面から捉えますと、酸素において、また酸素への道筋において波打ち、振動し、揺れる本性であるエーテル的なものを表現しています。 そう捉えますと、私がここに緑色で描いたものをイメージすることができるでしょう。

■03-15

エーテル的なものはイオウを助けに酸素という道筋を通って動きます。 これによってはじめて、呼吸プロセスに意味を持ちます。 私たちは呼吸プロセスを介して酸素を取り入れます。 今日の物質主義者は、酸素と言っても水を電気分解して試験管に得られる酸素についてしか語りません。 私たちが酸素を取り入れるためには、空気中の酸素は死んでいなくてはなりませんが、そのように殺されていない場合には、酸素の中にはいたるところに超感覚的なものの中で最も低位のエーテルが生きています。 私たちが生きた酸素によって失神してしまわないように、呼吸する空気の酸素は殺されています。 もし私たちの中により高次の生命が入り込みますと、私たちは失神します。 私たちの中に起きる過剰な増殖でさえ、それがふさわしくない部位で生じますと、失神したり、もっとひどいことになります。 生きた酸素を含む生きた空気に取り囲まれたなら、完全にぼんやりと歩き回るでしょう。 私たちのまわりの酸素は殺されていなければなりません。 しかし酸素とは生まれながらにして生命の担い手、つまりエーテルの担い手なのです。 酸素は、諸感覚のまわりにおいて人間を外的に取り囲む役割を果たしています。 しかし、この役割から離れますと、酸素はただちに生命の担い手になります。 体内では酸素が生きることが許されているので、呼吸によって酸素が体内に取り込まれますと、再び命を持ちます。 私たちの内側で循環している酸素と、外側で私たちを取りまく酸素は、同じではありません。 私たちの内部では生きた酸素でしたが、大気から地中に入りますとやはり生きた酸素になります。ただ地中の酸素の生命性は、人間内や動物内ほど高次ではありません。 それでも生きた酸素になるのです。 地下の酸素は地面より上の酸素と同じではありません。

■03-16

こうした事柄について、物理学者や化学者たちと理解しあうのは難しいです。 彼らの方法では、いつでも酸素を地上的なものから切り離して取り出さざるをえず、それゆえ死んだ酸素しか得られないからです。 それ以外ではありえないのです。 物質的なものだけを志向する科学はどれもこうした状況です。 そうした科学は死体しか理解できないのです。 現実には酸素は生命あるエーテルの担い手であり、この生命あるエーテルが酸素を支配し、操作しています。 その際、エーテルはイオウという回り道でこれを行なっています。

■03-17

地上において私たちの手が届きうる最高度の霊性、つまり人間の自我あるいは植物ではそこに働く宇宙霊性が、その働きを見せてる炭素による骨組みについて、私は今、……言わば隣り合わせとして……述べました。 人間の呼吸を見ますと、そこには人間内で現われる生きた酸素があり、これはエーテルを担っています。 さらにその背後には炭素の骨組みがあり、これは人間では動的です。 これらは互いに向き合わう必要があります。 酸素は、骨組みが事前に示す道筋に沿って動くことができなくてはなりません。 炭素の霊性が引いた何らかの線に沿って行くことができなくてはなりません。 さらにまた自然界のいたるところで、エーテル的酸素的なものは霊的炭素的なものに向かう道を見出せなくてはなりません。 これはどのように行なわれるでしょうか。 何が仲介するでしょうか。

■03-18:窒素

ここでの仲介者は窒素です。形態が炭素によって受肉し、その形態の中に窒素が生命を導き入れます。窒素とは、それが現われるあらゆる場で、ある役割を担います。霊性はまず炭素的なものにおいて形を得ますが、その霊性に生命を仲介するのがその役割です。動物界、植物界、地中など、いたるところで窒素は酸素と炭素の橋渡しをしています。ここでも霊性がイオウの助けによって窒素内で活動しますが、それはアストラル的霊性です。それは人間のアストラル体内におけるアストラル的霊性であり、またこれは植物や動物などの営みに作用する地上的外界のアストラル的霊性なのです。

■03-19

霊的に言いますと、このように酸素と炭素の間にアストラル的なものを置き、そのアストラル的なものは窒素を用いて物質的なものに自らを刻印付けるのです。窒素が存在するところでは、どこでもアストラル的なものが広がっていきます。もし窒素が炭素の骨組みに対して非常に強い引力を持たなかったら、エーテル的生命的なものは雲散霧消しまい、この炭素の骨組みにはまったくかかわれなかったはずだからです。炭素において道筋が付けられたところならどこでも、窒素が酸素を、窒素内のアストラルがエーテルを導きます (図の黄色)。この窒素は偉大な導き手で、生命を霊性へと導きます。それゆえ、人間内の窒素は魂的なもののにとって本質的で、単なる生命と霊性とを介する仲介者なのです。
 

■03-20

この窒素は、本来、非常に素晴らしいものです。 もし人間生体において窒素の道筋をたどりますと、それは完全に人間の形になります。 窒素人間があるのです。 もしこれを取り出すことができたなら、それは考えうるかぎりの美しい幽霊になるでしょう。 なぜなら窒素は、人間の硬い構造を完全になぞっているからです。 もう一方で窒素は、生命の中にも直接に流れ込んでいます。 ここで呼吸プロセスをのぞき込むことになります。 呼吸プロセスを介して人は、酸素、つまりエーテル的生命を自分の内に取り込みます。 炭素とは、活動し変転し形態化するものでしたが、ここでその炭素のある場所に酸素を引き込む内的な窒素が登場します。窒素はそこに酸素を運び、それによってこの炭素的なものを抱え、さらに先へ進むように促すのです。 酸素が二酸化炭素になり、それが呼気として吐き出されるのを仲介しているのは窒素なのです。

■03-21

この窒素は、あらゆるところで私たちを取り巻いています。 つまり私たちのまわりには、酸素、つまり生命の担い手が少量と、アストラルの担い手つまり窒素が多量にあります。 私たちにとって周囲の酸素は、日中だけでなく夜も絶対に不可欠です。 しかし呼吸としては窒素はわずかにしか必要としないので、窒素に対しては、昼夜を通し尊敬の念が足りないかもしれません。 しかしこの窒素とは、私たちに対する霊的な関係を持つものなのです。 可能性としては、次のような実験があります。

■03-22

まず、人間を密閉空間に入れます。容器内の空気から少量の窒素を抜きとり、人間のまわりの空気の窒素濃度を通常よりいくらか少なくするのです。 この実験を注意深く行なえたとしますと、空間内の窒素が、外側から補われずとも人間の内側から補われることがわかるはずです。 窒素の量が通常状態になるように、人間が自分の窒素を放出しているはずなのです。 人間としての私たちは次のような役割を担うことになっています。 私たちの内的全存在と周囲の窒素との間に正しい比率を作り出す働きです。 外部の窒素がより少なくなっては都合が悪いのです。 窒素は呼吸には必要としませんし、いつでも十分なはずなので、かえって好都合です。 そこにある霊的関連とっては、現状の空気中に存在する量の窒素がどうしても必要です。

■03-23:植物とアストラル

窒素は、霊の中に強く入り込み作用することがおわかりになったと思いますが、次にこの窒素は植物の営みに不可欠であると考えられます。 大地に生える植物には物質体とエーテル体しかなく、動物が持つアストラル体はその中にはありません。 しかし、アストラル的なものは外側から植物をぐるりと取り巻いているはずです。 アストラル的なものが外側から植物に触れなければ、植物は開花しないでしょう。 動物や人間がアストラル的なものを内に持つのとは異なり、植物はそれを内には持ちませんが、外側からそれに触れられている必要があるのです。

■03-24:窒素の感受性

アストラル的なものはいたるところにあり、その担い手である窒素もいたるところにあります。 窒素は空気中では死体となって漂っていますが、地中に入り込んだ瞬間にふたたび生命を持ちます。 酸素が地中で生命を持つのと同じように、窒素も地中で生命を持つのです。 この地中の窒素は単に生命を持つだけでなく、……このことは特に農業では考慮すべきことですが……、 物質主義によって奇形化した今日の脳にしてみればパラドクスに聞こえるかもしれませんが、この窒素は生命を持つだけでなく、感受性をも持つようになるのです。 窒素はまさに神秘に満ちた感受性の担い手となり、この感受性が地上の営み全体に流し込まれるのです。 窒素は、ある地方の水の量が適正かを感じ取ります。 水の量が適正であれば窒素はこれに共感し、少なすぎればこれに反感を持ちます。 またその土地に適した植物があればこれに共感する、等々です。 このように窒素は、あらゆるものにある種の感性的な営みを注ぎかけるのです。

■03-25

土星、太陽、月等々の惑星が植物形態や植物の営みに影響する点を私は昨日までの講義で述べてきましたが、そうしたことは誰も知らないと言えるでしょう。 通常の生活では、誰もそうしたことを知らないことはご存知でしょう。 しかし、あらゆるところに存在する窒素は、それをまったく正確に知っているのです。 窒素は、諸天体から放射され植物の営み、さらには大地の営みに作用するものについて、無意識ではないのです。 人間の神経感覚系にとって窒素は感受し仲介するものです。同様に、窒素は感受し仲介するのです。 窒素は本当に感受の仲介者です。

■03-26

あたかも流れ動く感受作用のようにあらゆるところを動き回る窒素に目を向けますと、自然の微妙な営みをのぞき込むことができます。 そして窒素の扱いが植物の営みにとって非常に重要であることわかるのです。 これらは当然、以後の考察の対象になります。 しかしここでは、先に別なことを述べておかなくてはなりません。

■03-27

霊性から発したものは、まず炭素において骨組みとしての形態を取ります。 次にアストラルから発したものが窒素的なものにおいてその骨組みに命と感受を満たします。 そしてその生命の中には酸素的なものが作用しています。 これらの活き活きとした共同作用をご理解いただけることでしょう。

■03-28:水素

これらすべてが地上において共働するにあたっては、別な何か、物質界に対し彼方の宇宙とのつながりを作り出す何かが、それらを貫き通しています。 地球が固まったものとして他の世界と分離して宇宙空間を運行することなど、地球にとってはあってはならないからです。 もし地球がそのようでしたら、それはあたかも農場の人が、外の農地に生えるものを一切無視して孤立を守るのと同じです。 理性的に考えれば、そうはしないでしょう。 この圃場には、今たくさんの作物が育っています。 しばらくすると、それらは参加者のみなさんのお腹に入るでしょう。 そしてこれらは、ある道筋で再び圃場に帰ります。 私たちは人間として他から分離することはできはしません。そうではなく、私たちは周囲の世界と結びつき、そこに属しているのです。 私の小指が私のものであるように、そのまわりにあるものも当然人間全体に属します。 そこには絶え間ない物質交代がなければなりません。 同様に、そこにあるあらゆるものを含んだ地球と、宇宙全体との間にもそうしたつながりがなくてはなりません。 地上で物質的形態をとって生きるものすべては、宇宙空間に帰ることができなければならず、いわば宇宙空間で純化され浄化されえなくてはなりません。

■03-29

つまり、このようになります(図)。 まず私が青で描いたもの、つまり炭素の骨組みがあります。 緑色の部分はエーテル性の酸素です。 さらに、いたるところで酸素から出発し、さまざまな線で窒素によって仲介されるものがあります。 これが、アストラルとして形成されたもの(黄色)、炭素と酸素の橋渡しをするものです。 窒素が、緑の線で模式的に示唆されているものを青い線に導き入れる様子はいたるところで示すことができます。

■03-30

さて、生物内で繊細な構造として形成されたものは、再び消滅できなくてはなりません。 霊性は消滅しませんが、霊性が酸素から生命を引き寄せ、炭素において構築したものは消滅します。 これらすべては、ふたたび消滅できなくてはなりません。 単に地球上で消失するだけではなく、宇宙の中へ、宇宙空間の中にまで出て消滅できなくてはなりません。 これはある元素が行なっています。 それは物質的なものとも、霊的なものとも、考うるかぎり類縁です。 それは水素で、……これは物質的にも最も繊細であるにもかかわらず……、実際、その中では物質性が完全に崩壊し、イオウに運ばれつつ、渾然一体たる宇宙空間に流れ込んでいくのです。

■03-31

霊性はそうした諸形姿をとりつつ物質化し、さらにその物質体内にアストラル的に生き、そのアストラルの写しの中に霊性、自我として生きていると言えるでしょう。 そこにおいて霊性は物質的な仕方で、物質に変容した霊性として生きています。 しばらくすると、そこは霊性にとって居心地がよくなくなります。 そして霊性は自らを解放しようとします。 このとき霊性は、ここでもイオウを利用しつつ、再びある元素を必要とします。 その元素の内にあって霊性はあらゆる規定、あらゆる構造から離れ、渾然一体たるカオスの宇宙空間に入り込みます。 そこではもはや、いかなる機構も存在しません。 霊的なものにも、物質的なものにも非常に近い元素とは、水素なのです。 何らかの形態を与え、命を吹き込むアストラル的なもの、それらすべてを水素は担い宇宙の彼方の高みにまで運びます。 それによって、前に述べたように、アストラル的なものが再び宇宙空間から再び取り込まれうるような作用をするのです。本来、水素はすべてを解消します。

■03-32

ごらんのように、ここには五つの元素、イオウ、炭素、水素、酸素、窒素があり、これらは生命の領域で、また一時的に死に、見かけ上の死の領域で作用し動き回っています。 これらすべての元素はある特定種類の霊性と内的なつながりを持ち、通常の化学が言うものとはまったく違っています。 今日の化学は元素の死体について語っているだけです。 実際の元素については何も言っていません。 これらの元素を感受するもの、生きたものとして学ばなくてはなりません。 水素は最小の原子量で、まずは見かけ上も最も微かなものなので、まさに水素とは、霊性がもっとも少ないものなのです。

■03-33

瞑想では、人はいったい何をしているかご存じでしょうか。……こうしたことは、いい加減な精神と捉えられてしまってもいけませんので、ちょっと補足しておかなくてはなりません……。 東洋人は、これを東洋人のやりかたで行なってきました。 中部ヨーロッパの私たちは、私たちのやり方でこれを行ないます。 私たちは、呼吸プロセスには間接的にしか頼らない方法で瞑想を行ないます。集中や瞑想の中に入り込みそこで活動します。 ところが、魂的な修練を積む方向で私たちが何かを行ないますと、たとえそれが非常に微細で繊細なものであっても、それらに対応することが必ず身体の側にも生じます。 呼吸の規則正しい動き、つまり人間の生に非常に密接に関連する何かが、非常に繊細ではありますが、瞑想によって変化させられます。 瞑想中は、通常の目覚めた意識プロセスのときよりも、二酸化炭素をいくらか多く体内に保持します。 常にいくらか多めの二酸化炭素が体内にとどまるのです。 邁進する日常生活では大量の二酸化炭素を常に同じくらい排出していますが、瞑想時にはそこまで吐き出しません。 いくらかを内側に留めます。 私たちを完全に取り囲む窒素に向かって、多量の二酸化炭素を吐き出しはしないのです。 いくらかを内に留めます。

■03-34

さて、机などに頭を強くぶつけますと、みなさんはその時の自分自身の痛みを意識します。 しかし、優しく撫でますと机の表面を意識するでしょう。 瞑想もこれと同じです。 みなさんを取り巻く窒素の体験の中に徐々に入り込めるようになります。 これが瞑想時に実際に起きていることです。 すべてが認識され、窒素の中に生きるものも認識されます。 窒素は非常に賢く、窒素は感じ取ったことを知ってもいるので、水星、金星などの行ないを教えてくれるのです。 こうした事柄はすべて完全に現実の出来事です。 ……幾つかのことについてはより詳しく触れたいと思いますが……、こうした内的な瞑想の行では、農業に対してすでに何らかの関係が得られ始めています。 この問題は、特に私たちの友人、シュテーゲマン氏が興味を持たれていました。 つまり、魂的・霊的なものと私たちを取り囲むものとの共働作用なのです。 農業に携わる人が瞑想しうるなら、それは決して悪いことではありません。 瞑想によって人は、窒素の開示に対し敏感になります。 窒素の開示に対しますます敏感になっていくのです。 そのように窒素の開示に対し敏感になりますと、そうでない場合と比べ、営農行為のスタイルと意味づけがまったく違ってくるのです。 突然にあらゆることがわかります。 浮かび上がってくるのです。 農園や農場で逆巻いている諸力についての秘密をすべてを知るのです。

■03-35

これまで数時間の話をくり返すことはできませんが、それでも違った風に内容を性格づけようとは思います。 学者から見れば学があるとは思えない農夫が、圃場を歩いていると思ってください。 学者は「農夫は愚かだ」と言いますが、実際はこれは正しくありません。 その理由は単純で、農夫とは……失礼な言い方かもしれませんが……本来瞑想家であるからなのです。 彼が冬の夜に毎晩瞑想することは、非常に多くの意味があります。 彼は、霊的認識の獲得と言える何らかをすでに身につけています。 ただ彼は、それを言葉で語ることはできません。 しかし霊的認識が突然に現われるのです。 圃場を歩いていると、突然に認識がやって来ます。 何かを知り、それを後に試みます。 子どもの頃、私は農夫と共に生活していましたが、少なくともその当時、私はこれを経験していましたし、これはまさにそうなのです。

■03-36

本来は、こうした事柄に結びつかなくてはなりません。 単なる知的作業は無意味です。 それでは深みには到りません。 こうした事柄に結びつけられなくてはならないのです。 自然界の生命と活動は非常に繊細で、大雑把な悟性的理解では捉えられません。 現代にあって、学問はこの過ちを犯しました。 現代学問は、ずっと繊細に織りなされている事柄を大雑把な悟性的理解で見通そうとします。 イオウ、炭素、酸素、窒素、水素といった元素がタンパク質で一つ合体していることはご存知でしょう。 ここで私たちは、種子形成をこれまで知られた以上に正確に理解できるでしょう。

■03-37

炭素、水素、窒素は、それらが葉、花、つぼみ、根の中にある場合には、常に何らかの形で他の元素と結びついています。 これらはそうした他の元素に従属し、自立はしていません。 それらが自立するには二つの道しかありません。 その一つは、水素がそれらすべてを宇宙の彼方に運び去り、個々的な特性を消し去り、すべてを普遍的カオスに解消してしまうという道で、 もう一つは、水素的なものがタンパク質素材を小さな種子形成の中に追い込み、そこでタンパク質を自立させ、宇宙からの作用に対し感受性を持つようにさせるかです。 小さな種子形成にはカオスがあり、周辺全体にもカオスがあります。 そしてここで、種子内のカオスと宇宙の彼方のカオスとが相互に作用するはずです。 こうして、新たな生命が生まれます。

■03-38

本来は霊性の担い手であるいわゆる元素、これらの作用が自然界でどのように現われるかを見てみましょう。 人間内では、酸素や窒素の作用はかなり秩序だっています。酸素や窒素の諸性質はその秩序正しさの中で生きています。 ただ、見かけ上これらは自然の内に隠れているので、通常の学問ではここまでは到りません。 しかし炭素や水素から派生したものはそれほど秩序正しくは振る舞うことはできません。 まず炭素を取りあげましょう。 植物界から動物、人間界へと移行しますとその作用が失われます。動物、人間界ではまさに炭素がまず一時的に有効になる必要があります。 そうなってから、しっかりとした形態を作り出すために、より基盤の深い骨組みを作り上げる必要があります。 そのより基盤の深い骨組みとは、非常に深い骨組みである石灰系の骨組みの中にあり、また、私たちが常に内に持つケイ素系の中にもあります。 その結果、人間や動物の内部では、炭素が持つ形態形成力はある程度、背後に隠れています。 炭素は、石灰やケイ素の形態形成力を踏み台に上へと昇っていきます。 石灰は地上的形成力を、ケイ素は宇宙的形成力を炭素に与えます。 人間や動物内においては、炭素は必ずしも常に単独で効力を発揮しているのではなく、石灰やケイ素が形成するものに頼っているのです。

■03-39

しかし石灰とケイ素は植物生長の基盤でもあります。 人間の消化、呼吸、循環プロセスすべてにおいて、また骨格形成やケイ素的構造との関連において、炭素がどのように展開するかについて認識を深めなくてはなりません。 人間内に潜り込め、さらに循環プロセスが見られるとしたら、そこで炭素形態形成がどのように石灰やケイ素の中に輝き込んでいくかを、より深く認識しなくてはなりません。 上は植物に覆われ、下には石灰やケイ素を含む地表を見渡すときには、こうした観方を育てなくてはなりません。 人間の内部は覗き込むことはできません。 しかし大地については認識を育てなくてはなりません。 酸素系が窒素系に捉えられ、炭素系の中に引き下ろされる様子を認識できなくてはなりません。 ただし炭素系が、石灰系やケイ素系を頼りにしているときにだけ、そうなります。 こうも言えるでしょう。それは(酸素系?)は炭素を通り抜けていくからであると。 さらにこうも言えるでしょう。 周囲に生きるもの、酸素系として命を与えられるものが、ここで地中に取り込まれなくてはならないと。 酸素系は窒素の助けで大地の深みに送り込まれなければなりません。 それ(炭素)がそこで、石灰質の中で自らを形成しつつ、ケイ素系を頼りにすることができるようにするためです。

■03-40:マメ科について

そして、必要な感受性や受容力さえ備えていれば、こうしたプロセスはマメ科植物(legminose)において素晴らしい形で観察されます。 このマメ科植物とは、実際、農業でも窒素収集者と呼ばれ、窒素を引き付け、地下に受け渡すことが知られています。 マメ科植物を観察すると次のように言えます。 人間の肺が酸素を必要とするのと同じように、地下には窒素を必要としている何かがあることがわかります。 それが石灰質なのです。 肺が酸素呼吸のためにあるに、地中の石灰質はある種の窒素呼吸のためにある、と言おうと思います。 そして、マメ科植物は、上皮細胞上で起きることと似た働きをします。 吸気では、それ(窒素?)は下方に行きます。 これを行なうのは、本来、この種の植物だけです。 その他の植物では、吸気ではなく呼気の側がすべてです。 このようにして、私たちの考察では植物界全体が、言わば二つに分かれていきます。 窒素に注目し、一種の窒素呼吸として見ますと、植物界全体が二つに分かれるのです。 マメ科植物の生えている場所には、いわば呼吸の通り道があり、それ以外の植物が生育する場には、ずっと神秘的な意味の呼吸を行なう、別な役割を果たす植物があるのです。

■03-41

次のような課題があります。 植物界という全体的有機体の中で、個々の植物種をそれぞれの位置づで観るのです。 それは、人間有機体全体の中で個々の器官がそれぞれ位置づけを持っているのと同じです。 個々の植物種を、ある全体の部分と見なせるようでなくてはなりません。 そのように見ますと、マメ科植物の持つ大きな意味がわかるのです。 確かに、こうしたことはすでに知られています。 それでもこれらの事柄を、今述べた霊的な背景から認識する必要があるのです。 そうしないと、残された伝統はますます失われ、それを新たなに応用するにしても、完全に間違った道に陥ってしまう危険が生じる可能性があるからです。

■03-42

マメ科植物の働きは次のように理解できます。 結実傾向を見ますと、他の植物ではそれがより上方に偏っていますが、マメ科ではそれが葉の領域にあります。 花が咲く前に稔ろうとするのです。 マメ科植物で、開花の前に稔ろうとする傾向がいたるところで見られます。 その理由は、窒素質の中に生きるものが、マメ科植物では地面に非常に近い側に保たれているからです。 ……これらの植物は実際、窒素質を大地に運んでいます……。 他の植物では窒素質が大地から離れたところで展開するのに対し、マメ科植物では大地に近い側で働きが強まっています。 ご存じのように、マメ科植物の葉は、通常よりいくらか緑色が暗い傾向があります。 またマメ科植物では本来の果実部分がある意味で退化していて、種子の発芽能力が短命ですぐに発芽能力を失うこともご存知でしょう。 つまりマメ科植物は、夏ではなく、冬において植物界が持つものに向けて組織されているのです。 したがって、これらの植物は常に冬を待つ性質を持つ、植物から展開してくるもの(葉や花の意味か?)と共に、冬を待ちたがっている、と言ってよいでしょう。 これらの植物が必要としているものが十分に見つかりますと、成長がゆっくりになります。つまり、空気中の十分の窒素で、これをマメ科植物は独自のやり方で下方に導くことができます。

■03-43:石灰について

地上や地下で起きている事柄の生成や営みを覗き見るための方法が、このやり方なのです。 これに加えて、石灰質が人間の欲望世界と非常に似ていることがわかりますと、すべてが有機的で活き活きとすることがおわかりになるでしょう。 石灰は、元素としてのカルシウムでも、まったく落ち着いていません。酸素と結びついて石灰になりたいと感じています。 しかし石灰になっても満足せず、あらゆるもの、あらゆる金属酸、さらにはもはや鉱物ではない涯青までも取り込もうとします。 石灰はすべてを自分に引きよせたがり、地中で真の欲望的本性を展開しています。 感じる力がある人ならば、他の物質との違いがわかるはずです。 石灰は何かを吸い込みます。 石灰質は実際に欲望的本性を示し、その広がりは植物的なものを引き付けるものが広ががりと重なることをはっきりと感じます。 それは、石灰質が求めるものがすべて植物内に生きているからです。 植物内に生きるものは、絶えず石灰質から引き剥がされなくてはなりません。 それは何によって引き剥がされるのでしょうか。 それは気高きもの、何ものも求めない気高きものによってです。

■03-44:気高きもの、ケイ素

何も求めず、自己に安息する気高きものがあります。 それはケイ素です。 ケイ素は自分自身内での安定に達しています。 鉱物的な硬い輪郭を持つ物の中にだけしかケイ素質が存在しないと考えるなら、それは間違いです。 ケイ素質はホメオパティー的希釈度でいたるところに存在し、自己内に安息し、何も要求しません。 石灰質はすべてを求め、ケイ素質は何一つ求めません。 知覚器官は自分自身は知覚せず、外界だけを知覚しますが、ケイ素質はちょうどそうした知覚器官のようです。 地上的なものにおいて、ケイ素質は一般的な外的知覚感覚であり、石灰質は普遍的な外界欲望で、粘土がこの両者を繋いでいます。 ただし粘土はややケイ素質に寄りですが、それでも石灰質に橋渡しをします。

■03-45

こうしたことは一度、見通しておいた方がよいでしょう。 それによって感受性を伴った認識に達するからです。 石灰質を欲望小僧と感じ取るこれるのが望ましいでしょう。 なぜなら、石灰質こそすべてを自分のところへもぎ取ってこようとするものだからです。 またケイ素は、気高い紳士であって、石灰質によってもぎ取られたすべてを奪い返し、大気圏的なものの中に運び、そして植物フォルムを形成します。 ケイ素は、スギナといった城のようなところに籠城するか、あるいは、薄まった状態の非常に繊細な仕方で、それはしばしばホメオパティー的な希釈度ですが、あらゆるところに存在して、石灰質から何かを取り返すものとして作用します。 ここでも、自然作用が非常に密接に作用し合っていることがおわかりでしょう。

■03-46

炭素はあらゆる植物の中で、本来の形態形成者、つまり骨組みの形成者です。 しかし地球進化の中で、炭素にとってこのことが困難になりました。 もし炭素の他に水しか存在しなければ、炭素はすべての植物を形成できたはずです。 そうであればすべての植物が成長したはずです。 ところが、そこに石灰質が入り込み、炭素を妨害したのです。 石灰による抵抗を克服しなくてはならず、炭素はケイ素と結びつき、両者が粘土として一体になり、これが再び形成にかかわります。 こうした状況下で、植物はどのような営みを行なっているのでしょうか。

■03-47

植物は、下では石灰質の触手に捕えられ、上ではケイ素質によって繊細で細長く繊維質のように、つまりちょうど水生植物のようにされようとしています。 しかし中間部は本来の植物フォルムを形成しつつ、すべてを秩序に収める炭素が働いています。 そして、私たちのアストラル体が自我とエーテル体の間で秩序を作りあげているように、アストラル的である窒素がその中間で働いています。 石灰質は絶えず下に向かってため込もうとし、ケイ素質は絶えず上に向かって放射しようとしています。 この石灰質と粘土質・ケイ素質との間で、窒素がどのように活動しているかを学び、理解しなければなりません。

■03-48

ここで次の問いが生じます。 「正しく窒素分を植物界にもたらすにはどうしたよいか」。 明日はこの問題を取り上げ、さらに肥料の問題への橋渡しをしていこうと思います。

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